ブラジル人の子どもたちは、どのようにアイデンティティを変容させるのか?

−4人の子ども達のエスノグラフィ―を通して−

光長 功人(奈良教育大学大学院修了) 田渕 五十生(奈良教育大学社会科教育教室)

How do Brazilian children transform their identities?
--Through an observation of their re-adaptions into Brazilian life --

MITSUNAGA Norito ( Nara University of Education)
TABUCHI Isoo (Department of Social Studies Education)

    Since the Alien Registration Law was promulgated and enforced in 1990, the number of Brazilian nationals who came to Japan has increased. Now some of them started going back to Brazil and coming back to Japan.     This means that the number of ” Brazilian returnee students ” will be increased.
This paper has following three objects. First is to explain how these two countries are different in the sense of maturity of multiculturalism and to refer to how it affects transformation of returnees’ identities. Four classifications are established. “Japanese “, ”Brazilian”, ”Bi-cultural”, and ”Marginalized”.
    Second is to analyze how they can transform their identities in Brazil after going back from Japan according to time and to extract the factors to promote and obstruct for them to obtain their identities. 
    Third is to extract the factors that can make them possible to bridge the gap between two cultures. The definition of identities in this paper is to set oneself in the society. 
    Specifically participant’s observation and interview were carried out for four returnees in local school near Sao Paulo city for three months. 
    From the interpretation and analysis, it can be said that returnees can obtain their identities as Japanese easier ,if they visit Japan in early childhood, and the classrooms in Japanese school have atmosphere to accept cross culture, and returnee’ families had Japanese culture in Brazil. But the fact that Japan is less matured in multiculturalism and its rigid educational system can obstruct for returnees to obtain their identities as Japanese.
    On the other hand, the Brazil’s maturity in multiculturalism and its flexible educational system can promote for returnees to obtain their identities as Brazilian. But the opacity of Brazilian society and the parents as roll model can obstruct for them to do it.
    Finally returnees can obtain their identities as bi-cultural person if they can consent where to live and if they can use their bi-cultural resources in their families.

キーワード:

エスニック・マイノリティ(Ethnic Minority)

アイデンティティ(Identity)

ディアスポラ(Diaspora)

ハイブリディティ(Hybridist)

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1.はじめに

1.1 問題意識
現在日本に住む定住外国人の6割がニューカマーと呼ばれる人たちである。この中でも、南米からの日系人の割合が近年急増している。ブラジル人は、その中で最大のグループである。これは、1990年の「出入国管理及び難民認定法」(入管法)の改正・施行以後のことである。この法律改正により、日系人の2世・3世まで、日本で就労できることとなり、その家族も日本に住むことができるようになった。当時日本では、バブル経済の絶頂期であり、人手不足が深刻であった。また南米での経済破綻もこの動きに拍車をかけた。
 日本労働研究機構研究所の調査員である佐野(1998)は、1993年と1998年の2度にわたって出稼ぎ経験者の意識調査をブラジルで行った。その結果、リピーターによる出稼ぎが増加中であることが明らかになっている。
 具体的には、日本への出稼ぎが「2回以上」あるとするリピーターの回答は、1993年調査では16.3%に止まったが、1998年調査では34.0%と倍以上に増加している。佐野の言うとおり、今後もリピーター層が増加すれば、二つの国の間を行き来する子どもたち、すなわち「ブラジル版帰国子女」も増えることとなる。本論文では、この「ブラジル版帰国子女」を対象としてその帰国後を調査し、アイデンティティの変容を追うことにする。日本で彼/彼女らの教育に携わる学校・親・地域社会・本人のいずれにも、ブラジル帰国後の彼/彼女らがどのようになっているのかということについては、ほとんど情報がない。まさに手探りの状態であろう。
まず生活面で、「日本で積み上げてきた経験が無駄になるのでは」という心配がある。そのほかに言語面では、「せっかく身につけた日本語能力は維持できるのか」という問題がある。また母語であるポルトガル語を忘れてしまっている子どもたちについては、「ブラジルで困るだろう」という確信もある。しかしその心配は、生活面や、生活におけるツールである言語面の基礎となる、アイデンティティの問題にまでは、その関心がまだ及んでいない状態である。

 

1.2 用語の定義
自らの体験を通して、「社会の中の存在証明」を研究する石川(1999)は、アイデンティティを、「社会への自分の位置付け」と説明している。]
本論文では、この石川の説に基づき、自分を位置付ける社会を「日本」と考える人を「日本人」、「ブラジル」と考える人を「ブラジル人」と呼ぶ。同様に、「両方」と考える人を「二文化人」、「どちらでもない」と考える人を「境界人」と呼ぶ。また適応について、「社会へ自分を位置付け」ることとする。

1.3 本論文のねらい
本論文のねらいは、次の三つである。
第一は、ブラジルと日本の多文化社会としての成熟度の違いを明らかにすることである。そのため、エスニック・マイノリティの概念を適用し、それぞれの多文化社会としての成熟度の違いについて言及する。彼/彼女らは、日本に来たときと同様の問題だけでなく、異なる問題にも直面しているはずである。そして彼/彼女らが帰国するブラジル社会が彼/彼女らのアイデンティティの変容にどのように影響するのかを分析する。
第二は、彼/彼女らがアイデンティティを獲得する過程に着目し、それを促進または阻害する要因について分析する。
この観点からの専攻研究として、村田(2000)と江原(2000)をあげることができる。村田は、「日本人」「ブラジル人」という枠組みを、また江原は「日本人」「ブラジル人」「その中間」という類型を提示している。しかしこれらの先行研究は、ブラジル国内の広範囲にわたるものであったが、訪問時の一度きりの調査であった。筆者は、本研究で子どもたちのアイデンティティが、どのように時間的に変容するのかを見ていきたい。
第三に、二つの文化間の移動を可能ならしめる要因を明らかにすることである。彼/彼女らが、適応上のハンディキャップをどのように受け止めているのか、そのハンディキャップを克服する要因について分析する。
研究方法として、参与観察とインタビュー調査を用いる。筆者は2001年3月から6月まで被調査者が通う現地校A学園の寮に住み込み、学校に3ヶ月間研修生として通い、授業を受け、被調査者4人を観察し、インタビューを行った。また、2001年11月、2002年2月に学校を訪問し、また一部の生徒については、家庭訪問も行った。

 

2.日本におけるブラジル人は、
エスニック・マイノリティか

2.1 エスニック・マイノリティの特徴
サンフランシスコに住む日本出身の若者のアイデンティティを分析した戴(1999)は、エスニック・グループについて、「それ自体がマイノリティではない。ある文化遺産を歴史的に共有している集団にすぎない」と述べている。確かにエスニック・グループは、数的にはマイノリティである。しかし男性と女性の関係に見られるように、数の多寡によりマイノリティとなるわけではなく、権力関係においてが真の意味でマイノリティとなるのである。つまり、エスニック・マイノリティとは、彼らの持つ異質な文化習慣によりマジョリティから周辺化され、差別されている社会集団なのである。
国際人口移動問題に詳しいS・カ−スルズとM・J・ミラー(1996)は、エスニック・マイノリティの特徴として、次の四つを挙げている。
@複雑な社会における従属集団
A社会の支配者集団によって低く見下されている独特な肉体的あるいは文化的特徴を持つ
B一方で、言語・文化の共通性及び歴史・伝統・運命を共有しているという感情を持ち、他方でホスト社会内での共通の地位を有しているということから結束している自覚的集団である。
Cエスニック・マイノリティのメンバーであるという意識は、ある程度まで次の世代まで代々伝わって行く。
この四つを日本におけるブラジル人に適用すると次のようになる。

 

 従属集団として、日本には、明治以後におけるアイヌや琉球民族、20世紀初頭からの旧植民地からの人々が含まれていた。単一民族国家として認識されがちな日本社会の中に、彼/彼女らはマジョリティの日本人から一段低い存在として位置付けられることが多かった。そこへ新たなる従属集団として加わったのが、ブラジル人などに代表されるニューカマーということになる。文化的特徴として、彼/彼女らはポルトガル語を話すことがあげられる。また混血の日系人や、日本人の血を引かない日系人の配偶者などは、見た目に明らかに日本人と異なる風貌を持つ者もいる。
ホスト社会内での共通の地位としては、彼/彼女らの多くが母国でのキャリアに関係なく、日本人の若者が嫌っている3Kと呼ばれる職業に就くことがあげられる。  
そして住宅を人材派遣会社に頼っていることが多いことや、家賃の安い公営住宅に住むことが多いため、集住地を作りやすい傾向にある
 マイノリティ意識が世代間で引き継がれるかどうかは、出稼ぎが本格化して10年しか経過しておらず、今後の動向を見守ることとなる。
 このように、日本におけるブラジル人は、エスニック・マイノリティを形成しつつあると言える。

 

2.2 エスニック・マイノリティ形成の四段階
 またS・カ−スルズとM・J・ミラー(1996)は、エスニック・マイノリティ形成を次の四段階に分けている。
@第一段階:若い労働者の一時的な労働移民が主で、海外送金と母国への帰国志向が強い段階
A第二段階:滞在の延長と、血縁や出身地域の共通性と新しい環境における互助の必要性に基づいた社会的ネットワークの発展する段階
B第三段階:家族呼び寄せの開始と受入国への関与の増大にともなう長期定住の意識が高まり、独自の機関(協会、店、飲食店、代理店、専門職)を持つ、エスニック・コミニティの出現する段階
C第四段階:永住の段階となるが、受入国政府の政策や人々の違いいかんでは、永住権が法的にあたえられ、安全な地位や市民権獲得ができるか、あるいは政治的排除や社会的経済的に周辺に追いやられ、永久にエスニック・マイノリティに閉じ込められるかのいずれかの道に分かれる段階。
 このことを現在の日本におけるブラジル人の状況に適用すると、次のようになる。
 第一段階として、1世の日本帰国やブラジルで困窮した2世の出稼ぎがあげられる。
 第二段階として、群馬県、静岡県、愛知県などに、ブラジル人の集住地が形成された時期がある。
 第三段階として、先に挙げた集住地にブラジル人のための食料品店などが現れる。また情報化社会が進展する現在では、エスニック・メディア(ethnic media)の出現などにも見られる。
 そして最後に、第四段階として、彼/彼女らが世代を通じて、マイノリティ意識を継承するかどうかの分岐点である現在の日本社会の状況が指摘できる。
現在の日本の状況は、まさに彼/彼女らがエスニック・マイノリティとなるかどうかの最終段階と言える。

 

2.3 今後の展開 還流へ 
 移住システム論を展開するマーシー(1998)は出入国管理に関わる以下の四つの命題を提示した。
@国際移民は一度始めると、送出地域にネットワークが広がって、そこに住むすべての人にとって移住が困難でなくなるまで、時とともに拡大する傾向がある。
A2国間の移住の規模は、両国の賃金格差や受入国の失業率に、それほど左右されない。なぜならネットワークが発達することにより、移動に要するコストやリスクを低減する方が、受入国の不景気を上回る要因となるからである。
Bネットワークの形成・発展により国際移住が制度化されるにつれて、当初作用していた構造的ないし、個人的な要因とは無関係に移住が続くようになる。
C移住の流れがひとたび形成されると、政府はそれを規制することが難しくなる。ネットワークの形成過程は政府が規制できるものではなく、またどのような政策が遂行されようと、形成されるからである。具体的には、移民を入国させることにより得られる利益を考えると、取り締まりを厳しくしても国際移動の闇組織ができるだけの結果となる。また出入国管理政策を厳しくすると人権団体からの抵抗にあうことになる。
 前述の佐野(1998)は、ブラジル人の出稼ぎ意識の変化について次の5つをあげている。
@出稼ぎの目的・理由
不動産取得目的の出稼ぎから、日本を知るための出稼ぎへ意識が変化してきている
A帰国後の仕事
帰国後、自営業を営む者の増加が見られる。
B帰国後の現地収入
本国のインフレの沈静化により、ブラジルでの収入が増加している
C渡航費用の捻出方法
出稼ぎリピーターの増加により、渡航費用を自己負担できる者が増えた
D再出稼ぎの意欲
帰国後の現地経済に一定の見通しがついたため、新たな出稼ぎ意欲の減退につながっている。
以上を総合して考えてみると、一定数の帰国層があり、同様に一定数の新来出稼ぎ層があり、大多数は彼/彼女らの意向とは裏腹に、日本定住を余儀なくされ、全体としては今後もブラジル人の還流は、続くと考えるのが妥当である。

 

3.ブラジルにおける日系人は、
エスニック・マイノリティか

3.1 共生するさまざまなエスニック文化
ブラジルでは、ブラジル人であることと、日本文化を継承することは矛盾しない。それは次の二つの理由による。第一は、ブラジルの国籍法による。これにより、ブラジルで生まれた子どもには、ブラジル国籍が付与される。したがって2世以後は、ポルトガル系であろうが、ドイツ系であろうが、日系であろうが、アフリカ系であろうが、「同じ」ブラジル人として生活の場を共有できるのである。
第二は、ブラジル社会では、確固たるナショナル・アイデンティティが未だ存在していないからである。広くブラジル社会を多面的に研究する田所(2001)は、ブラジル人のナショナル・アイデンティティを次のように説明している。「東西融合、南北癒着の、肌の色、出自、料理法、宗教などがないまぜになった多様、多彩な『多民族国家』がまぎれもなく成立しており、いわばそうした国籍不明なクレオール文化の中で、いまだ形成途上にあると言わざるを得ない(中略)国民共通の物語を国民挙げて創造するのが刻下の急務となっている」
このように、日本人的な資質は、ブラジル人としての広い定義の中に組み込まれてしまい、対立する要素になり得ないのである。
 生涯に渡りブラジル日系人を研究し、自他共に認める日系社会のスポークスマンであった斉藤(1976)は、ブラジルにおける日系人の立場を次のように記している。
「結論から先に云えば、ブラジルの日系社会は、少数民族ではないのである。少数民族、つまりethnic minority が、存在するためには、それと対立する majority と対決する形が永続性を持つ傾向を伴わなくてはならない。そして、両者の境界線が画然としており、かつ、両者の交流が一方通行でなくてはならない。(中略)なるほど、この国には、日本人の顔つきをして、ブラジル人とは趣の違った文化を持つ人間の集団がある。しかし、この集団はそれ以外の集団から強制されてできた集団ではなく、自然的に作られたグループにすぎない。日系人社会の集団とブラジル社会を隔てる物は何も存在せず、またアメリカ合衆国における日系人社会の外部に対する交流が one way であるのに対し、returnableである」。
また日系移民のエスニシティの研究をライフ・ワークとする前山(2001)は、「マイノリティ」という言葉について次のように述べている。「社会学や文化人類学の学術論文でブラジル社会のエスニシティを扱ったものにこの語が用いられることは稀である」。
これらの言葉からわかるように、日系人はブラジル社会の中で、エスニック・マイノリティではない。

 

3.2 ベリーの四類型
 日本とブラジルのそれぞれにおける異文化適応について、移民を受け入れる社会の違いを説明するために、ベリーの四類型を紹介する。ベリー(1997)は、マイノリティの文化受容の戦略を、自らの文化的アイデンティティの保持と周囲との関係で説明した。以下にベリーの概念図を紹介する。

図 1 ベリーの四類型

用語の説明は以下の通りである。
@「統合」(integration):文化的アイデンティティの保持がされたまま、異文化集団との関係も良い状態
A「同化」(assimilation):文化的アイデンティティが放棄され、異文化集団との関係が良い状態
B「離脱」(separation)「差別」(segregation):文化的アイデンティティの保持がされているが、異文化集団との関係が良くない状態
C「境界化」(marginalisation):文化的アイデンティティが放棄され、異文化集団との関係も良くない状態
この図で、それぞれの軸が円の外に出ているのは、それぞれ四つの戦略の境界が必ずしも明確でないことを示している、また周囲が丸くなっているのは100%同化や100%離脱という状態があり得ないことを示している
日本では、ブラジル人の子どもたちの多くは、AかCの状態におかれる。大阪の府立高校で国際理解教育に取り組む佐々木(1995)は、日本の学校における外国人の子どもたちの教育について、次のように述べている。「学校では日本人の子どもと同じような行動がとれるようにという指導が多く、子どもが自然に日本の社会を理解していくプロセスがない」。このように、自らのアイデンティティを維持することが困難なのである。この状態は、「同化」である。また日本人らしく振る舞ったとしても、外見上の明らかな違いにより、集団から排除されうるのである。この状態は、「境界化」である。
また同時に、ベリーは、ホスト国の政策や計画もまた上記の四つの戦略よって分類し、それぞれ、@多文化主義A同化主義B差別主義C排他主義としている
 この関係を見ると、現在の日本が、同化主義もしくは、排他主義であること、ブラジルが多文化主義であることがわかる。

 

3.3 ブラジル社会の多文化性
 世界中から来た移民が暮らすブラジルでは、予算的な問題により、カナダやアメリカのように公的機関により、バイリンガル教育などの積極的な多文化教育が施されているわけではない。しかし、母の日に、母の絵を学校で描けば、様々な髪や肌の色をした絵が揃うなど、結果として多民族を意識した教育が施されるようになっている。
 また現在は、それほどの数の移民が入ってきているわけではないが、エスニック・グループの内部の多様性や、異なるエスニック・グループ間の結婚に見られるようにグループ境界のまたぎ越しが活発なため、エスニックなカテゴリーの意味がその重要性を失い、構成員と外部者の区別が曖昧になり、他者への排除の原理が機能しにくくなっている。
 以上のように、ブラジルでは、日本や他の社会に見られるようなエスニック・マイノリティは、ほとんど存在しないと言ってもいいであろう。

3.4 民族の差を圧倒する貧富の差
 では、ブラジルでは、マイノリティは存在しないのかというと、そうではない。ただ日本とは異なる形で存在している。それは、経済的な格差である。
たとえば、エウニセ(2000)はブラジル国内では、1%の最富裕層が、国の富の13.9%を占め、50%を超える貧困層が国の富の12.1%を占めているにすぎないことや月収が約US$700以上であるのは、人口の約6.5%でしかないことを指摘している。このような社会の中では、民族の差は、経済的な差に比べて問題となりにくい。

 

4.調査方法

4.1 質的調査を行うに当たっての留意点
今回、質的調査を行うに当たっての留意点は次の二つある。
第一に、事例が少ないことである。今回の事例は4例のみである。4例のみの事例でもって、一般化を試みる危険性を筆者も感じていないわけではない。確かに彼/彼女らが来日し、ブラジルに帰国したというのは、個人の経験に過ぎない。しかし日本とブラジルにおける、それぞれの社会史の中で、彼/彼女らと共通の背景を持つものは少なくない。たった4例のアイデンティティの変容を通しての個別的な研究ではあるが、そこに一般化できる普遍性を抽出することは可能である。
 第二に、解釈が独りよがりになることを避けることである。直接的なコミュニケーションによる分析だけに、調査者の個人的な解釈が入りやすくなることは否めない。具体的には、ブラジル社会に育った日本語教師の声も入れることにより、客観的分析に近づける。

 

4.2 A学園の概況
 筆者がフィールドワークを行ったA学園は、サンパウロ市の中心部から地下鉄とバスを乗り継いで1時間程の近郊都市にある日系人の法人が経営する私立学校である。サンパウロ市は、ブラジルにおける経済上の実質的首都であり、周辺都市も合わせると、人口は1500万人を越える。この学校の近くは、工場などが立ち並ぶ工業地域である。
 現在生徒数が約330人、教職員が約30人で、それぞれ約3割が日系である。
次にこの学校の特徴をあげる。
@ 全日授業が行われている
ブラジルのほとんどの学校が半日授業であることを考慮すれば、この学校は画期的なカリキュラムを持っている。なぜなら、カリキュラム上は、日本の学校より多い授業数が組まれているからである。
A 日本文化に親和性の高い親や生徒が多い。
 この学校では1年生から日本語の授業が週2回行われているなど、カリキュラムからも日系人の学校であることが伺える。親は、この日本文化を積極的に評価して、A学園に子どもを通わせている。現実は折り紙や音楽などの日本文化の授業がほとんどであったとしても、日本から帰国した子どもたちの活躍の場は保障されることになる。
B 日本語ができるスタッフがいる
 校長・教頭・事務・音楽・非常勤の日本語教師など約10人のスタッフが日本語の会話が可能である。このことは、ポルトガル語が十分でない日本から帰国した子どもたちの精神的な安定に役立っている。
C 日本からの研修生がいる
日本からの1年間の研修生を毎年受け入れている。また筆者のような短期研修生も受け入れており、常時2、3人の日本人研修生が学内にいる。これらの研修生のほとんどは、配属された当初は、全くポルトガル語ができない。このことにより、学校全体で「ポルトガル語ができない大人や子どもに対する耐性ができている。
また日本から帰国した子どもは、研修生の受け入れ当初、通訳の役割を頼まれることにもなり、日本語ができる帰国生のクラス内での評価は、高くなることになる。
D 1人当たり約4万円の学費が必要である
学費は、サンパウロ近郊の都市においても、最高レベルである。しかし一般にサンパウロ市郊外の私立学校の学費が月2万円程度で半日授業であるから、1日授業を行うA学園が特別高いというわけでもない。しかし、子どもの教育に無関心であれば、これほど高額の学費を捻出する必要はない。このことからも、A学園に通う帰国生の親の教育に関する関心の高さが伺える。

4.3 A学園における日本語教師の役割
A学園には、日本語教師が3人勤務している。その中の1人、Y先生は、日本語の授業のみならす、日本からの帰国生徒の精神的サポートにも当たっている。
彼女は、小学生の時にブラジルに移民でやってきた。そして自らがアイデンティティの問題に苦しんだという。
また10年程前に、自分の夫が日本で3年の研修を家族同伴で行うチャンスがあったにもかかわらず、子どもたちの教育の問題からそのチャンスを断ったという。
 彼女は、かつての自らの姿を、現在の出稼ぎ帰国の子どもたちに重ね合わせ、現在の自分の姿を、出稼ぎ帰国後の親に重ね合わせて、精神的なサポートを行っている。彼女は、出稼ぎの子どもたちのアイデンティティを次のような言葉で積極的に表現している。

 ブラジル人であるということは、国籍の書類上登録されているにすぎません。日本人であるということも同じです。大切なのは、どちらの国でもコミュニケーションができる人間ということであって、日本人かブラジル人という細かいことで迷うことはつまらないことです。
 バグンサの国(秩序のないのブラジル)とセルティーニョの国(キチッとした日本)という正反対の国で暮らした経験は、お互いの国の長所と短所を照らし出す最高の鏡です。このように出稼ぎの子どもたちの体験は宝物であり、得をしたくらいの気持ちで受け取れる教育をしたい。

 このように今回の調査は、帰国したブラジルの子どもたち全体の中で、次のような点で限定されているものであることを考慮しておく必要がある。
@首都近郊の都市部の子どもに限られている
A親が経済的に裕福で、教育熱心な層である
B親が日本文化に対し、親和性の高い層である
Cブラジルの学校で精神的なサポートを受けている

 

5.インタビューとその意味付け

5.1 インタビューの内容とその解釈、分析
以下のインタビューは2001年6月20日〜27日にかけて4人に別々に行った。内1名は、約束の場所に現れなかった。場所は、食堂横のバルコニーで、周囲には他の生徒もいた。筆者としては、日本語でのインタビューのため、プライベートなことで周囲に気を使いすぎることはないことと、普段通りリラックスした状況で、彼/彼女らの答えを聞きたいという二つの配慮から、この時間、場所でインタビューを行った。
彼/彼女へ、ブラジル文化の思い出、日本の思い出、そして帰国したときの気持ち、最後に両方の経験をどのようにとらえているか、をインタビューした。これらの質問内容を決定するまでには、3ヶ月間のフィールドワークの間に筆者は、数回の非公式なインタビューを彼/彼女らに試みている。
 また11月に、筆者の解釈・分析を現地職員であるY先生に見せ、彼女の解釈・分析との共通点・相違点について確認した。最後に2002年2月には、フェルナンド、レアンドロの家庭を訪問し、母親と祖父母に、子どもたちへのインタビュー内容の確認を行った。
それでは、以下に、彼/彼女らへのインタビューを解釈し、分析を加えていく。4人の履歴(両親の職業含む)は、以下の表の通りである。

表 1 調査対象者の履歴一覧(2001年6月現在)

  ユウキ フェルナンド レアンドロ ジョアンナ
年 齢 現在 11歳    14歳 15歳 14歳
渡日時    5歳  4歳 5歳 10歳
帰国時 9歳 13歳 14歳 14歳
滞在地

埼玉県

愛知県
本人の国籍 ブラジル 二重 ブラジル
両 親 非日系 1世 非日系
2世 3世 2世
両親の職業
(ブラジル) 
電話帳販売 蘭栽培
教師 蘭栽培
両親の職業
(日 本)
弁当工員 トラック運転手
弁当工員 パート

5.2 ユウキ(仮名)の事例
1990年生まれの11歳。ブラジル国籍。160cmくらいの身長に80kg以上ありそうな5年生にしては大柄で、愛嬌がある体つきである。彼は普段からとても礼儀正しく、そのことは質問の一つひとつに対して、はっきりと「はい」と日本語で返事することからもわかる。穏やかで素直な性格のおかげで、クラスメートにも学校のスタッフからも愛されている。ポルトガル語も、先生いわく「本当に上手になったね。発音でも日本にいたことがほとんどわからない」くらいに進歩が見られる。しかしその一方、日本のどこに住んでいたのか覚えていないくらい、日本が遠くなってしまっている。
 彼に対しては、通訳付きでインタビューを行った。彼は日本語の会話については、聞くことについては、あまり問題ないものの、しゃべることについては、口から出てこないもどかしさを感じていたからである。

【ブラジルの思い出】
 僕のお母さんは、ブラジルで教師をしており、お父さんは、電話帳を売る仕事をしていました。4歳のとき、4年だけ働いて、帰ってくる予定で、お父さんとお母さんとお母さんの兄(ユウキのおじ)と日本に行きました。今は、僕とお父さんとおばあちゃんとおじいちゃんと住んでいます。この前、お母さんが日本から帰ってきたけど、またすぐに日本に戻ったので少し寂しいです。

【日本到着当初】
 日本に行くことは嫌ではありませんでした。日本語ができなくて心配とか、あまり考えていませんでした。 日本での最初の学校は、学童保育のようなところでした。勉強したことよりも遊んだことを覚えています。工場にはたくさんブラジル人が働いていて、学校でもブラジル人がいました。最初慣れないことが、たくさんあって大変でした。特に畳には戸惑いました。

【日本語能力】
言葉も最初は同じようにマネしてしゃべって覚えました。誰もポルトガル語ができなかったので、最初は、わからない言葉があると学校の先生に聞いていました。おじさんが教科書を訳してくれていたので、もっともっと日本語をうまくなりたかったです。お父さん、お母さんの両方が「言葉がたくさんしゃべれるとパイロットなどのいろいろな職業に就けるよ」と言っていたことが励みとなりました。

【学校生活】
 初めて入った学校が日本の学校だったので、そのシステムに、戸惑うことはありませんでした。給食も好きだったし、順番で給食当番するのことを良いことと考えています。ルールは、日本もブラジルもきつくないと思います。クラスでも男の子とも女の子も仲がよかったです。日本から帰るとき、僕の家でお別れパーティをしてくれたのが良い思い出です。とにかく学校が大好きでした。

【家庭での言語】
 お母さんと叔父さんは日本語とポルトガル語の両方をしゃべることができたけど、お父さんは(日系ではないので)ポルトガル語しかできなかったので、家の中ではポルトガル語でした。日本語を勉強している間も、ポルトガル語を忘れないようにしていました。

【家庭生活】
 お母さんは、朝の2時から夜の8時9時まで、土曜日も働いていたので、1人になると寂しかったです。   日本から帰るころ、お父さんとお母さんが、喧嘩をよくしていました。お父さんは、日本が嫌いだったみたい。それでお父さんが、おじいちゃんがけがをしたことを理由に、先に帰ってきました。ちょうど最初の予定の4年も終わろうとしていたし、お父さんがブラジルに帰ってからは、学校から帰っても、家族は帰っていないので、テレビを見ていることが増えました。

【帰国理由】
 ブラジルに帰ることは、自分から言い出しました。1人で、家でお母さんの帰りを待っている日本の生活が嫌になったからです。おととし、ブラジルに帰ってきました。

【帰国時の様子】
 しかし逆に帰国して(1999年)からのほうが戸惑うこともあります。一番違うのは、日本の方が落ち着いていたということです。日本では、ゆっくり、僕も先生や周りに慣れたし、周りも僕に慣れることができたのに、こっち(大サンパウロ圏)の方が都会だから、せかせかしています。ブラジルに帰ってきてから、お母さんの友達が、この学校を教えてくれました。ここで、日本での友達の生まれ変わりのような友達を見つけました。そのことは、本当にびっくりしました。

【帰国後のポルトガル語】
 最初ポ語をしゃべるのは恥ずかしかったけど、日系の先生が助けてくれたので助かりました。

【日本を振り返って】
 日本のいろいろなことを知りたかったです。あまり旅行とかいけなかったから…。今はまた日本に行きたいと考えています。たぶん大学は日本の大学に行きたいな…

【自分は何人】
 純粋な日本人でもない、ブラジル人でもないメスチーソ(混血)だと思っています。

解釈・分析
彼は、母親が教師で、教育に熱心な家庭で育っている。また叔父が日本語の教科書にふりがなをふり、ポルトガル語で説明してあげていることからもわかるように、叔父は、日本語のレベルも高いことがわかる。
 日本到着当初、畳などの生活習慣の違いに戸惑うこともあったが、叔父を含む両親の励ましや、優しい日本の友達に恵まれ、無意識に日本人としてのアイデンティティを獲得させていった。「みんなでお別れパーティをしてくれた。とにかく、学校が大好きでした」という言葉にもそのことが伺える。その後、家庭内不和により、父だけがブラジルへ帰国したのを受けて、自分もブラジルに帰ってきた。帰国は自分で決めたという。
 そしてブラジルで、日本の友達に似た友達を見つけたことが、ブラジルに適応することに役立っている。日本でも同様であるが、適応に関し、友人の存在がいかに大きいことがわかる。
また彼は、日本滞在中も、家庭内でポルトガル語を使うなどして、帰国のための準備をしていた。そのような彼でさえ、帰国時「ポルトガル語があまりできなくて、恥ずかしかった」という。帰国当初の戸惑いもあったのだろう。にもかかわらず、日系の教師などのサポートにより、筆者の観察したところ、帰国後2年である調査時には学習言語としてポルトガル語を習得するに至っている。ブラジル人としてのアイデンティティも、無事獲得していったことがわかる。
 その一方、日本語を忘れてしまっていることは、仕方ないことであろう。なぜなら、ブラジルで非日系の父親の一族と暮らす限り、かつて日本で言われた「両方の言葉ができることが、自分の可能性を伸ばすことができる」という激励は受けることはないからである。父親が、日本に対して良い印象を持たずに帰国したことも、そのことに拍車をかけている。
 しかし彼の人生における選択肢の一つとして、日本は確実に視野に入っている。理由は二つある。第一は、自分の母親が現在も日本に住んでいるからである。今回の帰国にも見られるように、母親のブラジル滞在は、一時的なものにすぎない。母親の生活の本拠地は、すでに日本である。「大学生になったら、日本に行く」という彼の言葉は、「母親に会いに行く」と同じ意味を持つ。
第二に、彼自身が日本での経験を自分の中でプラスとしてとらえているからである。日本での楽しい思い出が、彼に「日本をもっと知りたい」と言わせているのである。
彼のアイデンティティの変容については、筆者とY先生の間で意見が分かれた。彼女は、ユウキのアイデンティティについて次のように語った。

他の3人と、ユウキ君とは、区別して考えるべきです。なぜならユウキ君が日本にいたときは、幼すぎて、周囲の言動をすべて「良いもの」として受け取っている。まだ「日本人」「ブラジル人」の意識はなかったと思います。

 しかし、筆者は、彼女の意見に必ずしも同意しない。なぜなら、ユウキのような3世は、周囲のブラジル人から「ジャポネス」と言われても、自分の中に、「そうだ。僕はジャポネスだ」と胸を張って言えるような文化を持ち合わせていないからである。まして、彼のような混血の場合は、特にそうである。また日系社会のつながりの希薄な都市部では、その傾向が強い。
ユウキは、日本に行く経験をし、日本語も覚え、日本社会に自分を位置付けることができたからこそ、今日本語ができない状態になっても、自分の中にある日本人の部分を積極的に評価できるのである。つまり、彼は「日本人としてのアイデンティティを獲得し」ているのである。それほど、日本滞在が彼の中に、強い印象として残っている。
彼は、11月の再調査の直前に、両親が正式に離婚することとなり、母親に引き取られて「日本へ戻る」ことを理由に、A学園を退学している。

 

5.3 フェルナンド(仮名)の事例
 1987年生まれの14歳。二重国籍。日本では埼玉県にいた。175cm位の長身痩躯で、黒縁の眼鏡をかけている。静かにおとなしく自分の話をする一方、質問に答えきれないときは、絞り出すような口調で話すことから、少し神経質な印象を受けた。
彼は、13才でブラジルに帰国した際、年齢で言えば7年生になるところ、あえて希望して6年生に編入した。しかしインタビューの後、2001年9月に14才で日本に再帰国したとき、父親が1年生への編入を希望したにもかかわらず、教育委員会の「義務教育年齢を超えてしまう」という理由により、2年生に編入することになった。つまり、学年を丸1年飛び越してしまったのである。
彼については、インタビューとインタビューの途中の兄とのやりとり、授業中の様子、そして日本に再帰国後、筆者に送ってくれたメールを紹介する

【ブラジルの思い出】
 (A学園のある)B市出身で、お父さん、ママ、ママの弟、おばあちゃん、おじいちゃん、あいつ(原文ママ:兄のこと)と暮らしていた。(それ以外の)日本に行く前の記憶はどこか彼方へ飛んでいった。

【日本到着当初】
 日本には、先にお父さんがアガリクス(ブラジル産キノコ)やプロポリス(蜂蜜から取れた薬品)を売る仕事のために戻っていた。お父さんは日本人で(移民)1世。ママ(3世)とあいつと一緒に4歳のとき日本に行った。 ブラジルで学校に行ったことが無かったので、日本の保育園から僕の学校が始まった。

【日本語能力】
 学校や周りで、誰もポルトガル語ができなかったので、最初何言っているのかわからなくてただマネしていた。「助けて!」という言葉を隠してた。「2年生のとき、脱臼?捻挫をしたときも黙っていて怒られた。言葉ができなかった訳ではなく、恥ずかしかったの。 日本語の学習に特別な補習も無かったし、いつのまにか日本語が自分の言葉と考えていた。ポルトガル語を忘れたことすら気づかなかった。

【学校生活】
 学校の勉強は、適当にやっていた。(絵は上手なので)授業中に机に落書きするのが楽しかった。 家でもブラジル料理はあまり食べなかったので、給食も問題なかった。マッシュルームが嫌いだったくらい。日本での友達関係は良くもなく、悪くもなく普通。友達の家にも行くことは少なかった。自分から誘わないから…。保育所では活動が多かったので、日本語ができないことをそれほど困ったと思わなかったし、小学校に入る頃は、日本語が分からなくて困ることはなくなっていたけど…。自分以外にも別に「いさむ」と言う子どもがいたので、「フェルナンド」と呼ばれていた。ブラジルのことは聞かれたけど覚えていないので答えようがなかった。 学校で楽しみだったことは、バスケットボールクラブやPCクラブをしていたこと。

【家庭での言語】
 家庭内でも日本語を使っていたし、ママは日本では日本語の勉強をしていた。しかし日本で英語を使わないから英語を忘れていたみたい。僕自身は、ポルトガル語を覚えていないと言い切れる。「りんご」と「冷蔵庫」というポルトガル語くらいしか覚えていなかった。

【家庭生活】
 お父さんは会社が上手くいかなくて、ダンプの運転手をしていたので家にいないことが多かった。ママも仕事していたので、そのときは、家で隠れてゲームしていた。ゲームが壊れたときは、自分で工夫しながら、使っていた。

【帰国理由】
 中学1年の途中まで日本にいて、自分も周りの子どもと同じように日本の高校大学と進学するつもりでいた。ブラジルに帰るなんて考えもしていなかった。どうしてブラジルに帰ってきたか、自分でもあまりよくわかっていないんだ。どうしてだろう?日本が不景気でお金がもらえなくなってきたこともあるし、アパートも古いの借りて、お金かからないようにしなくてはいけなかったし…。それでお父さんだけ残して帰ってきた。

【帰国時の様子】
 こっちのトイレは、紙を流せないでしょう。だから面倒でも、(お尻を吹いた後の)紙を、横の籠に入れなくてはいけないので、不便だとむかついていた。ある日、あいつ(兄)の後に、トイレに行ったら、ウンコが流さずに、浮いてたの。何も気にしないんだ。あいつは・・・。

【帰国後、再度日本へ】
 (2001年9月に)また日本に帰ることは僕が決めたの。なぜだろう?(ここでも悩む)自分でポルトガル語が話せないことが怖くて、ブラジルに帰ることを決めたけど、こっちで学校行ってたら、(恥ずかしくて)ポルトガル語はしゃべれないし、また6年生をやり直さなくてはならない(落第)かもしれないし・・・。現在は、家族のことより自分のことで精一杯。

【日本行きを前にして】
 日本からブラジルに帰るとき、周りの友達がギャーギャー騒いで、それが嫌だった。今回は、直前に(日本に帰ることを)言おうと考えている。こっちはもっと騒ぎそうだから…。言われる言葉がわかっているんだ。将来は、ゲームのソフトを作ってみたい。

【自分は何人】
日本人かな?

フェルナンドへのインタビュー中に兄がやって来た。そのときのやりとりを紹介する。

「どうした?」(ポルトガル語)

「邪魔者あっち行って!」(日本語)

「おまえは、コリンチャスのファンかそれともパル

メイラス(両方とも有名サッカークラブ)か?」(ポ

ルトガル語)

「(非常に、いらついた強い口調で)僕はそういう

のは興味ない!あっち行け!」(日本語)

また筆者がフェルナンドのクラスで授業を観察しているとき、次のような出来事があった。

 理科の授業で、教科書を順に読んでいたとき、フェルナンドの順になった。彼は非常に小さな声で本を読んだ。彼から離れた場所に座っていた筆者には、彼の声はかろうじて聞こえたものの、どの場所を読んでいるのかは理解できなかった。しかし、彼が本を読み終わったとき、クラスメートからは、「よく読んだ」と拍手が起きていた。(2001年4月18日 フィールドノートより)

解釈・分析
 親が週末にしかゲームをさせないことでもわかるように、親の厳しいしつけの中で育ってきた子どもである。また1人で絵を描いたり、パソコンで遊んだりすることが好きなことから、内向的な性格が伺える。
「日本に行く前の記憶は、どこか彼方へ飛んでしまった」と本人が言うとおり、到着当時の戸惑いと、それに対する適応の問題が大きかったのだろう。1世の父親と3世の母親も家庭で日本語を使っていたので、すぐ日本語はできるようになった。その一方、「日本語が自分の言葉と考えていた。ポルトガル語を忘れたことすら気づかなかった。」ほど、日本人に同化していた。もし、当時の彼に、「あなたは日本人ですか、それともブラジル人ですか」と質問したら、「100%日本人」と答えただろう。なぜなら、自分を位置付ける社会として「日本」しか考えていないからである。
彼がブラジルに帰ってきた理由は一つではないのだろう。家庭の経済的な事情などが複雑に絡んでいる。そして「ポルトガル語を覚えていないと言い切れる。」状態で、父だけ日本に残して、自らの意志でブラジルへ帰ってきている。兄同様、日本で日本語を習得した経験から、ポルトガル語も何とかなると考えていたのである。しかし、帰国はしたものの、「ポルトガル語はしゃべれないし、また6年生をやり直さなくてはならないかもしれないし」と「自分のことで精一杯」と現在の思い通りにならない状況に悩んでいる。そして、2001年9月、日本に再帰国した。日本に帰れば、がんばれる自信もあるのだろう。彼は、ブラジル人としてのアイデンティティの形成に、現在のところ完全に失敗している。
 フェルナンドがブラジル人としてのアイデンティティ獲得する上の問題点は二つある。第一は、ブラジルでの「自己実現のロールモデル」が見つかっていないことである。このことによる不安定な状態は、父親の姿の焼き直しでもある。親は何らかの形で、ブラジルでの生活に見切りをつけるか、新しい可能性を探して、ブラジルを後にし、日本に戻ったのである。彼も現在、自分の人生の目標を、ブラジルの中で見つけられないために、言葉も含めた適応が阻害されることになっている。
 第二は、適応力のある兄への劣等感である。日本では、勉強の面でフェルナンドの方が兄よりも、多くの可能性に恵まれていたという。しかし、1歳しか年が違わない兄が、ブラジルの環境にどんどん馴染んでいき、自分の見つけられない人生の目標も見つけていくことが、弟にとって平気であるはずはない。だからこそ、兄を「あいつ」「邪魔者」などと呼ぶのである。
 彼にとって、自分を位置付けたい社会は「日本」であるにも関わらず、現実的には「ブラジル」に住んでいるため、彼の日本人としてアイデンティティも混乱している。
彼は、日本でケガをしたときに、誰にも言わずに過ごしていたことからわかるように、自分の気持ちを表にすぐ出さない我慢強い性格である。また日本に帰国した際の、期末試験でも、困難に負けず、がんばる努力家でもある。しかしブラジルでの生活では、そのことがかえって彼の適応を阻害している。彼はクラスメートの言うことは理解できているにもかかわらず、決してポルトガル語を自分から話そうとはしない。筆者とのインタビュー中に、彼が日本語で質問に答えるのを周りのブラジル人のクラスメートが驚いたほどである。それほど、普段は何もしゃべらないのである。彼の心は、ブラジル社会に対して、閉ざされている。「早く日本に帰りたい」と思う彼にとって、ブラジルのクラスメートの手助けは、心理的負担になりこそすれ、有り難いものではない。
日本へ帰国した後の彼は、E-mailでA学園における周囲の子どもたちの配慮について次のように語ってくれた。

実を言うとあんまりすきじゃなかった。 確かに話せないけどそこまで特別扱いされたくなかった。 みんなの気持ちをつぶす訳じゃないけど 、でもそこまでしてほしくなかった。まるで赤ちゃんが初めて立った!みたいなかんじだから。

フェルナンドはブラジルで生まれたというだけで、彼のアイデンティティ形成の出発点は日本であり、日本国籍も持つ彼は、「ブラジル生まれの帰国子女」と言える。
これからも日本人として、自らのアイデンティティを育てていくのだろう。彼の日本行きは、父親のところへ行くという意味と同時に「自分が本来位置付けられる社会(日本)に戻りたい」ということである。

 

5.4 レアンドロ(仮名)の事例
 1986年生まれの15歳。フェルナンドの兄。弟より少し小柄(約170cm)であるが、やせ形のところは弟と似ている。しかし丸刈りに近い短い髪の毛で、兄弟とは言われないとわからない。冗談好きで、クラスの人気者である。細かいことは気にしないおおらかな性格は、自分の言っていることの矛盾にも気づかないほどである。

【ブラジルの思い出】
 日本に行くことは、何かわからないから賛成だった。日本語はできなかった。幼稚園の年長だけ、サンパウロですごして、その後日本の保育所へ転校したんだ。

【日本到着当初】
 日本で保育所のころ、具体的に何が大変だったかは忘れた。

【日本語能力】
 日本語はマネして覚えた。

【学校生活】
 最初、休み時間が余り無かったことに驚いたけど、休み時間が楽しかった。食べ物も大丈夫だった。掃除や給食の当番は、あまり好きではなかったけど、それも日本人の友達と同じぐらいだった。日本の学校ではほとんど問題なかった。 幼稚園でも、みんながやるようにやっていたので困ったことがなかったし、先生に相談もしなかった。友達から「悟」という名前でなくレアンと呼ばれていた。みんな日系人だと知っていた。友達がいい人だったから、いじめられたりした記憶もない。 日本の学校でも、男の子と女の子は、日本でも仲良かった。夏休みも、友達とよく遊んでいた。自転車で遠出したり、家でファミコンしたり、ブラジル人という意識はほとんどなかった。中学では数学とかが好きだったけど、歴史とかは難しかった。ブラジルで育ったことと関係ないと思う。国語の勉強は文法(主語・述語)などが嫌いだった。ずっと日本にいると思っていたので、中学も卒業するつもりだったけど、2学期で辞めた。

【家庭での言語】
 日本語だけ!

【家庭生活】
 休み中は、福島県やディズニーランドに遊びに行くなど楽しかった。しかしお父さんの勤め先(プロポリスやアガリクス)が倒産して、急に忙しくなった。テレビ見て親の帰りを待つ日が多くなった。テレビゲームで遊ぶのは土日だけとお父さんに言われていた。家のことを親に言うのは、小学校低学年まで、転校(?)してから、ほとんど話さなくなった。

【帰国理由】
 一学期の末に、自分の気まぐれで帰国を決めたんだ。弟については知らない。少し気持ちが揺らいだ。どうしてだろう?わからない。

【帰国時の様子】
 新しい友達を見つけられると思って楽しみだった。去年の6月にブラジルに着いた。校則はこちらの方が多い。自転車通学もだめだし。(筆者が、ブラジルの校則のおおらかさを指摘すると)ピアス、毛染め、ガムもOK。あれ?こっちの方が少ないな。あれ?(笑)最初は、こちらの仕組みが全然わからなくて困ったんだ。今はだんだんおかしな奴、例えば理由もなく、奇声を上げる人にも慣れてきた。こっちの人はよい意味でお節介。最初は(彼らのお節介で)助かった。けど今は、少し邪魔に感じてきた。慣れてくると「こっちに来い」と言われると面倒くさかった。次に日本から帰ってきた人に、教えてあげる。俺と同じ苦しみを味わわせてやる(笑)。年は自分が上だから、だまされなかったけど・・・。うそはつかれなかったから、俺も(次の人に、うそは)つかない。

【帰国後のポルトガル語】
 ポルトガル語はほとんどダメだった。簡単な単語だけしかできなかったけど、帰国に全く不安はなかった。どうにかなると思っていたから。小学校1年とき(ママ)の日本のことが記憶にあったから自信があった。ポルトガル語は、フルーツの名前とかしか覚えていなかった。それは子どもの時に、どうにか日本語をマスターしたし、実際今回もどうにかなった。 ポルトガル語の発音は最初少しダメだった。けど、時間とともにできてきた。木曜日の(ポルトガル語の)補習は(力強く)努力してます(笑)。

【日本を振り返って】
けどね、こっちで高校終わったら、俺は(日本に)帰るよ!(日本)料理の勉強する。日本にいたとき、東京のおばあちゃんのところによく行って、料理の学校が東京のどこにあるかとか知ってるんだ。唯一の問題は、俺が日本に帰るとき、こいつら(ブラジルのクラスメート)が「一緒に行く!」と言っていること(笑)。

【自分は何人】
今は、自分の仕草とかブラジル人と変わらないようになっていた。誕生日などの集まりも、こちらではブラジル流、日本では日本人として振る舞える。弟は決してしようとしない。(ブラジルで)最初は、友達とゲームしたりしながら時々日本人、時々ブラジル人と感じていた。ここでは、だんだんブラジル人という感覚がしてきた。日本では日本人だなあと思っていた(笑)。今度ブラジルに帰ってくるときは料理人!

解釈・分析
彼のインタビューを通じて、一番驚いたことは、二つの文化間を移動した経験を、自分の中で自信に変えていることである。彼にとっても、二つ文化間を移動した経験は、言葉の問題も含めたハンディキャップにはなっている。しかし彼自身がそれを乗り越えたことを自信にしていることを強調しておきたい。
彼は、日本での学校の勉強やブラジルでのポルトガル語の勉強など「自分ができないこと」を笑って「できない」と言うことができる。これは、できない自分を素直に受け入れることができるという点で、異文化適応能力上の大きな武器である。
そのような彼だからこそ、日本到着時の困難など、大変であったことを平気で「忘れた」と言うことができるのである。
日本で「友達がいい人だった」こともあり、男女の隔てなく仲良く遊ぶことにより、「ブラジル人という意識は少な」く、日本人としてのアイデンティティを育んでいった。
彼も弟と同様、帰国については、「少し気持ちが揺ら」ぎながら、「自分の気まぐれ」で決めたという。「最初は、こちらの仕組みが全然わからなくて困った」ことも、「俺と同じ苦しみを味わわせてやる」と笑いながら話せるくらい過去のこととなっている。
彼は、弟と異なり、ブラジルで「自己実現」の夢を持っている。このことが彼のブラジル人としてのアイデンティティを高めることに役立っている。ブラジルへ積極的に適応しようとしている彼にとって、周囲の手助けは、有り難いものにこそなれ、弟のように拒絶するものに当たらない。
 また彼が将来の目標として、料理人を考えていることは、自分の中の日本的な文化を十分に活用することになる。したがって、ユウキの場合と異なり、彼はブラジルにいながらも、日本や自分の中の日本らしさを大切にすることにもなる。

 

5.5 ジョアンナ(仮名)の事例
 筆者が、A学園で調査している6月に、日本から転入してきた。日系の母親と非日系の父親を持つ。見た目にも、欧米系が強い、雑誌のモデルのような整った顔立ちをしている。
インタビューの約束をしたにもかかわらず、約束の時間には、現れなかった。インタビューをさけている印象を受けたので、彼女については、彼女に日本語を教え、精神的なサポートも担当するY先生の説明を紹介する。

ジョアンナさんは、責任感がなく、約束が守れない子です。「日本語の勉強をしたい」と言ったので、日記の宿題を与えみると、宿題をしてこなかったりします。詳しいことはわかりませんが、日本に母親と共に、小学校の途中で日本に行ったものの、悪い友達とばかりつきあっていることを理由に、中学生になって、ブラジルの叔母(母の姉)のところへ預けられて、A学園に来ました。日本では、公立学校だけでなく、ピタゴラス校にも通っていたそうです。 両親のことについては、帰国をめぐる話し合いの中で、トラブルがあったのでしょう。ほとんど話をしません。お母さんのことについて聞いても、お金のことしか言いません。「すごく豊かな」「日本に行き帰りできるんだ」「お母さん。お金持っているんだ」「何でも買ってもらえるんだ」というイメージしか写ってこないのです。 友達についても、「一緒にお金を使うことができる」ということが大事なようです。それでは、当然いけないのですが・・・。(A学園の)卒業式のとき(彼女の卒業は来年)も、非常に高価な日本製のドレスを買ってもらって参加していました。そのときは、「ジョアンナさん、きれいね?」とほめてあげました。この子については、まず信頼関係を結ぶのが大切ですから 現在は、ポルトガル語については、ピタゴラス校に通っていたこともあり、4人の中でもっとも問題がありません。日本語についても、クラスの中でレアンドロをのぞけば、他のクラスメートから抜きんでた存在です。したがって、クラスメートから日本語の宿題を頼まれる場面もしばしば見られます。日本語を教えるのではなく、ただ宿題をやって上げているだけなのですが・・・。私も、そのことを知ってはいますが、彼女のクラスへ帰属意識を高めるため、また彼女の自尊心を取り戻す手助けになればと、黙認していています。来年も日本語を通じて「ジョアンナさん、手伝ってくれて、ありがとう」という状態を作りたいと思います。しかし、このようにほめるだけでなく彼女については、まず自分自身を見つめる目を育てるということも必要だと思います。なぜ、自分が日本語の勉強が必要なのか?日本語の勉強をしたくなかったら、しなかったでも良い。何らかの形で自分に自信が持てるような約束を作り、それを守ることにより、「自分自身が大切な人間なんだ」ということに気づかせたいと思います。

解釈・分析
 ブラジルのテレビ番組で、日系人のこの世代は、「見放された世代」と呼ばれている。親が出稼ぎの中心を構成する世代に当たり、ブラジルにいても親と離れた状況で育ったことが指摘されているのである。
 彼女は、日本で余りよくない友達とつきあっていたと言われることからもわかるように、学校内で周辺化されていたのだろう。欠席日数も、4年生で20日、5年生で30日、6年生で70日と増えていることからも分かる。欠席理由も、当初の風邪や頭痛から、ブラジルに帰国することと変わっていた。
彼女が、なぜ日本人の集団から排除されていたのかどうか、その理由はわからない。しかし彼女が学校の友人や教師から、あてにされない状況であったとしたら、彼女自身が日本の学校に貢献する気持ちが育たなかったとしても不思議ではない。なぜなら、少なくないブラジル人の子どもたちが日本の学校に通わない現実があるからである。また学校に通っていたとしても、個別の対応ができず、「悪意のない放任状態」が少なくなく見られるからである。
 さらに、母親から放任されていたとしたなら、彼女自身が自分を大切にする気持ちが育っていなかったとしても、それも不思議ではない。ニュース番組の言葉を借りれば、彼女は、「自分を見放した」状態なのである。
母親が彼女のことを思って、ブラジルに帰したのであろうが、本人からすれば「自分だけが帰された」と思うのが自然である。本当に彼女のことを思うのであれば、叔母に預けず、母親が彼女と共に帰って来るからである。母親にどういう理由があったかは不明であるが、娘だけをブラジルに帰しても、母親自身は日本にとどまる理由があったのであろう。
 彼女がその理由を「お金」と判断するならば、彼女自身の「お金」を追いかける態度は説明できる。
彼女の言う「日本語を勉強したい」気持ちは、ウソではないだろう。しかし「宿題をする」自信がまだ築かれていない。気持ち行動との間に二律相反(アンビバレンツ)する状況が伺える。どのようなプロセスがあったかは、詳しくは不明である。しかし日本で周辺化された子どもたちが、再びブラジルでも周辺化する可能性が高いことをジョアンナの事例は示している。

 

6.それぞれのアイデンティティ
獲得のための条件

6.1 日本人としてのアイデンティティ
 インタビューと観察を通じて明らかになった日本人としてのアイデンティティ獲得を促進する要因として、次の三つをあげる。
@ 来日時の年齢
 小学校就学前に、来日したユウキ、フェルナンド、レアンドロの3人は、アイデンティティ獲得を日本で始めた。彼らは、幼すぎて周囲の日本人の考え方を一方的に受け入れする存在であったと考えられる。彼/彼女らの日本人としてのアイデンティティの獲得は、無意識と言えるものであっただろう。
A クラスの異文化受容度
 小学校高学年から中学校にかけては、思春期とも言える難しい年頃である。この時期に、男女仲がよいクラスというのは、クラスの状況が比較的良いと言えるだろう。フェルナンド、レアンドロの2人も、自分の存在をクラスに位置付けることに、不都合を感じなかったと思われる。ユウキの「とにかく学校が大好き」という言葉にも、そのことは伺える。
B 家族の日本文化への高い親和性
 ユウキの場合は、日本語の教科書が読めるくらいの日本語能力のある叔父がいた。また母もブラジルで教員をしていることから、学校文化へ比較的親和性の高いことが伺える。
 またフェルナンド、レアンドロの2人も、父親が1世で、母親が帰国後、日本語の教師をしていることから、同様のことが言える。サンパウロの家には、NHKの海外向け衛星放送や、多くの日本語のビデオや本があった。
 次に阻害する要因として、次の二つをあげる。
@「日本社会の多文化社会としての成熟度の低さ」
 先にベリーの例で述べたとおり、まだ異文化耐性の少ない日本ではブラジル人的資質と日本人であることは相反し、摩擦を起こしやすい。特に、ジョアンナのようにある程度ブラジル人的な資質を身にまとった年齢で来日した場合、この傾向はより強くなる。
A「融通の利かない教育制度」
 フェルナンドが日本に帰国した際に、希望より一つ上の学年に編入させられている。子どもたちの異文化への適応は、しばしば飛行機の着陸に例えられる。日本のように、融通の利かないしっかりした教育制度への着陸は、自らの操縦能力が未発達な子どもたちにとって困難を極める。「ハード・ランディング」という言葉にもあるように、衝撃を避けることは困難である。
 ジョアンナの場合は、不登校に陥っていることからも分かるように日本人としてのアイデンティティの獲得に失敗している。「アイデンティティが空っぽ」ということは、社会に自分を位置付ける習慣ができなかったということを意味している。

6.2 ブラジル人としてのアイデンティティ
 ブラジルでのアイデンティティの獲得するための要因として、次の三つを上げる。
@ブラジル社会の多文化社会としての成熟度
 「3.1共生するさまざまなエスニック文化」で述べたように、ブラジルでは、日本人的資質とブラジル人であることは相反しない。
A未整備な教育制度
 ブラジルの多文化な状態や、未整備な教育環境は、まさに背の高い草の覆い繁る草原(カンポ)であり、自らの操縦能力が未発達な子どもたちであっても軟着陸することは比較的容易である。
B周囲のサポート
 異文化適応に、影響を与えているのは、周囲の人間である。このことは日本での場合と同様である。特に、ユウキ、レアンドロについては、ブラジル人としてのアイデンティティの獲得に成功した理由として、A学園の特徴でもある、多くの日本語が話せる教師たちの存在も見逃せない。
 またユウキの言う、「日本での友達の生まれ変わり」のような友人に、ブラジルで恵まれたことは、彼のブラジル適応を加速することになる。
 次に阻害する要因として、次の二つをあげる。
@ ブラジル社会の不透明さ
 レアンドロとほぼ同じ環境で育ったフェルナンドが将来の目標を見つけられないように、ブラジルは経済問題や社会問題を含めて、きわめて先行きが見通しにくい国である。つまり草原(カンポ)では、覆い茂る草により見通しが悪く、再び離陸することが困難となっている。
つまり、自分をブラジル社会に位置付けることも難しいのである。
 もしブラジルで働いて「自己実現」が容易であるなら、出稼ぎも環流もこれほどの規模で起こっていないはずである。ブラジルで人生を歩んでいく子どもたちにとって、ブラジル人としてのアイデンティティ獲得する際に、このことは大きな問題となって立ちはだかってくる。
A「ロールモデル」としての両親
 子どもの将来の「ロールモデル」として、もっとも身近な存在は両親である。その両親が、ジャーナリスト、医者、心理学者、経営者、農業従事者など、ブラジルで持っていた経歴を放棄して、日本で一介の労働者として働いている姿を子どもたちは見てきていることを忘れてはならない。
 ユウキの場合、年齢的にもこの段階に達していないことが、彼のブラジル社会へ適応を阻害しなかったと思われる。
 また、アイデンティティが空っぽで帰国したジョアンナの場合は、日本での彼女の滞在年数を、ブラジルで滞在すれば、ブラジル人としてのアイデンティティが獲得されるという問題ではない。Y先生が言うように、100%の「日本人」となって帰国するより、なお厳しい困難が待ち受けている。

 

 6.3 二文化人へ
 二つの文化間の移動は、子どもたちのアイデンティティの形成に、大きなハンディをもたらしている。大久保(2000)の言う「アイデンティティ・クライシス(Identity Crisis:アイデンティティの危機的状況)」である。しかし、このハンディを乗り越えることができたとき、その経験は、子どもたちにとって大きな自信となる。
 その要因について、筆者は次の二つを上げる。
@人生の自己選択権
 今回インタビューをすることができた3人は、すべて自分の意志でブラジルに帰国したことを、筆者に語ってくれた。2002年2月に、フェルナンドとレアンドロの兄弟の家庭を訪問したとき、二人の帰国は、両親の離婚により、ブラジルに帰国する母親についてきたことことによるものであることがわかった 。つまり、ユウキを含めた3人のブラジル帰国は、両親の家庭内不和によるものであったことが判明している。
 それにも関わらず、本人たちが、「自分の意志で帰国した」と言えるほど、「自分の意志が尊重されている」と感じているくらい、親からの働きかけがあったことが予想できる。そのことが、ここでは重要となる。なぜなら、それは、「自分の人生について、自分が決めることができている」という「自らの人生の選択権」を委ねられていると感じることにより、主体者意識が彼/彼女らに育つからである。
 逆に、親の意志により、帰国させられたジョアンナの場合、「日本にいたら・・・」と、いつまでも、日本を引きずり、ブラジルでの「自己実現」に新たな目標を見いだせずにいることとなる。今回のジョアンナの場合では、「自分たちの都合で日本に連れてきながら、また自分たちの都合でブラジルに返すのか?」ということになる。このように「人生の自己選択権」を委ねられない場合、「見放された子どもたちが、自分の人生を見放す」こととなる。
 日本に再帰国したフェルナンドに、E-mailで筆者が「もし日本に帰れなかったらどうしていた?」と聞いたところ、次のような返事が返ってきた。

 とにかく、待つと思う。その選択ができるまで。

 子どもたちは、自分の生活の場所を決めるのに圧倒的に無力であることをこの言葉は端的に示している。
 ユウキの今回の再渡日が、彼自身の意志によるものであることを願うのみである。
A二つの文化を持つ家族の影響
 二つの文化を併せ持つ人となるためには、「日本人」や「ブラジル人」としてのアイデンティティを獲得するだけでなく、それらを「維持」することが必要となる。
 先の日本人としてのアイデンティティ形成で述べたが、
ユウキ、フェルナンド、レアンドロの3人は、日本文化とブラジル文化の二つを強く持つ家族の影響を受けている。
 もし、両親や家族がポルトガル語しか、話せなければ、日本で両親と子どもたちの間に、コミュニケーションに支障が生じていたであろう。また、もし日本語しかできなければ、レアンドロがこれほど急速にポルトガル語を身につけることは難しかったであろう。このような家族の二文化な価値観をレアンドロが内面化できたのであって、彼が独自にその価値観を身につけたのではないことは留意すべきである。逆に日本語ができない父親の家族とブラジル帰国後に住んでいたユウキは、日本人としてのアイデンティティの維持に苦労している。

6.4 概念図
 ここで、4人のアイデンティティの変容を、図で示してみる。
 ここで、ユウキ、フェルナンド、レアンドロの3人の日本人としてのアイデンティティがブラジル帰国により低くなっているのは、日本社会に自分を位置付けたいのにも関わらず、ブラジルにいるという現実のため、日本人としてのアイデンティティが混乱していることを示している。

日本滞在中は、家庭でポルトガル語を使っていたことからもわかるように、完全に日本人と思っていたわけではない。帰国後は、戸惑いもあったが、そのアイデンティティの混乱度は、他の3人に比べて少ない。ブラジル帰国後は、非日系人の家庭にいることから、ブラジル人としての意識は強い一方、日本での経験を自分の中で、よいモノとして受け入れており、日本人としてのアイデンティティも残している。

 日本滞在中は、家庭で日本語を使っていたことからもわかるように、無意識のうちに日本人としてのアイデンティティがほとんどであった。帰国後は、ブラジル人としてのアイデンティティを獲得することに失敗し、アイデンティティ・クライシスに陥る。そして日本に再帰国後、落ち着きを取り戻し、ブラジルでの自分を見直す余裕が出てきている。今後、ゆっくりとではあるが、自分の中のブラジル的な部分を見直すことになるであろう。

 フェルナンド同様、日本滞在中は日本人であった。ブラジル帰国後は、ブラジルでの目標を見つけ、ブラジル人としてのアイデンティティの獲得に成功している。ポルトガル語が全くできなかっただけ、ユウキより、ブラジル帰国当初のアイデンティティ・クライシスは大きかっただろうが、ブラジルでの自己実現の目標も見つけ、今後も、自分の中の日本的な価値観を大切にしつつ、「二文化人」へと向かう。

 日本でのアイデンティティの獲得に失敗し、ブラジルへ自分だけ帰国させられた気持ちで、自分を大切に思う感情が育っていない状態。「日本語を勉強したい」と本人が言うように、アイデンティティを獲得しようとする気持ちはあるものの、うまくいかず、「境界人」としてさまよっている状態。

 

7.おわりに

7.1 ポストナショナリズム時代のアイデンティティ
 近年、モノ、カネ、人、情報が、国境を越えて行き来するグローバリゼーションとトランスナショナリゼーションが急速に進行している。このようなポストナショナリズム時代の国際理解教育を研究する佐藤(2001)は、特定のナショナリティから切り離された新しいナショナリティを獲得した人間は、母国の文化とその居住地の文化とも違った「ハイブリッド(hybrid)」なアイデンティティを獲得していくことを指摘している。「ハイブリッド」なアイデンティティとは、国民国家の枠組みが揺らいできた結果生じた新しいアイデンティティである。
 また近年、ホール(1996)に代表されるように、アイデンティティとは、環境や対人関係の中でとらえられるものと考えることが一般的になってきた。特に現代社会のように、人やモノや情報やサービスが国境をまたいで行き来する時代では、その傾向が一層強くなる。つまり、個人は矛盾した複数のアイデンティティを抱えており、それぞれの環境に応じて選び取っていく中で、「自己を位置付けていく」という考えである。ホールは、このようにアイデンティティを流動的で、多層的なものとしてとらえている。
 また星野(1980)は「種々の民族、言語、宗教に生きる生き方を肯定しつつ、しかし特定のそれらにとらわれない、自由にして闊達、世界のどこにあっても逞しく生きる人間、もとより、自身の『原風景』とそこで出会った人々を愛するが、しかし後に住みかつ生きた場所・文化を受け入れしつつ、自身に適した生き方と『越えた』文化に帰属する人」というマルチカルチュラル・パーソンを提唱する。レアンドロには、この萌芽を見つけることができる。

7.2 ディアスポラ・ハイブリディティ
 ディアスポラ(Diaspora)という概念は、もともと歴史的に離散状況に置かれたユダヤ人を指す言葉に用いられてきた。つまり「さまよう」という、いい意味で使われてきた言葉ではない。しかし近年地球規模で人が行き来する時代を迎え、この言葉も変化してきている。
 戴は、このディアスポラという概念を「ダイナミックに移動することで、より豊かな経験をし、新たな生を始めること」と説明している。そして「ディアスポラ的経験は、多元的で柔軟な視点を形成する契機や、創造的なエネルギーを生み出していく可能性を与えてくれる」とその経験をプラスにとらえている。二つの文化間の移動は、もはや個人にとってハンディキャップではない。それをハンディキャップと受け取る社会の方が、ハンディキャップを被っているのである。
 ハイブリッドという言葉も同様で、当初は「不自然」「二つの異なる種から生まれた動物」などのように、悪い意味で使われることが多かった。しかし近年、家畜や野菜の種の「ハイブリッド」化に、見られるように、「両方のよい部分を引き継いだ種」という意味や、ハイブリッド・カーのように、「必要に応じて切り替えられる」という意味など、積極的な意味を見いだすことが増えてきた。
 レアンドロの言う、「こちらではブラジル流、日本では日本人として振る舞える」という言葉には、まさに彼の、ハイブッリドなアイデンティティが現れている。

 

7.4 今後の課題
 本研究は、サンパウロ市近郊の1校の日系人が経営する学校に通うわずか4人の、アイデンティティの変容を追ったものである。したがって、首都近郊に住む、経済的に恵まれた子どもたちに限られている。しかも、日系人が経営する学校ということもあり、精神的なサポートも含めて、子どもたちが日本人としてのアイデンティティを維持するには、恵まれた状況であることを断っておく必要がある。
 サンパウロ市のような大都会でなく、地方に行けば、ブラジル文化に適応するクッションとして、また日本人としてのアイデンティティを維持する装置としての日系コロニアが存在する。しかし、それ以外は、経済的にも、社会的チャンスの点に置いても、サンパウロ市近郊より、恵まれている所はない。つまり、子どもたちがブラジル人としてのアイデンティティを獲得する際に問題となる、「ブラジル社会の不透明さ」は、より強くなることが予想できる。したがって、ブラジル人としてのアイデンティティの獲得は、より困難であろう。ブラジルの地方における子どもたちの再適応は、今後の研究課題として残されている。

 

参考文献
阿久澤麻理子 「マイノリティの子どもたちと教育」 中川明編 『マイノリティの子どもたちと教育』 明石書店 1998年 p.101
エウニセ・A・イシカワ・コガ 「『出稼ぎ滞在者』と『住民の間』で」 宮島喬編 『外国人市民と政治参加』 有信堂 2000年 p.135
江原裕美「ブラジルにおける日系人児童生徒の再適応状況―学校と家庭における調査結果から―」 村田翼夫他編 『在日経験ブラジル人・ペルー人 帰国児童生徒の適応状況』2000年
カ−スルズ・S/ミラー・M・J (関根政美他訳) 『国際移民の時代』 名古屋大学出版会 1996年 pp.26-28
斉藤広志 「ブラジルにおける日本人の同化について」『移住研究』第12号 1976年 p.18
佐藤郡衛『国際理解教育 多文化共生の学校作り』 明石書店 2001年 pp.31-32
佐野哲「日系人労働者の帰国後と出稼ぎ意識の変化」『国際人流』1998年12月号 法務省入国管理局編 pp.17-21
ジャーナル・チュードベン編 『すばらしき夢・出稼ぎ』1995年 柏書房 p.227
戴エイカ 『多文化主義とディアスポラ』明石書店 1999年 p.4,p.102,p.113
田所清克 『ブラジル学への誘い』世界思想社 2001年 p.191
樋口直人 「政策意図と結果の乖離はどうして起こるのか」 梶田孝道編『国際移民の新動向と外国人政策の課題』―各国における現状と取り組み― 2001年 p.185
Berry,J.W.  1997 APPLIED PSYCHOLOGY:AN INTERNATIONAL REVIEW 1997 pp.271-291 
Hall S. ,(小笠原博毅訳)「文化的アイデンティティとディアスポラ」 『現代思想』 26巻4号 青土社 1996年
星野命「子どもたちの異文化体験とアイデンティティ」小林哲也編『異文化に育つ日本の子どもたち』有斐閣 1980年 pp.59-60
前山隆 『異文化接触とアイデンティティ ―ブラジル社会と日系人―』 御茶の水書房 2001年 p.20
Massey, Douglas et al.,1998,World in Motion  
:Understanding International Migration at the End of the Millennium, Oxford: Claredon Press
村田翼夫他編『在日経験ブラジル人・ペルー人帰国児童生徒の適応状況』2000年

脚注

注 エスニックメディアとは日本に住む外国人向けに発行されている新聞・雑誌・ラジオ・テレビなどのメディアをさす。外国人向けの情報であるから、そこで使われる言語はおもに日本語ではない。ブラジル人向けの代表的なメディアを紹介すると、テレビでは、ブラジル最大手のグローボ、新聞ではインターナショナル・プレス(INTERNATIONAL PRESS) が毎週日曜日に40ページの厚さで発行されている。
注 かつて、この図は、数学のX軸、Y軸のような四象限で表されていた。また縦軸は、「異文化集団との距離」であった。
注 ブラジルの小学校は、7才から始まる。従って年齢を基準に編入すると、日本の学年より、ひとつ下がることになる。フェルナンドとレアンドロの兄弟は、それをもう1年下げた形となる。
注 その母親も、2002年3月に非日系のブラジル人と再婚し、再度日本に出稼ぎに戻る予定である。