日本語の作文
 ここに作文を掲載した三人は、夜間の定時制高校で学ぶ中国帰国生徒です。
三人とも日常の日本語会話はかなりよくできますが、いっそうの向上を目指して、
国語・社会など一部の授業は、日本語の授業にふりかえています。
中国語も堪能なI先生の授業では、日本語能力検定を目指して体系的な勉強をしていますが、
今年から始めたばかりの私の授業では、話したり書いたりする実習を中心に進めています。
その中で初めて完成させた作文が、今回の作品です。いずれも、悩みながら何度も書き直し、
最後に細部の修正を入れて仕上げた力作です。
(東京都立北園高等学校 定時制 国語科 山ア茂雄)

2000(H12)年度 1学期

丸山美樹心に残る思い出
赤峰  郷日本の先生方
侯  淑霞日本に来てから



心に残る思い出

丸山 美樹
 私にとっての心に残る思い出はやっぱり、日本に来る前の中学のクラスメートとの最後のパーティです。
その時、皆は忙しくても私のためにパーティを開いてくれました。もし、そのまま何もせず話さず離れたら、また何時逢えるのだろうと知っていましたから。
それは中国の他の県に行くこととは違いますから。初めは私が皆の気持ちがそんなにつらいと思わず、笑いながら別れられると思いましたが、実際にはそうではありませんでした。
 その日、女四人、男八人皆待ちきれずに、早くからクラスメート一人の家に集まって、料理を作りました。そのとき、男の人の一人が私にこういうことを言いました。
「日本に行ってから、中国人の顔をつぶしてはいけません。どんな方面でも、頑張りなさい。日本人に負けるな!もう一つ、あなたをバカにするのは絶対許せません・・・」
これを聞いて、本当に心が暖まる感じがして、そんなに多くの人が私のことを気にしてくれるのだと初めて気がつきました。
そして、「自分は頑張らなっきゃ」と思いました。
 その後、晩ご飯を食べ始めた時、なんとなく、まわりの雰囲気が暗くなって、皆黙って、何も言いませんでした。男の人はビールばかり飲んで、女の人はじっと私を見ていました。その時私は皆の顔を見て、悲しくて心が痛いと感じました。でも、泣くわけにはいきません、もし、一人泣き出したら、皆泣き始めるかもしれません。だから皆、我慢していました。
 やがて、ある一人の男の人が「一人ずつ燕潔(イエンジェ)に一言言ってあげよう」と提案しました。それらの言葉は意味深く、私は今でもはっきり覚えています。
「この世であなたと親友になって、私は本当に幸運だと思いました。私たちの友情が冬の松のようにずーと青いようにと祈ります。」
「いつでも、どのぐらい遠く離れても、私達の心はいつでもつながっています」
「異国できっと寂しいでしょう、もし話し相手がいなかったら、その時、空を見て、心の中で話しかけて。海の向こうに、私達いるから。きっと聞こえるよ!・・・」
 最後に皆で「大海」という歌を唄ってくれました。私がついに我慢できずに、泣き出して、皆も泣きながら唄い終えました。
 パーティが終わても皆もっと一緒にいたくて翌日、郊外に泊まりに行くことにしました。
 そこには、山や水や木があります。私達はまる一日遊んで、体は疲れていましたが、夜、誰も眠りませんでした。このまま眠ったら、 時間はそのまま流れてしまいます。
だから、私達はホテルの屋上で、黄河の流れる音を聞きながら、空を見て、夜明けまでしゃべたり、唄ったりしました。
 時間の経つのは速いネ。宿泊してから一週間が経ち出発の日がきました。その日の午前四時、彼らは駅で待っていました。そこで女の人一人が「2000年七月十0日」ここであなたの帰りを待っています。きっと帰ってきてね!忘れないで。約束だよ!」と言いました私は思わず涙がこぼれました。
やがて、列車が動き出して、私達はそのまま別れました。
 もうそろそろ二年間経ちました。その間、このことを何回も何回も思い出しました。約束の日はだんだん近づいてきます。楽しみだわ。本当に一日も早く逢いたーい。


日本の先生方

赤峰 郷
 私が日本に来て、もう一年半が過ぎました。その間に私が感じたことの一つは日本の先生はとてもやさしいということです。
 日本の先生は生徒が学校にいる間、いろいろな方面から面倒を見てあげています。たとえ生徒達がどんなことを起こしたり、ミスをしたりしたとしても、先生方はいつも教育的な態度で生徒に教えます。決して怒りません。私はそれはやさしすぎるんじゃないかと思います。こういう態度では、生徒には全然効かないと思います。
逆に私は先生たちが生徒にいじめられるんじゃないか思います。
 例えば、授業中生徒が雑談をしていても先生たちはきいてないように授業をつづけます。またある先生は、生徒に注意してもいつもいい返されて何も言えずに授業を進めます。
だからいまの生徒は先生をなめるんじゃないかと思います。
 逆にわれわれ中国の先生は、本当に怖いと思います。怖いというより、恐ろしいと言ったほうがふさわしいかもしれません。まるで鬼≠フようです。
われわれ中国の先生は恐らく世界中で一番きびしいと言っても言いすぎではありません
 例えば、前に教えたことがある問題をまちがえたら、その問題を百回ぐらいうつさせたことがあります。それにわれわれ生徒は文句をいえません。
もし誰か文句を言って先生の耳の入ったら、さらに百回やらされます。また小学生たちはよく先生に頭をたたかれます。私が小学生の頃に先生にやられたことはたくさんありました。
 だから私は、中国の先生はきびしすぎるが、日本の先生はやさしすぎると思います。
 私の考え日本の先生のいい面と中国の先生のいい面をとりいれるといいと思います。授業中できびくしてもらい、放課後には何んでも話せる友達のような先生であってほしい。
これは私の考えた理想の先生です。



日本に来てから

侯  淑霞
  私が家族と一緒に日本に来て、もう五年目になります。
 日本にくる前にテレビや雑誌などで日本のことを少し知っていました。日本はすごく経済的に豊かで、民主的な先進国です。日本人は非常に礼儀と「和」を重視し、仕事の苦しみやつらさをたえしのぶ「大和民族」の精神を強く持っている。けれども男尊女卑の風潮がある。など、様々のイメージを持っていました。
なぜ小さい日本がそんなに裕福で科学技術がそんなに先進なのだろうかと思って日本にきました。
 初めて日本に来た時、一番最初に日本領土を踏むのは成田空港です。広くて、すごく清潔で、係員は丁寧に仕事をしていて、いろんな国の人を見ました。
その時の私はすごく興奮していました。これから、自分もこんな国に生きることになるとは信じられなくて、その時の気持ちは言葉で言い表わせません。 いろいろ理想なイメージが頭に浮んでいました。
 でも現実はいつも想像より厳しいものです。日本に来たばかりで私たちは最も基本的な言語もできないし、様々な問題が次から次へと出てきました。
特に日本の価格が高いことは世界でも有名なので、仕事もしないと日本で生きることはできません。日本に来た翌日に区役所へ登録したあと、 日本にいる伯母は休みを取ってみんなを池袋の職業安定所につれて行きました。不景気だから仕事がなく、残念な気持ちで帰りました。
日本に来た時の元気と意欲、 将来へのあこがれを胸いっぱいに抱いていた気持ちはただちに跡形もなく消えてなくなりました。
 まもなく父と兄は友人から仕事を紹介され、母もホテルでバイトを始めました。妹も中学校一年に入学しました。私は伯母が働いているミツウマ工場に就職しました。
ミツウマは靴を生産している工場ですが、でき上がった靴はまず流れに乗せる準備をして、靴を検査して、ベルトコンベアで流れているうちに絶縁値を測って、 最後に紙で包装して箱に入れます。
だいたい四つの工程のうち、一つを一週間やって、一ヶ月で一巡します。簡単ですから半月で慣れました。
生活が安定してみんなは十分に満足していました。
 月日の経つうちに私は毎日ロボットのような仕事が終わったあと、はっきりわからないストレスがどこかに隠されているような感じがしました。時々不安になります。
家に帰って、 一人タタミに座ってテレビを見ようとしている時、番組が多種多様であるけれども、私は精彩を放っている世界に全然入れませんでした。私は呆然としていました。 人間は何のために生き続けるだろうか?自分は何のために生きているだろうかなどの疑問が私の胸にわいてきました。中国でまだ学生だった私は日本に来て、 すぐに社会人になったので、急に夢が見つからなくて、将来の見通しが立たず、日がたつにつれて、むなしい気持ちはますます強くなっていました。
でも、 物質的な豊かさは精神的な空虚さを満たすことはできないと思いました。
 毎日寝る前に妹と話をしました。妹は学校であったことや日本の中学生の生活など話してくれました。習慣のちがいや言葉が通じないことから、 おかしないきちがいがいっぱい起こりました。いつも2人は笑っているうちに夢に入りました。
私はだんだん妹のような学生時代に戻りたい気持ちが強くなっていました。私はもっと勉強したいと思いました。知識は精神的な空虚を満たすことができると思い、 学業を続けたい気持ちが強くなりました。
自分の思いを工場長に相談した結果、まず日本語学校に行って、卒業してから、夜間高校に行くことを勧められました。高校に入っても、日本語がわからないと授業も理解できないし、 勉強できないから、まず日本語学校に行くことにしました。そして、日本語学校を一年で卒業して、北園高校に入りました。
 時間が経つのは早いですね。卒業まで一日一日近づくようになりました。四年間クラスメートと深く付き合うことがなくて、時々さびしい気持ちに襲われたこともありました。
でも日本にいる短い間に、自分の力で生きることも学びました。これは私の一番の収穫です。自分が選んだ道は間違いないと信じています。これから先の道はまだ長いですが、 頑張って行きます。