「中国残留邦人」の形成と受入について
選別あるいは選抜という視点から

鍛治致

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1 はじめに
 旧満州において、「中国残留邦人」はどのように形づくられていったのか。日本は「中国残留邦人」をどのように受け入れてきたのか。以上の過程において、「中国残留邦人」およびその家族はどのような基準により選り分けられていったのか。選別のための境界線はどこに引かれたのか。何を基準に引かれたのか。そのとき、誰の利益が優先され、誰の利益が優先されなかったのか。以上の選抜を正当化・正統化した理屈とは何だったのか。そこにはどのような原理が見られるのか。
 本稿では選別あるいは選抜という視点から「中国残留邦人」の形成と受入について論じてみたい。

2 「満州国」崩壊と難民化: 主として拓務省および関東軍との関わりから
 片手に銃・片手に鍬を持った移民の送出によって現地民を制圧し領土を確保しロシア・ソ連の勢力に対抗するという国策は、北海道(屯田兵)では成功しても「満州」(満蒙開拓団)では失敗した。
 「中国残留孤児」や「中国残留婦人」とは(主として)「昭和の屯田兵」「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」などと謳われて「満州」への移住を勧められ、現地召集(18〜45歳男子)により父や兄弟や夫から切り離され、ほとんど女性・児童・高齢者しか村に残っていないところをソ連兵や現地民に追い立てられ、鉄道等の避難経路へのアクセスが困難な地域で戦争難民になったにも関わらず、「満州」を放棄して撤退していく関東軍に置き去りにされ、主要避難所への集結をめざした徒歩による逃避行では攻撃・略奪・暴行による多数の被害者および自決者・落伍者を出し、たどり着いた難民収容所では飢え・寒さ・伝染病等に苛まれ、死ぬか生きるかという切迫した状況の下、招かれたり・拾われたり・もらわれたり・買われたり・さらわれたりするかたちで、妻あるいは養子として現地民の家族へと統合されていった児童や女性のことである。
 開拓民として「渡満」した人々がそうでない人々よりもどれだけ「割を食った」かを指し示す資料としては、満州開拓史刊行会(1966:437)を参考にしながら以下のような表を作成することができる。

表1:開拓民と非開拓民の間における死亡者数等についての差異

全体

開拓民 

非開拓民

-----------------------------------------------------------

終戦時在満邦人数(関東州を含む)

 1550000人

270000人

 1280000人

敗戦に基づく一般邦人の死亡者数

 176000人

78500人 

 97500人

何人に一人が死亡したか

8.81人

3.44人

 13.13人

 死亡指数(非開拓民比) 

1.49

3.82

1.00

  

  (満州開拓史刊行会(1966:437)を参考に鍛治が作成)

 表1の「一般邦人」とはおそらく民間人のことだろう。また「在満邦人」の中に非民間人が含まれているか否かは定かでない。しかしいずれにせよ、表1に顕著な点は、開拓民として渡満した者は3.44人のうち1人の割合で死亡したという点、そして、開拓民として渡満するということはそれ以外の身分で渡満することよりも死ぬ確率が3.82倍だったという点である。
 これは第一には(以下の引用が示す通り)開拓民達が(いわば)日本から最も遠くて最も危険な地域に入植させられていたからであると推測できる(漢数字を部分的に算用数字に書きかえた。また[ ]内は鍛治による補足である。以下同様)。

 開拓政策の重点目標に北辺鎮護のあることは既述のとおりであるが、開拓民、義勇隊はいわゆる鍬の戦士であり北辺第一線の兵站基地としての役割を果たしていた。すなわち開拓民総数の約5割は北満国境付近の省県に入植し、残り4割は中央の匪民分離地区へ、なお残り1割は交通産業の要路都市付近に入植していた。[…中略…]さらに前述の匪民分離地区の約4割は匪賊の出没する辺境や密林地帯の近くに入植したので、匪賊の通路が遮断されてその行動の自由を失うに至り[…後略…]

(満州開拓史刊行会 1966:398)

 また、第二には(以下の引用が示す通り)難民化した元開拓民達の中に「男手」があまりおらず、しかも作戦上の「必要性」から関東軍が避難経路を切断していったからだろう。

 残留孤児: 満州崩壊: 根こそぎ動員: 男手とられ婦女子で逃避行
 札幌市の石柴田正雄さん(68)は、残留孤児のために開いた全寮性の日本語学校の校長をしている。40年前の8月、ソ連の参戦直後に根こそぎ動員で応召、14日夜、黒龍江省のチャムスを出る最終避難列車に、救護医師として乗り組んだ。
 「列車には、すでに50人ほどの兵隊と将校が乗っていた。鉄橋にさしかかるたびに列車をとめさせ、電話線を切り、橋を爆破する。奥地にはまだ大勢の開拓団が残っている。爆破はやめろ、と抗議したが、『ソ連軍の追撃を断つ作戦だ』と相手にされなかった」
 「道路の橋も、兵隊が敗走しながら爆破している。後から来た開拓団の女子どもは、橋の手前で立ち往生です。ソ連軍に追い詰められ、河原で輪になって集団自決をしたり、一本の縄を頼りに川を渡ろうとして濁流にのまれたり」
 ところが、ソ連軍は、橋がなくともすぐ仮橋を架けて楽々と進撃して来る。爆破は開拓団難民の避難路をふさぐだけの結果となった。「日本軍に殺されたようなもの。私は今でも関東軍を許せない。」と柴田さん。
 山梨県一宮町で、ぶどう園を経営する荻原正三さん(71)は、中国黒龍江省富裕県、五△[=木偏に「果」(入力できず)]樹義勇隊開拓団の幹部だった。20年7月末、召集令状が来た。これも根こそぎ動員である。それまでに約200人の団員が次々と応召していき、男手は荻原さんが最後の1人だった。団員の妻子だけ約20人が後に残された。
 8月1日に奉天(現瀋陽)の部隊に入隊した。砲兵隊だったというのに、砲どころか小銃も、兵舎すらなかった。部隊長が召集されてきた老少佐なら、兵隊も各地から寄せ集めの老兵ばかり。「これが関東軍か、と信じられない思いだった」と荻原さん。
 敗戦で、部隊はまもなく解散。荻原さんは開拓団に残した妻子を捜すため、避難民の流れとは逆に、はるばるチチハル郊外に向かった。が、既に遅かった。子ども2人は死に、近郊の開拓団は集団自決をした後だった。
 「兵器もないのになぜ動員をかけたのか。根こそぎ動員で、逃避行は婦女子と老人だけになった。そこへソ連軍と暴民が襲いかかった。男たちがいれば、状況判断や食料調達などができ、被害を最小限にとどめることができたのに」
 根こそぎ動員でシベリア送りにされた方が、結果的に生存率が高かった。夫はシベリアから復員したが、妻は避難途中で死に、子どもは残留孤児に、という典型的なケースでは、孤児の肉親判明率が特に低い。

(朝日新聞1985年11月24日朝刊14版22頁 縮刷版904頁)

 なお、難民収容所での惨状と戦争難民達の行く末を集計した資料としては以下のようなものがある (なお表2をめぐっては諸説あるようなので詳しくは同書492頁も参照してほしい)。

 惨状の殊に著しかった収容所は方正(三江省)、拉古(牡丹江省)、延吉(間島省)等であったが、いま方正の一例を挙げよう。方正県伊漢通開拓団の空屋を中心に設けられた収容所は開戦以来翌年5月までに収容された総人員8640名に上ったが、その終末は次の通りであつた。

 [表2:方正県伊漢通開拓団跡に収容された邦人の終末]

ソ兵に拉致されしもの

460名

 [ 5.32%]

自ら脱走せるもの 

1200名

 [13.89%]

自決、病死せるもの

2360名

 [27.31%]

満妻となったもの 

2300名

 [26.62%]

ハルピンに移動せるもの 

1200名

 [13.89%]

現地に残りしもの 

1120名

 [12.96%]

 [合計 8640名 100.00%]

 その死亡者は伊漢通開拓団の裏山に積み上げられて春を迎え、暖気の訪れとともに凍解し始めたのでこれを焼却したが、二昼夜にわたって燃えつづけたという誠に凄惨な状況が伝えられている。

満州開拓史刊行会(1966:418)

 なお、以上の引用に登場する方正県は旧満州で日本人が数多く残留を余儀なくされた地域の代表格である。そのことは以下の集計からも明らかである(部分的に旧字体を書き改めた。以下同様)。

 (五)満洲残留開拓民
 現在残留の開拓民関係者は開戦当時、移動せずに現地に残留生活したもの、あるいは避難途次収容所で越冬した応召留守家族または男手不足などにより、現地残留を余儀なくされ満人家屋に身を寄せる以外に生きる道のなかつた者等であって、主として国際結婚者と孤児である。
 33年[=1958年]現在で住所氏名がほぼ確実と思われる者を省県別に挙げると左のとおりである。

 

[表3:住所氏名がほぼ確実な満州残留開拓民の地域別分布(1958年現在)]

三江省

390

( 方正県 245、 通河県 80、依蘭県 26 等)

東安省

36

( 鶏西県 15、 勃利県 14 等)

北安省

80

( 慶安県 28、 鉄力県 16 等)

竜江省

85

(チチハル 23、 甘南県 45、訥河県 11 等)

ハルピン市 

30

浜江省

140

( 尚志県 31、 延寿県 35、五常県 27 等)

牡丹江省

65

( 寧安県 35、牡丹江市 23 等)

新京市

18

吉林省

48

 ( 敦化県 16、 盤石県 6 等)

間島省

56

( 汪清県 22、 琿春県 26 等)

奉天市

 54

撫順市

23

興安東省

19

興安南省

7

その他(中国)

50

計 1100

満州開拓史刊行会(1966:437)

 表3に列挙されている県のうち、方正県(245人)と隣接する県は延寿県(35人)・通河県(80人)・依蘭県(26人)・尚志県(31人)であり、これらに方正県(245人=22.27%)を加えると残留者の数は合計で417人(=37.91%)となる。ここで注目すべき数値は245人や417人という人数それ自体ではなく、22.27%や37.91%という割合である。表3からは、方正県およびその隣接県には残留開拓民が高い割合で分布していたことが見てとれる。
 さて、難民化した日本人女性が現地人の家族へと回収・統合・編入されていった過程にはどうやら現地における「需要」も作用していたようである。以下は(表2・3同様)「満州国」崩壊後に数多くの日本人難民を受け入れた方正県に関連する集計である。

 

表4:方正県における男女別人口推移

総人口

性比(男=100)

------------------------------------------------

1909年

1904人

1050人

 854人

(81.33)

1918年

44291人

25286人

19005人

 (75.16)

1919年

43729人

25472人

18257人

 (71.67)

1924年

45296人

25448人

19848人

 (77.99)

1934年

67578人

38013人

 29495人

 (77.59)

1941年

75898人

42277人

33621人

(79.53)

1949年

72778人

 40738人

32040人

 (78.65)

1954年

79098人

43121人

35977人

 (83.43)

1959年

100053人

55486人

44567人

 (80.32)

1964年

120403人

64122人

56281人

(87.77)

1969年

143466人

 75291人

68175人

(90.55)

1975年

 176732人

92738人

83949人

(90.52)

1979年

194923人

101408人

93515人

 (92.22)

1984年

203243人

 104792人

98451人

 (93.95)

 (方正県誌編纂委員会(1990:629-630)を参考に鍛治が作成)

 表4からは1945年当時の方正県の男女比が男100人に女80人程度だったことが推測される。もともと女が生まれにくかったのか(=低出生率)、それとも女が生きにくかったのか(=短命)、あるいはその両方だったのか。方正県人の中には「当時は風土病により女性が産後に死亡しやすかった」(=鍛治が方正県にて個人的に聴取)と主張する者がいるが、真相は定かではない。しかしただ一つだけ言えそうなことは当時の方正県は深刻な「慢性的嫁不足状態」にあったらしいということである。日本人女性達が「元難民の外国人花嫁(言葉はまだ上手に話せない)」として現地人(=農夫であることが多かった)の家族へと回収・統合・編入されていくのを促進したひとつの要因は、実はここにもあったのではなかろうか。
 そして、いったん現地人の家族へと統合されてしまうと前夫の元へ戻ることはたいへん困難となる。根こそぎ動員で兵隊に取られた夫は戦闘中や抑留中に死亡しているかも知れないし、無事復員していたとしても日本で再婚しているかも知れないからだ。このことに関しては以下のような新聞記事がある。

 30年ぶり運命の再開: 夫…召集、ソ連抑留、帰国、結婚: 妻…中国で再婚、死別、里帰り: 福島
 […中略…]敗色がひしひしとせまる20年7月、迎さんに召集令状が来た。迎さんはシベリア国境近くで終戦を迎え、8月16日、部隊は現地解散したが、すぐ捕虜になりシベリアに送られた。
 一方、身重だったトヨさんは終戦のその日に、9歳の長女、4歳の二女を連れて、引き揚げ列車が出るハルピンに向かった。開拓団の約100人と一緒で全員徒歩。
 トヨさんが発しんチフスで倒れ、途中の軒先に母子3人はとり残された。そこへ通りかかったのが、中国人Aさん(4年前死亡、当時69)だった。Aさんは母子を馬車に乗せ、家に連れて行ってくれた。先妻に死なれたばかりだったAさんは、親切な人だった。
 […中略…]トヨさんはAさんに「帰ってもよい」といわれたが、男の子が生まれていた。「新しい奥さん[=復員した前夫が日本で再婚した相手]に迷惑かけてはすまない。帰ってはいけないんだと自分にいい聞かせた」。
 迎さんには長女(20)と長男(18)。トヨさんもAさんとの間に3人の男の子ができた。長男(28)は尚志県で小学校教師。二男(20)は大工。三男(15)は高校生。

(朝日新聞1975年3月14日朝刊13版22頁 縮刷版432頁)

3 「中共」との協定に基づく集団引揚: 主として法務省との関わりから
 1946年から1958年にかけて行われた旧満州からの集団引揚は前期と後期に分けられる。前期は中華人民共和国成立前に行われた集団引揚である。後期は中華人民共和国成立後、「中共」政府との協定に基づいて行われた集団引揚である。
 前期引揚は4期に区分されるが、第1期は1946年5月からだったという(ぎょうせい1997:38-19)。なお、これは「満州国」崩壊後(少なくとも)ひと冬越すまでは旧満州から内地への引揚がほぼ不可能だったことを意味する。哈爾濱地図出版社(2000:2)によれば、哈爾濱は9月19日から4月28日まで霜が降りる。無霜期は年間142.7日間(1年間の39.1%)。1月の平均気温は零下18〜20度。多くの者が身寄りのない難民としてこの冬を生きることをあきらめ、現地人の家族(=妻や養子など)となったことは前述した通りである。なお、前期引揚は(国共内戦等の理由により)1948年に打ち切られた。
 後期引揚は「現在中国には約3万人の日本人がおり[…中略…]今後船の問題が解決できるならば[…中略…]中国政府と人民は帰国希望者を援助する」という北京放送('52.12.1)を契機として取り結ばれた北京協定('53.3.5)に基づいて開始された(ぎょうせい1997:46)。ところがこの協定の解釈と運用をめぐっては日中間に行き違いがあり、以下の新聞記事に見られるような「混乱」が生じた。

 

 興安丸に多数の外国人: ``中国人の夫''含む160余人: 一応不法入国扱い: 個々に実状を調べ処置
 北京協定の了解事項では「中国人と結婚した日本人の妻」「日本人と結婚した中国人の妻」「これらの夫婦の間の子供たち」「16歳未満の子供および孤児」について規定はあるが「中国人[であるところの]の夫」については全くふれていない。
 こんどの興安丸乗船者で日本への入国が問題となるのは(1)中国人の夫(2)中国人と結婚した日本婦人で、両親に会う目的で単独または子供連れのもの。この婦人たちは肉親との面会、墓参などが済んだら再び中共へ帰ると明言している[…中略…]などである。
 中共側がなぜこんどの帰国者のなかにこのような``非日本人''を多数入れたかにつき外務省は「[…中略…]両国人民の自由往来を事実上強行しようとするやり方だ。[…中略…]とにかく``帰国''はだんだん``旅行''化しつつある」と判断している。
 第11次までの中共帰国者のうち外国人は、中国人が一番多くて58人[…中略…]となっており[…中略…]このうち中国人は日本人の妻であったり、母親が日本人という人たちで、いずれも北京協定の了解事項に該当している。こんど初めて現れた「中国人の夫」などをどう扱うかについては、法務省は「原則的には不法入国とみなす」との態度をとり、すべて個別によく審査するとの方針を決めた。
 例えば(1)の「中国人の夫」の場合は、妻の肉親との面会などが終われば直ちに中共へ帰るという意思表示を条件に仮釈放する。[…中略…]ただし長期滞在を主張される場合は、どうしても収容所に入れざるを得ないと考えているようだ(2)の場合は、一応正当な日本人帰国者とみなして諸手続を終わらせ、将来「中共へ帰りたい」という申し出があった場合には、中国人の妻として中国籍があるものとみなして中共へ送還する[…中略…]
 内田法務省入管局長の話
 […中略…]当方としては[…中略…]「妻の肉親に一度会って置きたい」という人道的な希望も考えて、できるだけその希望がかなえられるように法を適用したいと考えている。

 島津日赤社長の話
 北京協定を厳格にみれば日本人の妻が帰国したい場合には離婚しなければならない。離婚はしたくないが、日本にいる肉親に会いたいという場合、やはり「帰国」という形式をとるほかはないんじゃないか。

(朝日新聞1955年12月15日朝刊12版9頁 縮刷版203頁)

 中国人の夫と別れ子供を何人かずつ分けて帰るもの、子供全部を連れて帰るもの、中国人の夫とともに帰るものなど戦後の一般引揚とは少々様子が違う。[…中略…]天津では夫に泣きつかれて帰国をあきらめた婦人もあり、また天津駅のホームにとり残されて男泣きに泣きさけび、中にはホームに倒れてしまう中国人の夫の姿はあわれであった。

(朝日新聞1955年12月16日夕刊3版7頁 縮刷版223頁)

 さて、以上にいう「北京協定の了解事項」とは、受入をめぐる以下のような選別・選抜原理が体現したものであると推測できる(ただしこの「北京協定の了解事項」については、ぎょうせい(1997:501)や厚生省援護局(2000:45-46)を参照する限り、協定自体の中に明文化されているわけではない)。

 図1:「北京協定の了解事項」が体現する選別・選抜原理(日本側の主張)

永住目的

訪問目的

=======================================

家族A:

日本人夫

×

家族A:

国際児

×

家族A:  

中国人妻 

×

---------------------------------------

家族B:

中国人夫

× 

×

家族B:

国際児

○ 

×

家族B:

日本人妻

○ 

×

 図1から読みとれるのは以下の各点である。第一は「居住国唯一主義」である。これはつまり「常にどちらか一方の国だけに住み続けるようにしろ(自由往来は認めない)」という考え方である(これは以上の引用における外務省のコメントに現れている)。第二は「男主女従主義」である。これはつまり「妻が夫に付き従うことは許すがその逆は許さない」という考え方である。そして、以上二つを掛け合わせた場合、中国人と結婚した日本人女性に与えられる選択肢は「日本を捨てて、中国および中国人家族を取る」か「中国および中国人家族を捨てて、日本を取る」かの二者択一となるのだ(これは以上の引用における日赤社長のコメントに現れている)。
 さて、以上の弊害を(いちおう)解決したのは天津協定(’56.6.28)だった。この協定により次のことが定められた。

 四、[…中略…]中国にいて中国人と結婚している日本婦人が、もし希望する場合は、正規の手続きを経て、日本に赴き、親類を訪問し、再び中国へ帰つてくることができる。

(ぎょうせい1997:502-503)

 これにより日本人妻の一時帰国(あるいは里帰り)が制度上可能になった。しかし、ここで忘れてならないのは、天津協定は一時帰国を(制度上)可能にしただけであり(現在のような)家族同伴の永住帰国を可能にしたわけではないということである。従ってこの協定により日本人妻の選択肢は「中国人家族を取り、日本へは里帰りで我慢しとく」か「中国人家族を捨て、日本に永住帰国してしまうか」かの二者択一へと(わずかながら)改善しただけだった。
 さて前掲の「``中国人の夫’’問題」に際しては、中国人夫(=「不法入国」)の扱いや一時帰国希望の日本人妻を日本人と見なすかどうかのみならず(以下の引用が示す通り)父を中国人とする日中国際児の国籍がどちらなのかについても議論があったようである。

 日赤井上外事部長、厚生省引揚援護局瀬戸引揚課長、法務省小笠原入管審査課長補佐らは17日舞鶴地方引揚援護局で打ち合わせを行い、つぎのように決めた。

 (1)日本人の妻についてくる子供は、いったん日本人と認め、引揚援護をする。
 (朝日新聞1955年12月17日夕刊3版5頁 縮刷版237頁)

 以上はおそらく両親の婚姻が無効であり当該子は婚外子であるとの解釈から導き出された結果だろう。つまり法務省は(暫定措置としてではあるものの)中国人父を「正式な父」とは認めず、中国人夫を「正式な夫」とは認めなかったわけだ。このことは先の新聞記事の見出しにおいて「``中国人の夫''」という具合に`` ’’が使用されていたことからも推察できる。
 (訪問希望か永住希望かに関わらず)日本人女性と結婚した中国人夫が入国してくるということ、永住帰国(=引揚)ではなく一時帰国(=旅行)を希望する日本人妻がいるということ、一時帰国希望の日本人妻に日中国際児がついてくるということ----このどれもが日本側のいわば「予想外」であった。帰国希望の日本人女性は当然「中共」における家族結合を処分し単身で(あるいは日中国際児を連れて)永住帰国してくるはず----これが日本側の思い込みだったというわけだ。
 以上からは当時の日本の法務行政が(未だに)イエ制度を媒介とした個人と国家の結びつきを想定していたこと(あるいはそのような「体質」から脱却しきれていなかったこと)をうかがわせる。人を戸に一義的に結びつけるのは戸籍であり、戸を国に一義的に結びつけるのは国籍である。そして戸の主は一義的に男であり夫であり父である。この原則からいくと、戸主である男性の国籍が一義的にその妻子の国籍となり、「イエ」の中で「クニ」がばらけるなどということはありえない(というか想定されていない)。これを図2に表せば以下のようになるだろう。

 図2:イエ制度を媒介とした個人と国家の結びつき

大媒介
----  ((戸籍)) ---- (戸) ---- ((国籍)) ----
小媒介 小媒介

 妻の戸籍・国籍は、夫の戸籍・国籍に合わせる。子(未婚)の戸籍・国籍は、父の戸籍・国籍に合わせる。これが戦前日本の基本・原則だった。日本人が中国人に嫁げば中国人になるし、中国人が日本人に嫁げば日本人になる。また、父が日本人であれば子も日本人になるし、父が中国人であれば子も中国人になる。したがって、中国人夫を捨てる気がない日本人女性は``非日本人’’であり、中国人父を捨てる気がない日本人児童は``非日本人’’である。そしてこれらの人達は「非・国民」として分類され、出入国管理行政の統制下に置かれ、用が済んだら国籍国に送還されるわけだ。
 当時は(今日のような)日本人の子や配偶者を対象とした「日本人の配偶者等」などという在留資格は想定する必要がなかった。日本人の妻子は外国人であるはずがなかったし、外国人に嫁いだ女が日本人であるはずがなかったのである。
 1899年4月1日から1950年6月30日まで効力を有していた旧国籍法(明治32年法律第66号)は「夫婦国籍同一主義及び親子国籍同一主義等を基本として家族制度に対する考慮を払っていた」(法務省民事局法務研究会1994:10)が、この旧国籍法には以下のような規定があった(旧仮名遣いの片仮名を現代仮名遣いの平仮名に書きかえた。以下同様)。

 

 第1条  子は出生の時其父が日本人なるときは之を日本人とす。その出生前に死亡したる父が死亡の時日本人なりしとき亦同じ

 第5条  外国人は左の場合に於いて日本の国籍を取得す
    1 日本人の妻と為りたるとき

 第18条 日本人が外国人の妻と為り夫の国籍を取得したるときは日本の国
籍を失う

(法務省民事局法務研究会1994:374,376)

 しかも上記第18条は1916年8月1日に大正5年法律第27号が施行される前は「日本人女が外国人と婚姻したときは、婚姻による外国籍の取得いかんにかかわらず、日本国籍を失うこととなっていた」(法務省民事局法務研究会1994:11)という。
 嫁ぐという行為は(基本的には)単に人に嫁ぐのみならず戸に嫁ぐことを通じて国に嫁ぐことを意味した。「家族は中国、祖国は日本」などという「浮気」「わがまま」「身勝手」「ふたまた」「曖昧な態度」は当時の日本人女性達には(未だ十分に)許されていなかったというわけだ。
 さて、だがしかし、どうしても納得できないのは「``中国人の夫’’問題」が起こったのが1955年だったということだ。つまり、この頃までには「個人の尊厳」「両性の本質的平等」等を謳った日本国憲法が施行されていたし、女性が婚姻などの身分行為によって日本国籍を得喪するのが原則と定めていた旧国籍法も失効していた。にもかかわらず、法務省は中国人夫と別れようとしない日本人妻から日本国籍を取り上げたうえで「中共」に送還しようとしている。上記引用中の「中国籍があるものとみなして」という表現からすると、どうやら日本人女性に日本国籍の得喪を選択させたうえでということでもないらしい。
 同じ「送還」するにしても、どうして日本人のまま「送還」できなかったのか。なぜ彼女らは外国人にならなくてはいけなかったのか。国籍を異にする者どうしが国籍を異にしたままで結婚生活を継続することを、法務省はなぜ認めようとしなかったのか。日本国籍のままでは協定上の理由から「送還」できなかったからか。中国人夫の国籍国における国籍法との兼ね合いからか。日本人が「中共」との間で自由往来したとの前例を作りたくなかったからか。それとも単に新憲法の精神が法務行政の中に未だ十分に根付いていなかったからか。疑問は残る。
 なお、当時の日本人妻(=「一世」)や日中国際児(=「二世」)たちの国籍が、現在までに結局どのような「決着」をみせているのかについて以下にまとめておく。

図3:「二世」の国籍(出生による日本国籍取得がどこまで開放されているか)

 

「一世」の国籍状態→ 日本国籍維持 日本国籍離脱
「二世」の生年月日↓

------------------------------------------------

〜49.09.30 ?? ○  ?? ○
49.10.01〜64.12.31 × ○  × ○
65.01.01〜72.09.28 △ ○  △ ○
72.09.29〜84.12.31 △ ○  × ×
85.01.01〜 ○ ○  × ×

------------------------------------------------

「一世」の性別→

女 男  女 男

(△は入国3カ月以内に届け出るという条件付)

 まず「一世」の国籍からである。「満州国」は国籍法を持たず国民が1人もいない「国家」だったので、渡満した日本人はとりあえず日本国籍を喪失しない。また、日本人女性が中国人に嫁いだからといって必ず日本国籍を喪失するものでもない。なぜなら、まず「満州国」崩壊から中華人民共和国成立までの間(例えば)農村において農夫と難民との間に国際結婚が有効に成立したと証明することはしばしば困難であるらしく、この「混乱期」における国際結婚については中華人民共和国が成立するまでは効力を有さないとされてしまうことが多々あるようなのだ。また、仮に国際結婚が有効に成立していたとしても、当時の国籍法は(前述した通り)外国人男性と結婚した日本人女性から強制的に日本国籍を奪うものでは(もはや)なくなっていた。そして中華人民共和国成立に先立つこと3カ月、1949年7月1日には女性の結婚は国籍の変動を女性に対して求めないとする新国籍法(昭和25年法律第147号)が施行されている。
 以上により「一世」達は基本的には日本国籍を死ぬまで保持し続ける。ただし(夫や養親の意志ではなく)自らの意志により中国国籍を取得した場合には日本国籍を喪失する。しかしこの喪失の時期も日中国交正常化以降ということになっている。したがって(例えば)1950年代に日本国籍を離脱して中国国籍を取得したと主張してもそれは認められず、その場合、日本国籍喪失の時期は日中国交が正常化した日であるとされる。
 さて、以上のことは「二世」の国籍に影響してくる。
 まず「一世」が男性の場合は比較的単純で、日本国籍を生涯維持している「一世」を父として生まれた「二世」はどの時期に生まれた者であっても日本国籍を取得する。また、日本国籍を(自らの意志により)離脱した「一世」を父として生まれた者は、日中国交正常化以前に生まれたのであれば日本国籍だが、それ以後に生まれたのであれば父の日本国籍離脱の時期が自分の誕生日より早いのか遅いのかについて考えなくてはならない。そして、もし早ければ日本国籍取得は不可能になるし、遅ければ可能になる。
 次に、比較的複雑なのは、「一世」が女性の場合である。まず、日本国籍を生涯維持している「一世」を母として生まれた「二世」は、もし「満州国」崩壊から中華人民共和国成立までの間に生まれていれば、日本人女性の婚外子とみなされる場合が多々あり、これによって(いわば「父が知れない子」として)日本国籍を取得する場合もある。一方、中華人民共和国成立後に生まれた「二世」については1985年以降に生まれたか、それよりも前に生まれたかによって国籍の取得方法が異なる。(1985年以降生まれの「二世」はほぼいないだろうが)まず1985年以降生まれであれば「女子に対するあらゆる形態の差別の撤廃に関する条約」の批准に合わせて発効した改正国籍法(=出生による国籍取得について父系主義を廃し両系主義を採用)により母 (=日本)の国籍が継承できる。
 ただし、これには以下に引用するような経過措置があり、これに従えば、たとえ1984年以前の生まれであっても(1965年以降の生まれでありさえすれば) 母 (=日本)の国籍が継承できる。ただし、この場合は(1985年以降生まれの者とは異なり)日本へ来てから3カ月以内に届出をしなければならないし、また、生まれた日にさかのぼって日本国民になるわけではなく、届出の日から日本国民となる。

「国籍法及び戸籍法の一部を改正する法律」(昭和59年法律第45号)
(国籍の取得の特例)
第5条
1 昭和40年1月1日[=’65.1.1]からこの法律の施行の日(以下「施行日」という。)の前日[=’84.12.31]までに生まれた者(日本国民であつた者を除く。)でその出生の時に母が日本国民であつたものは、母が現に日本国民であるとき、又はその死亡の時に日本国民であつたときは、施行日[=’85.12.31]から3年以内に、法務省令で定めるところにより法務大臣に届け出ることによつて、日本の国籍を取得することができる。
3 第一項に規定する届出をしようとする者が天災その他その責めに帰することができない事由によつて同項に定める期間内に届け出ることができないときは、その届出の期間は、これをすることができるに至つた時から3月とする。
4 第一項の規定による届出をした者は、その届出の時に日本の国籍を取得する。

 以上の特例により「二世」が国籍を取得できるということは、つまり、「一世」が旧満州に残留を余儀なくされていたということが「天災その他その責めに帰することができない事由」にあたるとして法務省から認められているということなのだろう。
 なお、「一世」である母が日本国籍離脱者だった場合については既述の原理を組み合わせれば自ずから「答え」は出るので省略する。ただし上述のことに関して注意すべきことは以下の各点である。
 第一に、以上はあくまでも「二世」が(帰化によってではなく出生によって)日本国籍をどこまでとれるのかという「果て」あるいは「限界」を示しているだけであるという点。つまり、ここでは帰化による国籍取得については問題としていない。また「中国に長期間滞在しづらくなるのが嫌」等の事情により戸籍に関する各種届出を敢えてしなければ、中国の旅券で入国している者については (たとえ「一世」であっても)法務省からは永遠に中国人として処遇され続ける。
 第二に、出生の届出人は原則的に親となっており、両親がともに死去してしまうと手続はやりにくくなるという点。
 第三に、図3は中華人民共和国成立以降については「二世」が婚外子として生まれることを想定していないが、その可能性が全くないわけではないという点。
 第四に、「一世」が「身元未判明孤児」の場合、出生の届出は事実上不可能なので、家庭裁判所に申し立てて許可をもらうという手段を取ることになるという点。
 第五に、図3の原理は「三世」による国籍取得についても当てはまるという点。例えば母の父が「一世」であるような「三世」の場合、1965年以降に出生していれば国籍が取得しやすい。もっともこの場合、母も日本国籍を取得することが必要条件である。
 なお、「一世」や「二世」の国籍をめぐっては以下のような判断が過去に法務省や裁判所から出されている。

 日本人母の中共からの引揚に伴い、中国人父とともに中国旅券を所持して入国した子5人(いずれも昭和29年[=1954年]以降中国で出生)が、父母の婚姻事実がなく、また同人らが自己の志望により中国籍を取得した事実が見受けられないところから、日本国籍を有するとされた事例 (昭48[=1973].4.18民二3247号回答)

法務省民事局法務研究会(1994:238)

 昭和19年[=1944年]に渡満、昭和25年[=1950年]中国人男と結婚し、昭和40年[=1965年]7月申請により中華人民共和国の国籍を取得した日本人女は、日中国交回復の日に日本国籍を喪失する。(昭51[=1976年].6.14民五3393号回答)

法務省民事局法務研究会(1994:239)

 日本人女が中国本土において中国人男との間に出生した子につき非嫡出子出生届がなされ、調査の結果、父母につき婚姻の成立を証する書面はないが、母の供述等から判断して、昭和23年[=1948年]当時において中華民国民法の定める方式により有効に婚姻が成立していたことが認められるとして上記出生届を受理すべきでないとされた事例 (昭53[=1978年].1.21民二431号回答)

法務省民事局法務研究会(1994:212)

 中共政府樹立(昭和24年[=1949年]10月1日)当時、中国本土において中国人男と事実婚の状態にあった日本人女について、同日をもって同国の方式による婚姻が成立した(ただし、日本国籍について変動はない)ものとして処理するのが相当であるとされ、また、その結果、右夫婦間の出生子について母からされた非嫡出子出生届は受理すべきでないとされた事例 (昭和53[=1978年].11.7民二6054号回答)

法務省民事局法務研究会(1994:230)

いわゆる中国残留日本人孤児からの就籍許可申立事件において、申立人の父は知れないが、申立人が中国内で日本人難民集団とともに逃避行を続けていた女性から中国人養父母に引き渡されたことからすれば、申立人の母は日本人であったことは疑いをいれる余地はなく、申立人は出生により日本国籍を取得しているなどとして、就籍を許可した事例 (横浜家裁 昭60[=1985年].11.18審判)

法務省民事局法務研究会(1994:241)

 さて、天津協定により制度的に可能となっていた「婦人の里帰り」も、岸信介が五星紅旗の扱いをめぐって反共的発言をしたこと等が契機となり、1958年をもって中断することとなった。このことは1958年6月4日次のような電報により伝えられた。

 中国紅十字会[より]
 [引揚]三団体連絡事務局あて
 […中略…]日本の岸信介政府が中国人民を敵視することを継続しているので、本会は里帰り日本婦人に対し、彼らが日本へ里帰りに行くことを援助するのを暫く中止します。

(厚生省援護局2000:58)

 これ以降は(非常に細々とした)個別引揚時代に入り、「中国残留邦人」の引揚・帰国の再開は(事実上)日中国交正常化を待たなければならなかった(なお引揚援護行政上は、日中国交正常化を境界線としてそれより前を「引揚(者)」それ以後を「帰国(者)」と呼称することが多い)。

4 日中国交正常化後: 主として厚生省との関わりから

 ここからは、日中国交回復から現在まで日本がどのような条件を満たす「中国残留邦人」を受け入れどのような条件を満たさない「中国残留邦人」を受け入れてこなかったのか、そこにはどのような選別・選抜原理が働いていたのかについて考察する。
 『厚生白書』に紹介されている統計を参考にすると、1972年の日中国交回復後1999年までに一時帰国をした「中国残留婦人」(=里帰り婦人)および永住帰国をした「中国残留婦人」について以下のような表を作成できる。

 表5:一時帰国した「中国残留婦人」世帯数(上位4年のみ)

1974年

587世帯

13.79%

(2位)

1975年

898世帯

21.09%

(1位)

1976年 

448世帯 

10.52% 

(3位)

1977年 

262世帯

6.15% 

(4位)

-------------------------------------

上位四位合計

2195世帯 

51.55%

 '72〜'99合計

4258世帯

100.00%

(『厚生白書』を参考に鍛治が作成)

 表6:永住帰国した「中国残留婦人」世帯数(上位4年のみ)

1993年   

203世帯

5.53%

(4位)

1994年   

222世帯

6.04%

(3位)

1995年   

308世帯

8.38%

(1位)

1996年   

239世帯

6.51%

(2位)

----------------------------------------

上位四位合計

972世帯

26.46%

'72〜'99合計

3674世帯

100.00%

  (『厚生白書』を参考に鍛治が作成)

 表5・6で不可解なのは、一時帰国のピークと永住帰国のピークが20年間も開いていることである。これはなぜだろうか。また、永住帰国者が一時帰国者を下回り(4258÷3674×100で計算すると)前者は後者の86.28%にしかならない。これはなぜだろうか。以下、このことについて考察する。
 まず「中国残留邦人」の永住帰国をめぐっては、以下の図4に示すような、4次にわたる(事実上の)「規制緩和」があったと言っても良いだろう。
 なお、図4の「第1次」は厚生省が何か策を講じたということではなく、単に国交が正常化したというだけなので「第2〜4次」とは性格が異なる。
 また、ここで言う「規制」とは文字通りの規制ではなく「静観・放置すること」による(事実上の)「規制」であり、日本(具体的には法務省入管)が日本の旅券を持って入国しようとする日本人を入国させてこなかったということではない。日本に頼れる人がないので帰るに帰れない(=安心して帰れない)、自分の(日本での)身元が不明のため戸籍が入手できず日本の旅券も申請できない、という人達のために国がどこまで策を講じるのか、あるいはいつまで静観・放置を維持するのか。まずはどのような人から救済し、どのような人は後回しにするのか。限られた金銭的・時間的・人員的資源をどのようなカテゴリーの人達のために配分するのか。カテゴリー化はその人のどのような属性に着目してこれを実施するのか。国は誰に対してどこまで責任を負うのか。ここで言う「規制緩和」とは、以上のような議題について判断を下しながら国が引揚援護の範囲・対象を拡大していく過程のことを指す。

 図4:「中国残留邦人」の受入(永住帰国)をめぐる「規制緩和」

 
身元 受入 年齢

できごと

「効果」

----------------------------------------------------------

第1次 判明 同意 不問 1972 日中国交正常化
第2次 不明 ---- 孤児 1985 身元引受人制度を創設
第3次 判明 拒否 孤児 1989 特別身元引受人制度を創設
第4次 判明 拒否 婦人 1991 特別身元引受人制度を適用 

 ここでまず重要なことは「中国残留邦人」の選別・選抜に際し以下のような3つの原理に基づく基準が設定されていたということである。
 第1の選別原理は「同定能力」である。つまり自分がどこの誰か知っているか。そして知っているというだけでなくそれを他人に対して立証することができるかということである。自分を特定氏名と特定本籍に同定することに失敗すれば戸籍謄本の取り寄せは不可能になり、自分が日本国籍を保有していることを公的に証明することも困難となり、旅券の入手は困難となってしまう。
 第2の選別原理は「生計能力」である。つまり在日親族が受入に同意しているかどうかである。同意が取れない場合は、国としても(親族の代わりとなって)「水際」以降の面倒を見たくはないものだから、結局「水際まで」の援護ですらしてもらえなくなる。なお、この選別原理は入管法における以下のような規定と意図・目的を一にしていると思われる。

出入国管理及び難民認定法(昭和26年10月4日政令第319号)
(上陸の拒否)
第5条 次の各号の一に該当する外国人は、本邦に上陸することができない。

三 貧困者、放浪者等で生活上国又は地方公共団体の負担となるおそれのある者

(出入国管理法令研究会 2000:216)

 第3の選別原理は「責任能力」である。つまり、北京協定に基づいた集団引揚が開始した時点で成人していたかどうかである。成人していた場合は、自己の判断と意志と責任に基づき敢えて中国残留を選択したという理屈づけにより、永住帰国は原則自助となる。そして実はこの、年齢という物差しを根拠とした「責任能力」の保有度合こそが「中国残留孤児」と「中国残留婦人」を分類し、1991年に至るまで「中国残留婦人」を国費永住帰国というサービスへのアクセス機会から排除しつづけるための原理として働いたのである。
 さて、以下第1次から第4次にかけて、規制がどのように緩和されていったかについて検討する。
 まず、第1次「規制緩和」は日中国交回復である。これにより、自分がどこの誰であるかをしっかり覚えており、かつ在日親族と連絡を取ることができ、かつ在日親族から永住帰国についての支持を取り付けることに成功した者は、永住帰国することができるようになった。
 しかし、一時帰国ならまだしも、永住帰国に関して在日親族の支持を取り付けることは並大抵のことではない。旧満州で家族と死別した者などにとって、在日親族とは(基本的に)オジ・オバである。代替わりしていればイトコである。しかも、1958年に集団引揚が中断したことを受けた戦時死亡宣告制度により戸籍上死亡したことにされてしまっている者の場合、(いわば)死人が生き返り(しかも)日本へ戻ってくるわけだから、在日親族からしてみれば、せっかくまとまっていた家屋や土地をはじめとする遺産相続の話も蒸し返すことになりかねないし、「戦死した父(あるいは夫)の弔慰金の正当な受取人は私です」などと言われた日にはたまったものではない。また、日本語も分からないような外国人をぞろぞろと連れてこられたのでは、周囲の目も気になるし、第一、今は自分の生活だけで手一杯なのに人の面倒まで見る余裕はない----ということになる場合が多い。
 在日親族から「中国残留邦人」に宛てられた受入拒否を表明する手紙には、およそ以下のようなことが書いてある。

 ○月○日手紙受け取りました。△△△さんが日本人の子供だから日本に帰国するのはあたりまえと思うと書いてましたが、日本に帰らうとする心が理解できます。
 △△△さんは日本人として帰国し定住する権利もあります。但是、帰国後自己の生活が誰にも頼らず自立することが出来ればです。この問題が重要で最も大切なことです。一時帰国とは違います。定住するということは、日本で生活することです。生活することはどういうことかわかりますか?
 △△△は両親は日本人だったけれど親は死亡して日本には居りません。小さい子供の時から中国で暮らし風俗も習慣も感覚も中国人と同様です。日本語も話せませんし文盲です。帰国しても日本の社会の中に調和すること困難ですよ。
 日本国は現在経済的不況。失業者が大勢居ります。現在の日本は生活水準は高いと思うでしょうが、日本国人の中には生活の貧しい人大勢居ます。
 △△△は言葉が不自由で(日本語話せません)文盲という困難な問題があります。日本の会社企業ではまづ仕事探すこと困難でしょう。帰国しても幸福にはなれないと思います。△△△さんが私を頼りに帰国しても私は××家の嫁です。一切援助は出来ません。××家で△△△さん家族の生活を世話する能力ありませんから、お願しますと頼まれても△△△さんの願を受けられません。
 △△△さん日本に帰国しても親は居りませんし肉親という人は叔母の私1人だけです。叔母という立場は私の生活を犠牲にしてまで甥(すなわち△△△)の世話をすること出来ないのです。この点わかりますか。中国には△△△の肉親が多勢居るではありませんか。中国で皆んな仲良くして助け合って暮らした方が幸福ではないかと思います。
 ○月○日

 △△△様

 以上はある「中国残留孤児」の遺品である。なお、彼は永住帰国を果たせずして中国で亡くなったが、1991年の改正入管法施行以後、彼の息子が(入管行政が分類するところの)「日系中国人」として日本に来ている(改正入管法は「二世世帯」や「三世世帯」が「永住帰国の夢」を「一世に成りかわって実現する」ため、現在おおいに活用されている)。
 次に、第2次「規制緩和」は身元引受人制度の創設だった。これは自分が(日本では)どこの誰か分からず(日本では)身寄りがないという者に対し、国が責任を持って在日親族のかわりを紹介するという制度だった。
 なお、藤沼(1998)によれば、この身元引受人制度の成立は1984年2月25日に日中両国政府間で「残留孤児引取りに関する口上書」が交換されたことをひとつの契機としているようである。そしてこの制度の成立は以下の表7に示す通り、非常に大きな「効果」を上げた。1974年以降民間のボランティア団体による肉親捜しが大々的に新聞報道されるようになっても、1981年以降厚生省が「身元未判明孤児」を呼んで「訪日調査」(=「帰国」ではなく「訪日」であるところが「ミソ」である)を実施しても、「中国残留孤児」の永住帰国者数は決して高い数値を記録しなかった。1972年から1985年にかけての「中国残留孤児」の永住帰国者数は他のどの年度(='72〜'99)よりも低い。ところがその翌年、数値は一気に跳ね上がったのだ。

 表7:永住帰国した「中国残留孤児」世帯数(上位6年のみ)

1986年

159世帯

 6.78%

 (5位)

1987年

272世帯

11.60%

(1位)

1988年

267世帯

11.39%

(2位)

1989年

218世帯

9.30%

(3位)

1990年

181世帯

7.72%

(4位)

1991年

145世帯

6.19%

(6位)

-----------------------------------------

上位六位合計

1242世帯

52.99%

'72〜'99合計

2344世帯

100.00%

 (『厚生白書』を参考に鍛治が作成)

 さて、第3次「規制緩和」は1989年における特別身元引受人制度の創設だった。これは「肉親なんか見つからなかった方がよかった。厚生省の肉親捜しはいったいなんだったのか。肉親がみつかった人は帰国できず、みつからない人が未判明孤児としてどんどん帰国してゆく」(菅原1989:131)という言葉に代表されるような問題に対処するための制度であり、藤沼(1998)によれば、「援護局長発各都道府県知事宛通知 第411号」「庶務課長発各都道府県民生主管部(局)長宛通知 第267号」によって通知された。しかし、この制度が発足した後に「中国残留孤児」の永住帰国世帯数が上がったという事実は確認できない。
 だがしかし、この同じ特別身元引受人制度が「中国残留婦人」に対して適用されたとき、「中国残留婦人」の永住帰国世帯数は高数値を記録していった。これが第3次「規制緩和」である。
 第2次および第3次「規制緩和」の「効果」等をめぐっては以下のような表を作成することもできる。

 表8:永住帰国した「中国残留孤児・婦人」世帯数の比較('85〜'99)

孤児

 婦人

できごと

---------------------------------------------------------

1985年

56世帯

<113世帯>

未判明孤児も国が帰す

 1986年  

<159世帯>

122世帯

1987年

<272世帯>

105世帯

1988年

<267世帯>

98世帯

1989年

<218世帯>

125世帯

1990年

<181世帯>

145世帯

1991年

<145世帯>

133世帯

受入拒否婦人も国が帰す

1992年

 120世帯

 <163世帯>

1993年

115世帯

<203世帯>

1994年

100世帯

 <222世帯>

 1995年

91世帯

<308世帯>

1996年 

110世帯

 <239世帯>

1997年

 108世帯

<132世帯> 

三カ年計画終了

1998年

 <94世帯>

66世帯

1999年

<65世帯>

43世帯

---------------------------------------------------------

 '72〜'99年

2344世帯

 <3674世帯>

(『厚生白書』を参考に鍛治が作成)

 表8から言えることは、'72〜'99年の合計値は「中国残留婦人」の方が多く(=1.57倍)、「孤児」よりも「婦人」の方が(いわば)「主流」であるということである(なお表8で省略した1972年〜1984年における「主流」も「中国残留婦人」である)。
 ただし、1986年、「中国残留婦人」は史上初めて「中国残留孤児」に「主流」の座を明け渡した。これは1985年に身元引受人制度が開始したことによるものと思われる。この制度は(前述の通り)たとえ身元未判明により(「クニ」=「イエ」との「絆」であるところの)戸籍が探し当てられない者であっても、日中両国政府間の合意の下、彼(女)らが祖国に永住帰国できるよう便宜をはかるという施策の一環として発足した制度だった(もっとも法務省はこれを「日本人が帰国した」というよりは「外国人が来日した」と見なし、身元未判明孤児達に対して外国人登録を義務づけていたのだが。菅原1989:142-143)。
 「中国残留婦人」が「中国残留孤児」から「主流」の座を奪回したのは、1992年のことである。藤沼(1998)によれば、これは、在日親族から受入を拒否されているために帰国できなかった身元判明孤児を対象として創設された特別身元制度が「中国残留婦人」にも適用された、その翌年である。
 以上を総括すると次のように言えるだろう。(年ごとの永住帰国世帯数を質的にではなく量的に見て判断する限り)孤児にとっての「革命」は「未判明でも帰国援護する」という国の方針転換であり、婦人にとっての「革命」は「親族拒否でも帰国援護する」という国の方針転換であった。これはつまり、孤児達にとっては「自分がどこの誰なのか分からない」が、婦人達にとっては「親族に帰ってくるなと反対された」が大きな「壁」になっていたということだ。
 さて「中国残留婦人」が「中国残留孤児」に再び「主流」の座を明け渡したのは1998年のことである。この前年は(3月末をもって)いわゆる「3カ年計画」が終結した年だった。これは1993年9月に起こったいわゆる「強行帰国」を受けて厚生省が打ち出した施策であり、未だ中国にあって早期永住帰国を希望とする者については、1994年度からの3カ年で全員早期に永住帰国させるというものであった。
 なお、この「強行帰国」とは「このまま厚生省の援助を待ち続けているのでは生きているうちに帰れない」(朝日'93.9.7朝刊2頁)つまり、厚生省が特別身元引受人を斡旋してくれるのを待っていたのでは永住帰国がいつ実現するか分からないという事情を背景に「中国残留婦人」ら12人(全員日本国籍)が「戦前の国策で旧満州に渡り、戦後は帰るすべもないまま中国で生き抜いてきた。高齢になって祖国の土に返りたいと願っても、身元の引受人はおらず、生活をしていく手だてもない」(毎日新聞'93.9.6朝刊23頁)「故国の土になりたい。思いを細川首相に直訴したい」(毎日新聞'93.9.6夕刊11頁)「私たちは日本政府にすがるしか生きる道はないし、政府が対応してくれないなら、この空港で死ぬだけ」(毎日新聞'93.9.6朝刊23頁)として成田空港で宿泊を始めてしまったという出来事である。
 さて、藤沼(1998)によれば、身元未判明孤児の永住帰国等を日中両国政府間で取り決めた年(=1984年)に開所した「中国帰国孤児定着促進センター」は、「強行帰国」の翌年(=1994年)に「中国帰国者定着促進センター」と改称した。同センターの開所は、「(基本的に)『水際』までしか援護できない。そこから先は在日親族を頼るなどして各々『落着先』をみつけるように」としてきた戦後の引揚援護施策の中に起こったひとつの「革命」であった。そしてこの「革命」は、「未判明者だけ」「孤児だけ」という制限を段階的に撤廃して現在まで続いている。ただし、「水際まで」が部分的に撤廃されるまでに約40年、そして「未判明者だけ」「孤児だけ」が全面的に撤廃されるにはそれからさらに10年間の歳月を要したことはこれまで見てきた通りである。
 そして、冒頭の表5・6における2つの「不可解」に対しては、今はまだ明確な「解答」が出せないものの、「中国残留婦人」達が(制度上いちおう安心して)一時帰国だけでなく永住帰国もできるようになるまでには(事実上)20年の歳月を要し、中にはそれに間に合わずに死去した者が多数いた、という推測は立てられるのではないかと思う。

5 さいごに
 本稿では触れることができなかった議題は多数ある。
 「元中国残留邦人」を「核」とする「中国帰国者」という議題。「中国帰国者」が指し示す範囲が(養父母の問題も含め)引揚援護施策の中でどのように拡大していったのかという議題。「二・三世世帯」(「一世」が存命か否かを問わない)に関する入国と定住の法的根拠が「ガラス張り」となった1991年以降の入管法政。永住帰国を果たせぬまま日本を慕いつつ(あるいは恨みつつ)死んでいった者たちの「亡骸」の中に残留していた「日系人の素」が「墓荒らし」達の手によって「開封」され「流出」「拡散」した結果としての「偽装日系中国人」問題。実子にも特別養子にも恵まれなかった「中国残留邦人」は入管法との関連から(事実上)永住帰国できないのではないかという問題。親子関係を「DNA関係」に「還元」し、日本人の養子や継子の入国や定住を制限することは、単に養子や継子を差別することになるだけでなく、国家のエゴ(=先の戦争や東西対立)によって半世紀にわたり家族結合を妨げられ続けてきた「元中国残留邦人」達の人権を引き続き侵害し続けることにはならないかという問題。「DNAハンター」(=入管職員)と「墓泥棒」(=「偽装日系中国人」)との間で現在展開している「DNAの所在」と「リネージの真正性」をめぐる「おいかけっこ」等々。
 以上の議題については次の機会に論じることとしたい。
 最後に、引揚援護行政と入国管理行政との間の「溝」がいかに深いかということを示すある法務官僚の言葉を引用しておく。これは「中国帰国者」という厚生省側における呼称と「日系中国人」という法務省側における呼称との間の「距離」をも象徴しているようで興味深い。

 近現代の帝国主義の時代に軍人・軍属を含め400万近い数の日本人が朝鮮半島、中国大陸に進出した。しかし、戦争の終結により、これらの日本人はすべて日本に引き揚げた。

(坂中1996:242)

 「(元)中国残留邦人」たちは、そして、旧満州で死んでいった開拓民達は、いったいどのような気持ちでこの文章を読むだろうか。

 

 引用文献:
 ぎょうせい(1997)『援護50年史』
 厚生省大臣官房企画室『厚生白書』
 厚生省援護局(2000)『続々・引揚援護の記録』クレス出版
 坂中英徳(1996)『国際人流の展開』日本加除出版
 出入国管理法令研究会(2000)『改訂2版:入管法Q&A』三協法規
 菅原幸助(1989)『「日本人になれない」中国孤児:官僚と帰国者たち』洋泉社
 哈爾濱地図出版社(2000)『黒龍江省地図冊』
 藤沼敏子(1998)「年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」『中国帰国者定着促進センター紀要第6号』
 方正県誌編纂委員会(1990)『方正県誌』
 法務省民事局法務研究会(1994)『改訂:国籍実務解説』日本加除出版
 満洲開拓史刊行会(1966)『満洲開拓史』

(京都大学大学院教育学研究科博士課程)

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(以下2002-05-10鍛治加筆)
 以上の論文の出典は下記の通り:
 「『中国残留邦人』の形成と受入について:選別あるいは選抜という視点から」梶田孝道(編著)『国際移民の新動向と外国人政策の課題:各国における現状と取り組み』東京入管の依頼による研究報告書2001年3月p271〜p294
 以上の論文で「疑問は残る。」と判断を留保した部分があるが、その後の調べでこれは「中国人夫の国籍国における国籍法との兼ね合いから」であることが判明した。なお、この問題をめぐっては以下の資料がある。
 『戸籍時報』(1999年9月号)「国籍相談(318)中華人民共和国成立前に中国本土において、中国人男と中華民国の方式により婚姻した中国残留婦人及び同夫婦間の子の国籍について」
 以上の論文は「発表された当時そのまま」であり、新たに手を加えた部分はないが、数カ所の誤字についてだけは訂正してある。
 以上の論文に関する問い合わせは下記まで:
 鍛治致(KAJI,Itaru)
(以上2002-05-10鍛治加筆)