私の第二の故郷、内モンゴル

所沢センター修了生

 私は秋田県で生まれて、3歳の時、両親と弟と一緒に内モンゴルに渡りました。終戦の時は5歳でした。終戦の前の日8月14日に5歳以下の子供達は馬車に乗って、他の人々は歩いて避難しました。途中、ソ連の爆撃を受けて、沢山の人が亡くなりました。私の回りに生き残った者の生きることはとても困難でした。お母さん達は自分の子供を殺して、自分も死んでしまいました。私の母も最後に一歳の妹を殺して、自分も死んでいきました。母は私と弟の口にも毒薬を入れましたが、私は吐き出し、そして、三歳の弟の口の中からも毒薬を取り出しました。弟と二人で生き残ったのですが、食べ物も飲み物もなく途方にくれてしまいました。
 二人でさまよっている時に親切なモンゴル人が助けてくださいました。私はその人の養女になって、弟は別の人にひきとられました。その後、養父母は遠い所に移り住み、弟と離れ離れになりました。それ以来私はモンゴル語で生活して、日本語をすっかり忘れてしまいました。
 養父母は生活が苦しい時でも私に村から百キロ離れているウランホトの師範学校に進学させてくれました。この街は私にとっては、初めて来た場所のはずです。ところが、学校の校庭に立って、見た風景にびっくりしました。目の前に見える建物はジンギスカンの廟でした。この学校の校庭こそ、私が5歳の時まで住んでいた場所だったのです。弟もウランホトの高校に在学しているのを偶然に見つけました。
 岡本さん達のおかげで父を探していただきました。父が生きていることがわかって、1985年、四十年ぶりで父と親戚の人達と会うことができました。とても嬉しかったです。そしておととし、日本に帰って参りました。父を捜してくださった皆様に心からお礼を申しあげます。
 私の故郷は日本です。しかし、私と弟を助て、育ててくださった内モンゴルの人達を忘れることはできません。内モンゴルから帰国した友人と会う時はモンゴル語で語り合います。内モンゴルは私にとって第二の故郷になっております。
 皆さん、内モンゴルにせひ一度遊びにおいでくださいませ。内モンゴルはいつでも皆さんをお待ちしております。