著者(増田昭一)の略歴

 昭和20年3月 県立小田原中学校 卒業
 大学入試のため渡満す。父満州第2634野戦兵器廠部隊長(陸軍少将)夏休みの休暇をとり牡丹江の自宅に帰る。ソ連軍の攻撃を受け、志願兵として最も激戦地として有名な磨刀石付近の戦闘に参加し戦車攻撃寸前に、ソ連戦車砲の射撃にあい意識不明となる。その時右手首の知覚神経を切断す。猪股大尉の率いる第1大隊750名が肉弾戦をおこない(8月13日)戦車総計40両を破壊す。殆ど全員戦死。
私は13日の夜半気がつき、負傷した兵隊と共に戦場を離脱す。重傷の兵隊は、自決する者多し。その悲惨さは目をおうものがある。8月末、ハルビンに逃れる。母と再会する。9月初旬事情があって南下す。新京敷島地区難民収容所にはいる。
 11月下旬母発疹チブスのため死亡す。45歳
 その後新京敷島地区伝染病病院に勤務す。中国内戦のため中共軍(八路軍の衛生隊)に入る。部下30数名。戦争に疑問をもちチチハルで脱走す。
 生きるためにあらゆる仕事を経験する。(露天商・豆腐売り・たばこ売り・中国人の看板屋に雇われる。どれも長続きせず最後に日満書院に勤務す。)
 昭和21年12月帰国す。