養母の思い出

坂井昌子

  私は坂井昌子といいます。昭和20年中国山西省に生まれ、中国名韓翠珍と呼ばれました。実母は私が生まれるとすぐ亡くなりました。父は大変苦労したようでした。友人の紹介で後の養母馬玉蓮とその一家が私の家で生活することになりました。父は6年後、一人で日本に帰りました。その時から馬玉蓮さんは私の母となったのです。そして隣の村、西賈村に移り住みました。農村でしたので、中国語の勉強には苦労しました。
 小学校への入学の時、言葉が出ないので「小日本鬼子」と言われ、毎日、母親の前で泣いていました。母は「翠珍、大丈夫よ、勉強しようね」と言い、頭をなで、涙を拭いてくれました。
 生活苦の状況は、日本人には想像も出来ない悲惨なものでした。母は「翠珍は一生懸命勉強しなさい。そして、早く東洋(日本)に帰りなさい。」と言いました。食物もない、金もないのに、私を中学校、師範学校に進学させてくれました。学校に行っても弁当を持っていけないのが現状でした。
 私が太原師範学校の二年生のある日、母は「体の具合が悪いので、医者の診察を受けてくる。」と病院に行きました。帰ってきた母は「翠珍、私の病気は治しようがないのだそうだ。おまえの将来が心配です。おまえのお父さんとの約束が守れず、本当に申し訳ない。学校は絶対卒業するように。私の呼吸が止まったら又連絡が行くでしょう。だから、私の看病は不要だから、勉強を続けなさい。絶対に勉強を止めてはいけません。」
母の言葉を聞いた時、私は涙で母の顔が見えなくなりました。私は母に逆らい、学校を休む事にして母の看病をしました。病状は一日一日悪化し、とうとう52歳で亡くなりました。
 母と別れて41年目の今日、日本語弁論大会に出場して、心の底に秘めていたことを母に報告します。
 お母さん、貴女の夢は実現しました。8年前に帰国出来ました。そして今の幸せは、貴女から貰ったものです。貴女の勇気、努力そして生き方は、私の中に永遠に生きています。困難に出会ったとき、悩み事がある時、いつも貴女の言葉を思い出します。「翠珍、頑張りなさい。日本に帰ることを思えば苦しくないでしょう。早く日本語を覚えて、日本に帰り、お父さんを安心させ、一生懸命に孝行しなさい。それが私の一番の喜びなんですよ。」
 お母さん、父はすでに、亡くなっていましたが、日本に帰ってきました。今は病院に勤め、清掃、老人介護、配膳をしています。
 私のお母さん、どうぞ、安心して下さい。そして、あなたは世界一のお母さんです。お母さん安らかにお眠り下さい。

※この手記は、第13回中国帰国者日本語弁論大会(長野県)で、県知事賞を受賞した、坂井昌子さんのものです。この弁論大会については、長野県日中友好協会のホームページをご覧ください。