センターのサハリンからの入所生(99年9月末学習修了)の作文を掲載します

青年時代の思い出         佐久間きくえ


昭和四年十月に私は青森で生まれました。 私の兄弟は四人で父母と六人家族でした。
いちばん楽しくおもしろかった頃は両親と一緒に住んで居た 時です。
私が九才の時に父が病気になって昭和十三 年九月私の目の前で亡くなりました。
その悲しみは 今でも思い出されます。

昭和十四年三月母は私達を 連れてサハリンの鵜城という村で商店とカフェと
農場をやって居る奈良さんという人の所にひっこし しました。その奈良農場で働くようになりました。
奈良さん の家から歩いて五十分くらいはなれた所に農場があります。
そこに私達は住むようになりました。私は四月一日に 四年生に入学して兄は十五才で
中村商店で働き始め ました。 兄は商店の家に住むようになり、私達とは住んで いませんでした。

 この農場に住んで居るうちに佐々木と いうそこで働いていた人が父のかわりになりました。
いっしょに住むようになりました。私は学校が遠いので 一人で奈良さんの家に住むようになりました。
私のほか に同じ年の娘が二人居ました。三人で仕事を手伝 しながら学校に行きました。
その頃は母とは会う事が 出来ませんでした。私達は子供でしたが遊ぶ事はありませんでした。
自分の着る物を洗濯して勉強した後は 店の方とカフェの方で手伝いをします。
その頃の たのしみは学校でした。学校に行って居る時がいちばん おもしろかったです。
私の名前は奈良となりましたので養子 に入ったのだと思います。

 私の母は農場をやめて四キロ くらいはなれた所にひっこしをしました。
奈良さんは自分 のカフェと商店を売りました。
奈良さんの家族は私達三人 をつれて農場にひっこしをしました。
昭和十六年に小学 校を卒業しました。その後私達三人は大人のように働き 始じめました。
私の仕事はにわとりとうさぎを飼う事、 もう一人の娘は牛ごやで若い人といっしょに働いていま した。
台所で一人働いていました。農場では若い人がたくさん 働いていました。
昭和二十年に私達は奈良さん といっしょに日本にわたろうと思って農場をすてて
百五十 キロメートル遠い久春内という小さい町まで歩いて 行きましたが戦争が終わったので
日本にかへる事が 出来なくなって又百五十キロメートル歩いてもどりました。
又農場の仕事を始じめましたがロシヤ人が来てから はロシヤの国のものになりました。
三年くらい働きましたが その後又大平というたんこうのある大きい村にひっこし しました。
そこで国の店の掃除をして働きました。

 私の母は昭和二十三年に二人妹をつれて日本へ 帰りました。
その後母の行った所はわかりませんでした。 そうして住んでいるうちに何年の年頃だか忘れましたが
サハリンから日本にひきあげました。
北海道についた 時私の母はサハリンからひきあげて来たと話を聞いた のですぐ北海道に行って
サハリンから来た人達 の中で私の住んでいる所から行った人も居たので 母は私の事よく聞いたそうです。
どこで誰と住んで 居たかその話し合った人には姉が私が住んでい る村にいたのです。
妹が姉に手紙をよこしましたので 姉の人が私を見て、あなたの母ではないですかと 聞かれました。
手紙をよんで見たら私の母でした。 私は大変うれしくて泣きました。
今でもうれしくて 忘れられない思い出になりました。その時から母に 手紙を書くようになったのです。

 昭和五十七年に母 が私に会いたいというので私と主人と二人で一月 青森に行って来ました。
三十四年ぶりで会いまし た。母とだき合って泣きました。妹二人家族としんせき の人とも会いました。
母は元気で私たちを待って 居ました。私の思い出は夢のようにたのしく うれしく心の中にのこりました。