花見槇子(一橋大学)
Makiko HANAMI (Hitotsubashi University)
西谷まり(一橋大学)
Mari NISHITANI (Hitotsubashi University)
目次
T. 序論
U. 短期留学生受け入れ制度の現状
1. 一橋大学の事例
2.
国立大学短期留学生受け入れ特別プログラムの内容とその問題点
V.考察
1. 教育システムの標準化の問題
2. 教育言語の問題
3. 日本語・日本文化教育の問題
4. 教育現場における学生交流の問題
5. 協定校選択の問題
W. 結論:三つの基本と二つの方向性
キーワード
国際化、システムの標準化、日本語日本文化教育、交流機会、多様化と特化
九州大学を皮切りに、国立大学に「短期留学生受け入れ特別プログラム」が設置されるようになって3年が経過した。同様のプログラムが導入されたところは現在11大学を数えるし、ここ1、2年後の実現を目指して検討中の大学もいくつかあると聞く。
短期留学については、
外国人学生が主として、大学間協定等に基づいて母国の大学に在籍しつつ、必ずしも学位取得を目的とせず、わが国の大学等における学習、異文化体験、語学の実地習得などを目的として、概ね一学年以内の一学期または複数学期、わが国の大学等で教育を受けて単位を修得し、または研究指導を受けるものであり、その授業形態は日本語または外国語で行われるものをいう。1)
との定義が公にされているが、ここでいう「特別プログラム」とは、事実上、主に英語で教育する科目を一定数そろえたプログラムを指している。
一方、一橋大学では、以下に説明する独自の方式で年間20名程度の短期留学生を受け入れてきているが、やはり英語による特別プログラムを導入するかどうかについても検討が始まっている。一橋の場合は、現行の制度の評価を行い、その改善や発展の方向性と合わせて、新しい「特別プログラム」導入の意義と可能性を追求するという課題を抱えていると言える。
短期留学生を受け入れるということの既存の教育システムに与えるインパクトは大きいと見なければならない。彼らは、いわば出身大学の制度を背負ってやってくるので、彼らのニーズを勘案すると、彼我の大学制度間の調整が必要となるからである。ここに、大学全体の国際化につながる動きとしての期待が生まれる。前掲の会議報告にも、短期留学生受け入れ推進の意義について、1)「より多くの留学生が多様な国から留学してくる」、2)「わが国と世界各国の大学間の協力、提携の一層の強化」と並んで、3)「わが国の大学における教育研究指導方法の大幅な改善や一層の国際化が図られる」ことへの期待が挙げられている(日本国際教育協会
1995: 15)しかし、これが真に国際化のプロセスにつながるかどうかは、大学全体がその教育理念を問い返し、様々な制度上の問題を掘り下げ変革するという取り組みなくしては実現しないだろう。
短期留学のモデルとしてはアメリカの大学のjunior
year abroad programがある。また、ヨーロッパの大学がInteruniversity
Cooperation Programなる多国間協定を結んで大学生の国際的流動性を高めようとする、European
Action Scheme for the Mobility of University Students、いわゆる「エラスムス計画」、そのアイディアを取り入れた、オーストラリアを中心とする[UMAP計画」がある。いずれも、大学生が自分のhome
universityから他大学へ学期単位で移動して単位履修し、卒業要件の在学年数と単位を満たした場合は、home
universityから卒業資格を得ることを可能にする制度である。こうした新しい教育の仕組みの底には、複数の大学で学んだことに対し等価性を認めるということが前提となっている。学生にとっては、専門分野に関してより広く深い勉学機会が得られ、語学力を磨くことができ、合わせて異文化体験や多様な国の人々との交流が可能となるといったメリットがあると期待される。
こうした海外の新たな制度の台頭を踏まえて、江淵一公は教育の国際化を次のように説明している。
日本が世界に向かって解放され、そして世界に通用するようなものに日本の大学教育、あるいは大学の制度、組織が変わっていくこと、他の国の大学教育との間に少しずつ互換性ができるような共通化が進んでいくこと、あるいは留学生のニーズに応じた教育課程を開発すること
2)
また、江原武一は、
教育の国際化とは、国際交流が盛んになった世界で生きていくのに必要な知識や技能、価値観、態度を身につけるのに役立つ教育を、すべての学生に与えるという考え方に基づいて、国際的にも異文化間でも互換出来るような教育プログラムの開発を重視しながら、学校や大学などで行われる教育を、より洗練され、内容豊かで、しかも社会的・文化的背景や出身地の違いを超えて、あらゆる学生に広く適用できるようなものにしていく過程
3)
と、定義している。これらには、1)日本の教育機関に、日本のみならず、世界の多くの国々から学生を受け入れることが可能であること、2)日本だけでなく、世界の多くの国々で、また国際社会の中で有用な人材を養成できること、3)教育制度やカリキュラムが他の国の教育システムとの間に互換性をもつことの三点が共通している。
筆者は、各国立大学で始まった短期留学生受け入れプログラムは、本来このような教育の国際化の流れの中に位置づけられるものと理解する。そして、こうした「教育の国際化」の観点に立って日本の大学教育のシステムをとらえ直すとき、そこに大きく二つの問題を見出す。その第一は、日本の大学のほとんどがほぼ唯一絶対的な教育言語としてきた日本語の国際的普及度の低さの問題であり、第二には、明治以来、日本人を対象とし、日本社会のニーズや文化に適応する人材の要請を目的として作られてきた教育システムの国際的対応性の低さの問題である。現在、各国立大学の短期留学生受け入れプログラムの抱える問題は、基本的に上記二つの問題のいずれかに帰結するものと考えられる。
各大学の「特別プログラム」実施上の様々な問題点については、昨年5月九州大学で行われた「日米短期交換留学シンポジウム」、そして今年6月の大阪大学主催の、スペース・コラボレーション・システム(SCS)という、衛星中継によるテレビ会議方式を利用した協議会等の機会を通じて、関係者の間に共有されるようになってきた。
本論では、一橋大学での経験及び「特別プログラム」を設置した大学からの報告に基づいて、現段階での短期留学生受け入れプログラムに関わる諸問題を検討・整理しながら、短期留学生受け入れプログラムが真に日本の大学教育の国際化につながる方途を探ってみたい。
一橋大学では、海外の大学に在学中に1年間の予定で学ぶ、主に学部レベルの留学生を「交流学生」と呼び、1988年にその受け入れを開始した。90年代に入って、文部省の授業料相互不徴収制度の発足を受けて、次々と新たな大学との間に学生国際交流協定が締結され、平成9年現在では、年間20名程度の受け入れを行っている。筆者二人は、1995年4月以降入学の交流学生全員に対し面接を行ってきた。1995年4月、同年10月、及び1996年4月に一橋大学に入学し一年間在籍した、学生国際交流協定校からの留学生32名の内、25名を対象として面接報告書を作成した。4)
(一橋大学留学生センター 近刊)。 以下はこの面接調査を通して明らかになった交流学生たちの一橋大学のプログラムに対する評価や、プログラムの問題点の概略である。
交流学生の受け入れに関して、一橋大学はこれまで一定の受け入れ方針を持って臨んでいる。それは日本人学生と留学生を区別しないで日本語で教育を行う「統合教育」である。社会科学の総合大学、またゼミナールを中心とする少人数教育を伝統とする大学の利点を、日本人学生と同様、交流学生にも享受してもらおうとの基本精神に基づいている。そこで、留学を希望する協定校の学生には、次の二つの条件を満たすことが期待される。第一に、一橋大学で指導可能な社会科学の一分野を専攻する学生であること、第二に、国際教育協会が実施する日本語能力試験の2級合格程度またはそれ以上の日本語力を有すること、の二点である。日本人学生と共に専門科目の講義を受け、ゼミナールに参加できる日本語能力をもった交流学生を受け入れることが一橋大学の方針である。
しかし、現在の交流学生の実態を見ると、すべての学生が受け入れ方針に合致しているわけではない。1997年度現在、日本語のクラスは5つのレベルに分かれているが、1995、96年度当時は3つのレベルで対応していた。基幹となるクラスは日本語1、2、3であり、日本語1が最もレベルの低いクラスであり、2、3と進むと、レベルが高くなっていく。日本語2は日本語能力試験2級合格程度のレベルを想定している。
日本語レベル | ||||
出身地域 | 日本語1 | 日本語2 | 日本語3 | 合計 |
---|---|---|---|---|
オーストラリア | 1 | 8 | 3 | 12 |
ヨーロッパ | 9 | 1 | 0 | 10 |
北米、香港 | 0 | 3 | 0 | 3 |
合 計 | 10 | 12 | 3 | 25 |
表1に見られるように、ヨーロッパとオーストラリアの二つのグループの間に日本語力において格段の差があり、その中間に香港、北米大陸の学生が位置している。日本語力の点から見ると、日本語能力試験2級レベルに達している学生は全体の6割程度であり、約4割は、日本語能力試験2級レベル以下の学生である。日本語力が受け入れ基準以下の学生は、主にヨーロッパ地域の協定校出身の学生である。
専門教育を実質的に受けられるかどうかは、交流学生の日本語能力と密接な相関関係をもっている。特に講義科目に関してはこの傾向が顕著である。交流学生の学期毎の履修科目リストによると、日本語1レベルの学生は、一年間、日本語科目とゼミナール以外に学部教育科目をほとんど履修していない。一橋大学が理想とするのは、日本人学生と共に専門科目の講義を受け、ゼミナールに積極的に参加できる日本語能力をもった交流学生であるが、その理想に合致した学生はオーストラリアの協定校出身者にほぼ集中している。
オーストラリアの学生の中には、高校生の時から日本語学習を始めた者も多く、面接対象者のうち半数が、高校時代に日本留学を経験していた。オーストラリアでは、大学における日本語教育体制も充実しているため、大学入学後に日本語学習をはじめた学生の場合も、日本語2または3レベルになってから留学してきている。彼らは日本語科目に加えて、日本人と同様の講義科目もいくつか履修し、ゼミナールに積極的に参加している。「統合教育」のメリットを最大限に享受している層と言える。しかし、日本語力がある彼らでも、ゼミナールへの実質的な参加は容易ではない。各学期1、2回から数回の発表を担当し、討論にも加わっているが、語学のハンディキャップを感じつつ、緊張感をもってゼミの勉強に取り組んでいる。そして、多くは充実した一年間への満足感と達成感を抱いて帰国している。
一方、ヨーロッパの協定校出身者は日本語力のハンディが大きく、従って専門教育への参加の程度が著しく低い。ゼミナールについては、専門教官側から、知的能力と積極性があれば片言でも参加は可能であるという示唆もなされているように、かなり柔軟な受け入れが可能である。とはいえ、日本語1レベルの学生にとって、特に最初の学期中は、ゼミナールでやっていることがほとんど何も理解できない。日本語の専門書にはまったく太刀打ちできないし、英語の文献を使っていたとしても日本語による討論に参加することは不可能である。二学期めになって、ようやくゼミナールで話されている内容がわかるようになったてきたと自己評価している学生もいるが、自分から質問やコメントができるまでには至らない。しかし、そのような状態であるにもかかわらず、彼らは毎週ゼミナールに出席し、ゼミナールに所属していることを基本的に肯定している。指導教官側も、これらの学生の参加について特に負担は感じていない。
彼らの日本語力が低い最大の理由は、母国における日本語教育に求められる。ヨーロッパの協定校は、学内の日本語教育体制が整っておらず、しかも学外のリソースも活用できていない。そのため、低い日本語力で来日することになる。これらの学生にとっては、本来、専門教育を受けるための語学力の不足を補う位置づけにあるはずの日本語科目が留学の主要目的となっている。交流学生が受講する日本語の授業は「日本語・日本事情教育」の中の科目であり、正規の授業科目として単位が与えられる。しかし、基幹となるクラス以外の選択科目は、ほとんどが日本語能力試験2級レベル以上の学生を想定して授業を行っているため、日本語力の低い学生が履修できる日本語の授業は少ない。ただし、彼らが利用できる学内外のリソースは、公民館主催の日本語講座、さまざまな形の日本語ボランティア、学生チューターなどかなり豊富である。来日時の日本語力が低い学生は、授業やそれ以外のところで熱心に日本語を勉強し、日本語習得の面では概ね満足して帰国している。しかし、彼らのレベルにあった、来日後半年間、週に8コマ〜10コマ程度の集中コースへの要望も出されている。それを受けて97年度現在は、留学生センターの研究留学生のための予備教育の授業との相互乗り入れを行い、日本語能力の低い交流学生のためにかなりの授業時間を確保している。
交流学生の日本語力は協定校の地域によって大きな差があり、その結果一橋大学における留学生活にも大きな差異が見られるものの、彼ら全員が、一橋大学の「統合教育」方式を高く評価している。日本人学生と同様に、ゼミナールや講義科目を履修することができ、日本人学生との交流機会があるということに満足を表わしている。
では、交流学生がすべて、日本語のみによる教育を全面的に肯定しているかと言えばそうではない。「英語で教える授業があったらいいか」という質問にをすると、特に日本語1レベルの学生の中には乏しい日本語力で大学の専門科目を学ぶことに困難を感じ、英語による講義を強く希望する者もいる。英語による教育に対するニーズが存在していることも確かである。
平成7年度に始まった国立大学における短期留学特別プログラムは、平成9年度現在11校に増加している。英語による特別プログラムは留学生センター内に設置されている場合と既存の学部の中に置かれている場合があり、各大学の定員は20〜30人程度である。日本語能力に関して一定の条件をつけている筑波大学のようなところもあるが、日本語力ゼロでも受け入れているところがほとんどである。英語による特別科目と日本語学習の2本立てでカリキュラムを組んでいる点は各大学で共通しており、英語による特別科目は文化系と理科系の両方を提供している大学が8校、理工系のみ、社会科学系のみ、人文・社会系のみがそれぞれが1校となっている。
96年5月九州大学で行われた「日米短期交換留学シンポジウム」、97年6月の大阪大学主催の、スペース・コラボレーション・システム(SCS)を利用した協議会等の機会を通じて、特別プログラムの様々な問題点が浮き彫りになっている。学生の多様性に起因する問題、大学の受け入れ体制の問題が中心であるが、それらを以下に列挙してみる。
(1)「日本語ができない学生」に限って募集しているのではないため、学生間の日本語力の差が大きい。日本語で教育を受ける力があり、特別プログラムを希望しない学生まで混じっている場合もある。
(2)特別プログラムへの参加者は、英語を母語とする学生だけではないので、英語力も一様ではない。
(3)学生の語学力、基礎学力が多様なので、授業の焦点を絞りにくく、いきおい教養科目的内容にならざるをえないという意見が担当教官側から出されている。
(4)理工系科目を中心に特別プログラムを開始した大学からは、プログラムに応募する学生が少ないという問題が指摘されている。理工系分野では英語が国際共通語となっているため、英語による教育が比較的行い易いと考えられていた。理工系の学生が集まりにくい理由として、彼らにとって1年間の留学は長すぎるのではないかとの指摘もある。
(5)特別プログラムの中心は英語による専門科目の授業であるため、日本語学習に割り当てている時間は週に4、5コマ程度とそれほど多くない場合が一般的である。しかし、学生の主目的が「日本語習得」にあるという場合も多く、日本語教育体制について学生側から不満の声が出ている。
(6)英語による専門科目の講義が担当教官のボランティアに頼っているところが多く、英語で開講する科目数を確保することは難しい。特別プログラムを開始する以前から、正規科目として英語による講義をいくつか開講していた大学は別として、特別プログラムのための英語による講義は正規の講義負担に数えられていないという問題がある。
(7)単位互換が充分に行われていない。また、単位認定と成績認定は別の問題であり、単位が認定できても、成績を認定することはより難しい。
(8)アメリカ、オーストラリア等の学生から、講義中心で討論の時間がない、reading
assignment がない等、授業の内容、進め方についての不満が出されている。
(9)一般学生との接触が少ない。共に学ぶ学生は留学生ばかりで、日本人学生と接触する機会がないとの不満がでている。短期交流には異文化体験や多様な国の人々との交流が可能となるといったメリットがあると期待されているが、外国人学生が特別プログラムに隔離されてしまえばそうしたメリットは少ない。
以上、一橋大学における短期留学生受け入れ、及び国立大学短期留学特別プログラムの経験から浮かびあがってきた諸問題は、概ね五つの領域に分類整理できよう。それらは、1)教育システムの標準化の問題、2)教育言語の問題、3)日本語日本文化教育の問題、4)学生交流の問題、5)協定校制度の問題である。以下にこれらの問題について考察する。
大学の国際化に際して問題となることの一つが、日本と諸外国の教育システムの相違である。国によって、学年暦、単位の設定と成績の判定基準、教育方法、さらには高等教育観が異なっている。自国の学生のみを対象に大学教育を行うのであれば、それらの差異を問題にする必要はないが、多国籍の学生が大学間を移動して大学教育を受けるという場合には、あまりに大きな違いがあると、一貫した教育が受けられず、学生の不利益になる可能性が出てくる。
まず、学年暦の問題がある。日本の大学の新学期は4月に一斉に開始されるが、外国の大学の新学期は2月、9月、10月など様々であり、学期制についても2学期制、3学期制等いろいろな型がある。日本の大学は従来、一年間を通して一つの科目を履修する通年講義形式をとっていた。この形であると、学生は春に来日しなければ、一つの講義の途中から参加することになり、内容の把握が難しくなる。
しかしこれは、それぞれの学期で一つの科目が完結するセメスター制をとれば、解消することができる。一橋大学でも通年講義主体からセメスター制に移行して来ている。従来の通年講義は1年間という長い期間にわたって、しかも2ヵ月の長期夏期休暇をはさんで学生の興味を持続させることの困難さが指摘されていた。2学期制は約4カ月で一つのサイクルになるため、効率がいい。従って、セメスター制は、留学生の受け入れ、送り出しの際に有効であるだけでなく、教育効果も期待できる。ただ、問題がないわけではない。春の学期に入門的な科目、秋の学期にその応用科目を開講している場合、秋に留学してきた学生は最初に応用、次に入門科目を履修するという逆転現象が起こってしまう。学生の要望に応えて、一橋大学では日本語科目について、1997年度から特に留学生に人気の高い「文章表現」のクラスについては各学期、比較的簡単なクラスとその次の段階のクラスの二クラスを同時に開講している。
短期留学交流の要となるのが、単位互換である。序論で述べたように、junior
year abroad program、「エラスムス計画」、「UMAP計画」では、複数の大学で学んだことに対し等価性を認め、外国の大学で取得した単位がhome
universityの大学で認定され、卒業が遅れないことが期待されている。単位互換を進めるためには日本の大学で行われている講義がhome
universityの大学の講義のどんな科目と一致するか、一致しないのかを判断する必要がある。科目名が一致しているだけでは不十分であり、講義の内容についての詳細なシラバスが必要となる。つまり、単位互換のためには授業の中身が重要ということである。授業の総時間数の均衡の問題にも留意しなければならない。同じような内容でも授業時間数が大幅に異なれば、単位が認定されないという事態も出てくるだろう。オーストラリアのある大学では、学生が日本から持ち帰った講義ノートを英訳し、自分の大学の講義科目とつきあわせる作業に日本語教官が忙殺されているということである。最近、日本の大学でも、詳細なシラバスを講義要綱にのせたり、学生に初回の授業で配布する教員が少しずつ増加している。講義の内容、組み立てを事前に正確に学生に知らせることは日本人学生にとっても有益である。
単位が認定できたからと言って即成績が認定されるわけではない。日本の大学では成績は、普通A、B、C、Dの4段階評価であり、Aの範囲がかなり広い。アメリカ、オーストラリアなどの大学はそれぞれがプラス、マイナスの細かい評価に分かれている。日本の大学で得たAという成績がhome
universityのA+、A、A-のいずれにあたるのかを判断することは難しい。相手方の大学のシラバス、成績認定基準が日本より細かい場合、日本人学生が留学先で履修した科目について、日本の大学側が単位認定、成績判定をすることは容易であるが、その逆は非常に面倒なことになる。
成績の段階を細分化するためには、テストやreading
assignment、レポートなどをこまめに課し、その結果を客観的に点数化することが必要となる。教員の手間も大変なものになるというだけでなく、そもそも「大学教育とは何か」という高等教育観とも関わってくる。「大学生は自ら学ぶ能力と資格を有する者として選ばれて学問の世界に入ってくるエリートであり、大学教師は自己の学問の成果を提示すれば、学生は自ずから自学自習し身につけていくものだ。」5)
という伝統的なエリート教育観を維持していくのであれば、頻繁なテストやreading
assignmentの提示、細かい成績評価などは必要がないことになる。大学進学率が40%にのぼる現在、大学生の質は大きく変化している。そのため、日本の大学でも学生を勉強させるための教育体制作りに取りかかっているところも多いが、成績評価システムを見直すところまでは進んでいない。となると、留学生がhome
universityに成績を持ち帰ることを可能にするためには、当面、日本人学生とは異なった留学生用の基準で成績をつけるという選択もありうるだろう。
日本の大学教育は明治以来、知識を集積することを重視してきた。そのため、教育方法は教員による知識の伝達、つまり講義が中心であったし、現在もこれが主流である。それに対して、アメリカ、オーストラリア等においては、思考方法を学ぶことに重点を置いている結果、学生は授業に主体的に参加することを求められる。積極的に討論に参加することをよしとする教育を受けてきた学生にとっては、一方的に講義を受けるだけの授業は「退屈」に感じられる。一橋大学のアメリカ人交流学生の中には、日本語力は低くても積極的にゼミナールの場で発言し、指導教官から高い評価を受けた学生がいる。一橋大学のゼミナール制度は交流学生から積極的な評価を受けているが、ゼミナールでの日本人学生の討論は必ずしも活発ではなく、学生が一方的に発表し、教官がまた一方的にコメントするだけという印象をもつ留学生もいる。初等中等教育レベルにおける討論能力を育てる教育がなければ、大学に入っても意味のある討論をすることは難しいのではなかろうか。
従って、教育システムの標準化と言っても、学年暦の問題のように割合に簡単に手をつけられることから、教育観にまで及ぶ根の深い問題まである。明治時代に日本がモデルとしたのはドイツの大学であり、戦後の新制大学への移行についてはアメリカの大学がモデルとされた。今、大学の国際化に当たって、どのような制度を国際的標準と考えるのか、また世界の大学がすべて標準化されることが望ましいことなのか。
一橋大学の交流学生面接ではゼミナールに対する評価が非常に高かった。関(1988)によればアメリカの大学では本格的な専門教育は大学院で行われているということであるし、アメリカ以外の国からの留学生の中にも、母国の大学では触れることのできない専門的なゼミナールの指導を評価する者は多い。世界中の学生の移動をスムーズにするためには、標準化すべきところもあり、その際には大学の国際化先進国であるアメリカに範を求めることができる。しかし、同時に、日本及びそれぞれの大学の良い意味の特殊性を維持することは留学生にとっても大きなメリットになるはずである。
今日、国際的学術用語として、あるいは国際教育言語としての英語の地位には揺るぎないものがある。戦前のユダヤ系学者のヨーロッパからアメリカ合衆国への大量流出をひとつの契機として、戦後、アメリカ合衆国は、政治経済の分野のみならず、学術研究及び留学生受け入れに関しても世界の中心となった。植民地時代から戦後のある時期までは、英語圏に拮抗して、フランス語圏、スペイン語圏等の存在が顕著であったが、それらの地域でも今や英語の必要性に対する認識は高まり、その普及が進みつつある。
一方、アメリカ合衆国にイギリス、カナダ、オーストラリア等の英語圏諸国を加えると、今日英語の国際的共通語化には止まるところを知らない勢いがある。それは、現在日本の大学に留学中のアジア系留学生の態度にも微妙に反映される。かつては、日本に学び、日本語一カ国語を習得することによって帰国後何らかの領域でプロフェッショナルとしての地位を占めることはさほど難しくはなかったと思われるが、今日、日本語に堪能になるだけでは帰国後第一線での活躍はおぼつかないことを意識して、彼らの多くが、日本の大学からの学位取得の困難さとも相俟って、アメリカを筆頭とする英語圏への再留学を視野に入れていて、アドバイザーである我々に相談に訪れる者も次第に増えている。
このような時代に、日本で学ぶなら日本語で、という正論だけで日本の大学教育が終始することへの疑問が出てくるのは当然であろう。それは留学生教育の問題である以前に、まず、日本人次世代の国際社会における将来性の問題であり、日本人研究者の国際的通用度の問題でもある。
「日本を学ぶ」から「日本で学ぶ」へ?
日本への留学生数が伸び悩む原因のひとつとして、日本語習得のむずかしさが常に挙げられる。それが特に短期留学生となると、たった一年しかいない留学生に日本語を学ばせることの無駄、日本語で学ばせることの無理が強調される。そこで注目されるのが、今までの「日本を学ぶ」に替わって、「日本で学ぶ」という考え方である。数学という世界共通言語が土台にあり、科学技術用語に英語が普及、英語の学術書や論文をそのまま教科書に使うことに比較的に慣れた理工系の分野を中心に、特に日本に関する研究ではなく、世界に通用する先端的分野を日本で学ばせる、ということであり、英語で対応できる教育環境が比較的整っていると自負する分野からの提起である。この場合、留学生は、日本という国や文化には関係なく、日本の大学が提供する、他国の大学にはない、あるいはより優れた学問分野に惹きつけられてやって来ることになる。しかし、学部レベルの学生で、日本にある特殊先端的な専門領域の追求を第一の目的として留学を志す者が現状でどのくらいいるだろうか?home
universityから「日本で学ぶ」状態への移動は、単に研究室を移動する以上の環境の変化やリスクを伴う。やはり、「日本で学ぶ」可能性に加え、「日本を学ぶ」関心がなければ、十分な留学動機とはならないのではないだろうか。
現に、「特別プログラム」に理工系の科目を用意した大学からは、理工系の学生がなかなか集まらないとの問題があげられている。これが、もともと理工系の学生が、異文化や外国語に対する関心が比較的低いということなのか、あるいは卒業要件の単位履修時間数が多く、また履修科目が構造化されていて、一年間も「レールからはずれる」ことが難しいということを意味するのかについては、理工系学部をもたず、そのような留学生の受け入れを考慮したことのない一橋大学所属の筆者には判断の材料がない。
ただし、似たような事例として、アメリカの大学の経営学専攻生の状況がある。一橋大学と協定を結んでいる大学の、ビジネス・スクールの学部プログラムをコーディネートしている教授とのコミュニケーションによると、経営学専攻生はこれまで外国語習得や留学への関心が低く、また履修単位が多いためその余裕もない。こうした点を考慮して考えられるのが、英語で「日本を学ぶ」ということであり、さらに留学期間を半年に短縮することである。
確かに、英語による教育機会は、これまで日本語習得の壁に阻まれて、日本留学をまともに考慮することもなかった層へ関心を促し、結果として留学生数をある程度拡大する可能性をもたらすだろう。
翻って、「日本で学ぶなら日本語で学ぶのが当然」という考え方は、今もって多くの支持を得て、正論として通用する。それは、日本人の国粋主義的、反植民地主義的感情といったレベルに限定されるものではなく、日本人の中の国際派と考えられる人たち、そして外国留学経験組の支持をも広く集めるものである。さらに、留学生を送り出す側、すなわち留学生のhome
universityの関係者たちも、文化の相対性の認識や多文化主義への関心が世界的に高まっている今日、決して留学先の言語習得を軽視しているわけではない。
アメリカの場合、国際社会における指導的立場と役割認識に基づいて、これまで留学生の受け入れ先進国に徹してきた経緯がある。日本留学を志す層といえば、日本の伝統文化や日本文学に強い関心をもつ層、Japan
specialistを目指す層にほぼ限定されていたことが結果として日米間の留学生数の不均衡を生み出し、「短期特別プログラム」を作るきっかけともなった。しかし、近年、ポスト覇権主義の時代を背景として、これまで留学に関心の低かった、例えばビジネス・スクールにおいても、外国語習得と留学を学生に積極的に促す方針が目立ってきている。前項で触れた、ペンシルヴェニア大学ウォートン校の学部教育コーディネーターも、現状ではまだまだ留学に関心の低い学生への配慮を期待しながらも、そうした状態を肯定しているということでは決してなく、むしろそれを問題ととらえ、改善していく姿勢を打ち出している。
また、カリフォルニア大学バークレィ校では、三年前、大規模な予算削減の嵐の中で生き残るために、伝統的に日本文学偏重の傾向が強かった日本語科が、経営学専攻生のための日本語プログラムを開始し、成果をあげている。
さらに、オーストラリアの場合は、中等教育レベルから日本語教育が普及しており、大学では、語学とその他の専門分野を組み合わせたdouble
major(複専攻)のシステムが行き渡っている。留学するならば、その国の言葉に習熟することを目指すという正論が大学関係者の間に根付いていると見られる国のひとつである。したがって、日本の大学に来て、日本語で学べる、学びたい学生が多く、畢竟英語による特別プログラムへの関心は低い。
今後とも各大学が英語による特別プログラムを作っていくとしても、短期留学においても、こうしたいわば‘正統派’留学組の存在を忘れることはできないだろう。英語で教育するか、日本語で教育するかという二者択一の問題ではなく、日本語で教育することがあくまで正論である。加えて英語で教育する機会を作ることのメリットには、1)今まで日本留学など考えられなかった層にまで留学志向を拡大する可能性をもち、2)大学教育を受けるには不十分な日本語力と、逆に十分な英語力をもつ学生たちの、日本の大学で学ぶ機会を多様化し、3)日本人学生及び非英語圏からの留学生に英語で学ぶ機会を与え、4)教官にとっては、国際社会において、研究者としてのみならず、教育者としての価値を高めることになる、等が考えられる。
一方、日本語で教育するメリットは、1)既存のカリキュラムをほぼ全面的に生かすことができ、専門性の面で、各大学のもてる最良のものを提供できるし、履修に関して最大限の選択肢を与えることができる、2)留学生が日本人学生とともに学ぶ機会を保証できる、という二点があげられる。
留学生の側からすれば、それぞれの能力やニーズ、関心によって、英語による科目であろうと日本語による科目であろうと自由に選択できることが好ましいだろう。
これまでは、「日本で学ぶなら日本語で学ぶのが当然」また、「留学の成果をあげるためには、一定レベルの語学力が必要」との考え方が主流であった。近年、国立大学短期留学特別プログラムの登場に見られるように、「日本において英語で学ぶ」という新しい留学のスタイルが生まれている。ここで、改めて「日本語学習」の必要性について検討してみたい。
短期留学特別プログラムの実施校からも「日本語能力は実際には日本留学が成功するかどうかを左右する大きな鍵である」6)という意見が出されている。言語学習期間は「語学力」をつけること以上の重要性をもっている。言語学習の期間はいわば留学準備期間ととらえることができる。
Dulay他(1984)によれば、第二言語学習の際の動機は、統合的動機と道具的動機に区別されるという。統合的動機とは、その国の人々や文化等に興味があって語学の学習を始めるものであり、日本語学習者は従来このタイプが主流であった。道具的動機とは実用的な理由によって、つまり語学を手段として学習しようというものであり、日本の経済的発展に伴い、こちらのタイプの学習者が増加している。どちらの動機にしても日本語を学習している間に、日本留学に対する期待、目標が次第に形成されていくことになる。語学を学ぶプロセスは文化を学ぶ過程でもあるため、日本留学に適性のない学生をふるいにかける役割も果たす。特別プログラムの実施校でも「日本に留学したい者の多くは以前から日本に関心を持っている者のようで、レベルの格差こそあれ日本語既習者が多い。」7)という。
日本語学習期間を経ていることは、来日後のリスク回避にも役立つ。日本語学習を通してある程度の精神的な準備ができていれば、留学中、困難な問題にぶつかった時にも、簡単に挫折することなく、留学生活をまっとうできる可能性が高くなる。日本語も日本文化も知らずに来日すれば、異文化不適応状態に陥る可能性も大きくなる。そのような学生を受け入れるのであれば、英語で異文化間カウンセリングのできる専門職を配置するといった対処も必要となってくるだろう。
日本語力と一口に言ってもいろいろな段階がある。おおまかに四段階に分けると、日常生活に必要な程度のサバイバル日本語(日本語能力試験4級、3級程度)、指導教官との個人的な会話やゼミナールの場で意思疎通して専門の勉強が一応行える程度(2級程度)、日本人と一緒に講義を受けたり日本人学生と討論することができる程度(2級の上、1級程度)、レポートや論文が書ける程度(1級以上)となるだろう。学部の正規留学の受け入れにあたっては日本語能力試験1級合格を条件としている大学が多い。一橋大学の場合も、学部正規生には1級試験330点以上を、交流学生には2級合格程度を、受け入れの条件として課している。
級 | 認定基準 |
---|---|
4 | 初歩的な文法、漢字100字程度、語彙800語程度を習得。 学習時間150時間程度。 |
3 | 基本的な文法、漢字300字程度、語彙1,500語程度を習得。 学習時間300時間程度。 |
2 | やや高度の文法、漢字1,000字程度、語彙6,000語程度を習得。 学習時間600時間程度。 |
1 | 高度の文法、漢字2,000字程度、語彙10,000語程度を習得。 学習時間900時間程度。 |
日本語は多くの外国人学生にとって馴染みの薄い、学習機会の少ない外国語である。中等高等学校レベルで日本語の授業が受けられる国は非常に少ないだけでなく、大学レベルでも質量ともに満足のいく日本語教育を行っているところは多くない。表2の認定基準を見ると、日本の大学で行われている第2外国語の授業と同程度の時間数では、1年間学習しても4級合格ラインに達するかどうかという段階である。来日時の日本語能力が3級合格程度であれば、半年間効率の良い日本語集中教育を受けることによって、残りの半年はゼミナールの場で意思疎通し、わかりやすい日本語の講義科目を1つか2つ受講し、日本語で専門の勉強ができる程度にはなるだろう。しかし、全く日本語を勉強したことのない状態で留学してきた場合、非漢字圏の出身者であれば、日本語だけを半年間集中して学習したと仮定しても、到達するのは3級合格レベルであり、残りの半年間も日本語で学ぶことは不可能である。
江淵(1996)によれば、イギリスでは自国の学生と留学生を区別しない前提として、しっかりした英語教育を行う語学教育センターを充実させる方向で進んでいるという。日本で大学教育を受けるからには日本語で、という前提を崩さないのであれば、はじめから日本語力の高い留学生だけを受け入れるか、あるいは、イギリス方式をとって日本語集中教育体制を整備することが必要となる。はじめから日本語力の高い学生を求めようとすれば、日本語教育の盛んな地域あるいは漢字圏に協定校を求めなければならない。前章で述べたように、一橋大学が理想とするのは、日本人学生と共に専門科目の講義を受け、ゼミナールに積極的に参加できる日本語能力をもった学生であり、オーストラリア地域からは理想に合致した学生が留学してきているが、すべての協定校にそのようなレベルの日本語力をもった留学生の送り出しを求めることは難しい状態である。
日本語教育体制の整備は、海外において、日本において、の2つの方向が考えられる。前者は海外における日本語センターの整備、拡大と海外の中学、高校、大学へ日本語教員を派遣によって、日本語で大学教育を受けるに耐えうる日本語力を養成する方法である。現在も、青年海外協力隊、国際交流基金の日本語教育専門家派遣などが続けられているが、十分とは言えない。日本語能力試験の問題もある。アメリカ留学の際に必要な英語の試験TOEFLは、日本でも全国各地で毎月受験することができる。ところが、日本語能力試験は実施会場が少なく、しかも、一年に一度しか受験できない。日本語教育の普及のためには、海外における日本語能力試験の実施会場を拡大する、試験の回数を増やすといったことも必要である。
日本の国立大学において日本語未習者に対して集中教育を行っている典型例は、東京外国語大学の日本語教育センターにおける学部正規学生のための予備教育である。1年間集中して日本語教育をほどこし、日本語能力試験2級、うまくいけば1級合格程度の実力をつける。しかし、この方法は4年間で学位を取得する目的の学部正規留学生にとっては有効でも、留学期間1年程度の短期交流学生には適当ではない。また、現在国立大学の留学生センターで国費の研究留学生に対して行われている半年の日本語集中コースでは、ゼロからはじめた場合には初級文法をようやく終了する程度、つまり日本語能力試験3級合格程度に到達する程度である。半年間でまったくの未習者が日本語による講義が受けられるレベルに到達することは困難である。
以上、事前の日本語学習は留学準備期間として重要な位置づけにあること、また、来日後の日本語教育だけでは、日本語未習者が「日本語で学ぶ」段階に到達することは不可能であることについて述べてきた。留学生の母国及び日本国内における日本語教育体制が整備されることによって初めて、「日本語で学ぶ」留学を実現することが可能になる。来日後の日本語教育に関して大学内だけでは対応が難しい場合には、民間の日本語学校と連携をとることも考慮されてよい。
しかし、「日本語で学ぶ」ことと「英語による講義をいくつか受講する」こととの間に矛盾はない。一橋大学の交流学生面接では、日本語力が高く、高校時代にも1年間の日本留学を経験したオーストラリアの学生でも、来日当初は日本人学生と対等に専門の講義を受け、ゼミナールに参加することは容易ではなかったと語っている。日本語力の強化と英語による講義の提供は互いを排除するものではなく、留学を実り豊かなものにするための両輪であると考えることができよう。
また、比較的日本語教育体制の整っているアメリカの主要大学では、初中級レベルの日本語を学習している学生はかなりの数にのぼる。そういったところで日本語を学んでいる学生に対して、短期留学特別プログラムの存在を知らせる努力も必要であろう。
国立大学の「特別プログラム」を履修している短期留学生の間から、日本人学生と接触する機会が少ないという不満が出ているとの報告があった。こうした不満は、私学における留学生別科や国際部等でもよく聞かれることである。まず別科などで日本語を習得し、その後正規の履修課程に入ることを計画している長期留学生は、この期間を準備期間ととらえることもできるが、短期留学生の場合は、それが留学期間のすべてであり、その期間に得られるものへの期待も大きい。
これは、特別プログラムの授業科目に加えて、何らかの学生交流の機会を作れば解決するという問題ではない。日本人にとっては、例えば、英語圏の大学へ留学したつもりが語学力不足のために外国人のための英語コースに入れられ、しかもクラスの大半が日本人だったという類の経験(典型的には、夏期語学留学)に照らして考えると理解し易いだろう。大概、留学のイメージは、同じクラスでその国の学生たちとともに学ぶことにある。大学間交流協定に基づいて渡日する短期留学生の場合も例外ではない。
先の大阪におけるUMAP会議では、英語による特別プログラムの創出について、「日本を学ぶ」から「日本で学ぶ」への転換論として、日本人側から積極的な発言が展開されたが、それに対して、オーストラリアやカナダの大学の教官から、留学生の「ゲットー化」への懸念が強く表明された(
中村 1995 : 11-12)。これは、英語で授業をするということ、そのものに対する反論ではない。ただし、日本語力を問わずに受け入れた留学生に対し英語で科目履修をさせるプログラムというと、学生を初めとする関係者が直ちに想起することは、留学生ばかりが集中してしまう、望ましい留学環境とはかけ離れた状態のことなのである。
一橋大学の場合は、短期留学生を日本人学生及びその他の留学生とともに教育するという統合教育の方針を採ったため、留学生が一定のプログラムに囲い込まれる現象は起きていない。この方式は、留学生にそれだけの日本語力があることが前提となっているのだが、面接調査をしてみると、渡日当初、極めて日本語力が乏しく、ゼミナールや専門講義科目を履修してもほとんどその内容が理解できないような学生でも、基本的に統合教育を評価していることは注目に値する。彼らのほとんどは、ゼミナールが、一橋大学における専門教育の根幹をなしており、教育的・社会的交流の最も重要な場となっていることを理解し、何とかゼミについて行こうと努力する。その結果、全くの「お客さん」状態から出発して、発言も発表もできない一学期を経て、チューターの助けを得ながら、課題に基づいた発表を何とか日本語でやり遂げるまでになり、一定の達成感をもつ。また、ゼミ合宿、コンパ、スポーツ等の機会を通して、日本人学生との交流を楽しむ。最も語学力の低い短期留学生を受け入れた指導教官たちも、それを負担や無駄とは考えず、むしろ、彼らにとって、またゼミ全体にとってのよい効果を認め、また期待している。
日本語で専門教育を受けることを承知してやって来る一橋の短期留学生たちは、もともと日本語学習意欲の高い学生であると言えるが、英語で教える授業があったらいいかという質問に対しては賛否両論がある。ただし、彼らの意見は、日本語力の違いによって分かれるものではない。日本語の低い学生でも、英語によるプログラムは必要ないと言い切る者もいるし、その一方で、故国で1、2年勉強してきた程度の日本語力で大学の専門科目を学ぶことの困難さを実感し、英語による講義が増えることを歓迎する者もいる。
日本語力の高い学生の場合は、日本語で勉強したいと考える者が多いが、なかには、日本語力が極めて高く、ゼミで活躍し、日本語による専門講義科目も取っている学生でも、英語による授業もあった方がいいと考える者がいる。このような学生は、一橋における達成目標を、日本語の上達よりも専門分野の勉学においている。
だが、どの学生にも共通するのは、日本語による教育機会や日本人学生とともに教育を受ける機会を失うことへの強い拒絶反応である。逆に、日本語での科目履修の可能性を保証した上で、選択肢のひとつとして英語による授業がある、という状態への反対意見は見られないのである。
英語によるプログラムを組むに当たって、このような日本人学生との共学体制を当初より意図的に作り出している例として、教養部教養学科にこのプログラムを組み込み、教養学科の日本人学生が留学生のカウンターパートとしてともに授業を受ける東大の例、及び留学のための訓練プログラムとしての意味を加えて、短期留学生と同数の日本人学生をプログラムに参加させるという京大の例が注目される。
現状では、短期留学生の受け入れのほとんどは、海外の大学との学生国際交流協定に基づいて行われる。一橋大学の場合も、北米、太平洋地域、欧州、アジアにまたがる14校を中心として受け入れを行っている。協定校制度に基づいて短期留学プログラムを推進することのメリットは、第一に、受け入れ・派遣の双方向性をもった相互交流にできること、第二に、毎年、一定数の留学生を安定的に供給できること、第三に、基本的に留学生のhome
universityが派遣留学生を責任をもって選択・推薦する方法を採れるので、受け入れ側の選考負担が軽くなること、第四に、在籍学生を協定校に派遣する場合、受け入れ大学がある程度責任をもって面倒を見てくれるという安心感があること等である。
一方、このような協定校制度に基づかない短期留学もあり得る。それは、欧米の大学で一般にvisiting
studentsというカテゴリーで受け入れている制度が代表的なものであり、学生が個人で留学先の大学へ入学申請の手続き一切を行う。この場合、留学生の出身大学が奨学金や受け入れ依頼状を付けたとしても、受け入れ大学側が独自の選考を行い、その責任において入学を許可することになる。この方法のメリットは、協定校からの推薦枠に拘束されることなく、受け入れ大学の基準に見合った留学生を採れることにある。ただし、毎年一定数の留学生を確保しようとすれば、相当多数の海外の大学に対して教育内容や受け入れ条件などに関する広報活動を展開し、国際的評価を築く必要がある。また、多数の問い合わせや入学申請書類請求に対応し、応募者の中から基準を満たす優秀な学生を選考するプロセスも独自に確立しなければならない。
ここで、協定校制度に基づく交換留学とvisiting
studentsの制度を比較したのは、一橋の事例における問題点を検討するためである。すなわち、一橋の場合、大学の全体的な教育理念に見合った、明確な短期留学生受け入れ方針をもって臨んでおり、一大学のもつ最良の教育を提供するという点では、筋の通った見識ある態度と認められるだろう。ただし、その方針と受け入れ実態との間に齟齬を来しているのは、本来見識ある受け入れ方針が、国際教育市場における入念なマーケット・リサーチに基づいて、その基準に見合う留学生の供給源が十分に存在するという点を確認した上で成立したとは言い難い点に起因すると思われる。現在、一橋の受け入れ基準に合う短期留学生を毎年安定供給できる実績をもつのは、オーストラリアの大学に限定される。その他の大学との学生交流協定締結要因を見ると、授業料相互不徴収制度が発足する以前からの、受け入れ中心の関係の延長線上にあるものや、世界の様々な地域の大学と協定を結ぶという、地理的バランスへの配慮、派遣留学生の需要を満たす留学先としての選択などがあり、結果として、それらの協定校が必ずしも基準に見合った留学生を送れない状態を黙認することになっている。
したがって、一橋大学が現在の受け入れ方針を貫くとすれば、論理的には、1)既存の協定校を取捨選択して、基準に合う大学のみを残し、新たに他大学と協定を結ぶ、2)visiting
studentsの制度を確立し、協定校にとらわれずに広く世界中の大学から、能力のある学生を募集する、の二つが考えられる。しかし、1)の場合は、地理的なバランスを保ち、派遣留学生の需要にも応えるというという他の協定校選択条件とかみ合わない問題が出てくるだろうし、2)の場合は上記の通り、コストが高くつく。
そこで、第三の選択肢ともいうべき方法としては、複数の大学と一度に協定を結ぶ、consortium方式が考えられる。例えばドイツの場合、現在、二つの大学との間に協定があるが、どちらの大学にとっても一橋の基準に合う学生を毎年送り出すことは難しく、また、一橋からも両大学への留学希望者が毎年いるわけではない。この問題を解決するためには、これらの大学に他のいくつかの大学を加えて協定を結び直し、このconsortiumと一橋の間で相互交流をはかる。この方式がドイツとの間で有効と思われるのは、もともとドイツの大学が、エラスムス計画以前から学生の大学間移動を伝統としており、日本語教育の充実した大学に一橋への留学希望者を集めて語学訓練を行うといったことが既存のシステムの中で十分考えられるからである。また、一橋の学生にとっても、留学可能なドイツの協定校の選択肢が格段に増えることになる。
最後に、visiting studentsの制度を公式に採り入れることは、ひとつの大学にとって相当負担が大きいことは既に述べたが、この問題に対処する方法が少なくともひとつはあることを付記しておきたい。それは、clearing
house方式とも呼ぶべきものである。これは、二国間、あるいはconsortium間等にひとつの組織を設け、留学に関する情報提供や留学希望者のリクルートから留学申請書の受け付けや単位互換手続きまで、幅広く個別大学を補助する活動を行うものである。この方式に関しては、国立大学に短期特別プログラムを導入するに際して、国大協第5常置委員会のJUSSEP
(Japan-United States Student Exchange Program)小委員会と、アメリカ側のカウンターパートである、AAC
& U (Association of American Colleges and Universities)との合同会議においてアメリカ側から提案されたが、結局、当面は大学間の協定方式で行くことに落ち着いたという経緯がある(
国立大学協会第5常置委員会 1995 : 43-47)。 二国間でclearing
houseを作るとすれば、相当な規模のものになり、こうした方式に馴染みのない国にとっては、現段階では二の足を踏まざるを得ないが、今後、国際交流専門職の増加に伴って、適当な規模での設置を考慮することもあり得るだろう。
国立大学における短期留学生受け入れプログラムの現状と問題を何点かにわたって考察してきたが、その結果、プログラムに必要な三つの基本的な要素と、各大学が選択できる二つの方向性が見えてきたように思われる。以下に、それらについて要約する。
1. 三つの基本
プログラムの基本となるべき三要素の第一点は、教育言語の如何(英語か、日本語か)に関わらず、短期留学生に対して提供する教育の質とそれを保証するシステムであろう。すなわち、短期留学の機会を、home
universityにおける規定の修学年限に組み込むことを前提として、学年暦や単位制、成績判定基準を標準化し、各科目に関して、一般教養、入門、基礎、専門等の位置づけを明確にしてそれぞれのレベルを保ち、単位互換を可能にすることが期待される。とはいうものの、各科目を、留学生のhome
universityが単位互換に値すると認定する前に、プログラムを提供する大学自身が、そのプログラムを、一部の留学生のための特異な措置としてではなく、正規生の教育にとっても意義のある正規の授業科目として認知することが先決である。そのような実質的な認知を獲得することによって、特別プログラムのコマ数を教官がボランティアで負担するというようなこともなくなるはずである。
第二点は、日本語・日本文化教育を留学生の語学力のレベルとニーズに合わせて提供する仕組みをもつことである。日本語への学習関心をほとんどもたない、すべてを英語で学ぶことで満足する留学生は現状では少数派と見られる。短期留学特別プログラムでの受け入れを各大学が数百人規模にでも拡大するのならば別だが、現行の20〜30人程度の受け入れを複数の協定校を相手に行うのであれば、日本語既習者や学習希望者が多数を占めることの方が自然である。英語で専門科目等を学習することと、日本語を集中的に学ぶことは矛盾しない。
第三点が、日本人学生とともに学ぶ、という教育交流機会の保証である。優れた内容の、高度な専門教育や日本文化教育を用意したとしても、留学生のみをひとつのプログラムに囲い込み、その他の正規のカリキュラムから切り放すことは、彼らを満足させない。日本人学生と同様に、学生としての資格が認められ、様々な科目を選択履修することができ、日本人学生との交流機会があるということが、彼らにとっての望ましい留学環境の基本条件なのである。日本語力のハンディキャップがあることは、彼らのそうした希望を全面的にあきらめさせる理由にはならない。
次に、短期留学生受け入れプログラムの創出に関して、大学が取り得る二つの方向性としては、単純化していえば、多様化の道と特化の道があると思われる。多様化の道とは、海外の様々な大学から、厳しい条件を付けずに留学生を柔軟に受け入れるとすれば、彼らの多様な学問的背景、関心、ニーズ等に答えるためには、日本語教育を初めとして、彼らが履修できる科目内容を様々に取りそろえる方向へと進むことである。この場合、日本語教育ひとつを取っても、20人や30人のために様々なレベルの科目を多数用意することは合理性を欠く。留学生としての様々なステータスに関わりなく、能力、ニーズ別のクラス編成を留学生集団全体に対して適用するしかない。
反対に、特化の道とは、受け入れ留学生の専攻分野、学年、基礎学力、語学力等に一定の基準を設け、内容を限定した特色あるプログラムによる教育を行うことである。前述のJUSSEP小委員会に対し、AAC
& Uから提示されたモデル・カリキュラムは、このような特化の道を日本の大学に期待するものであった。なかでも一橋大学に対しては、特に経営学専攻の学生のためのプログラムを提案していた(Memorandum
1995)。ただし、このような特化の道は、現在のところ、教育言語の問題とのジレンマにあって実現が容易ではないのも事実である。
各大学で始まった短期留学受け入れプログラムに関しては、解決しなければならない問題は多岐にわたってはいるが、こうしたプログラムを導入し発展をはかるという一つの流れが国立大学の中にも定着しつつあることは、もはや疑いを得ない。短期留学生として日本で一年間を過ごした学生の中には、日本への関心を深めて帰国した後、さらに日本語学習を継続し、日本に関連する研究テーマをもって、大学院研究生、大学院正規生として再度日本留学を果たしている例も認められる。短期留学が、長期留学への端緒となる可能性を示している。海外の大学のより幅広い学生層に日本留学の機会を開くことを契機として、各大学が、教育システム全体の中に潜む問題に積極的に取り組み、国際間の教育交流を一層活性化させることが期待される。
1) 日本国際教育協会 (1995)「資料:短期留学の推進について--短期留学推進に関する調査研究協力者会議報告--」『留学交流』Vol.
7, No. 5. p.15
2) 江淵一公 (1991)「講演記録」『留学生問題のマクロとミクロ』(第10回JAFSA夏期研究集会報告書)外国人留学生問題研究会(JAFSA)
p.6
3) 江原武一 (1993)「講演 日本における教育の国際化」『「国際化」は大学をどう変えるか』(第12回JAFSA夏期研究集会報告書)外国人留学生問題研究会(JAFSA)
pp.10-11
4) 分析の対象からはずした7名のうち5名はいずれも日本人であり、日本語力の点で他の交流学生に含めて分析の対象とすることは妥当ではないと判断した。残りの2名は事情により、面接を完了させることができなかった学生である。交流学生に加えて、彼らを受け入れた指導教官数人に対しても面接を実施した。
5) 喜多村和之(1984)『大学教育の国際化』玉川大学出版部 p.188
6) 水戸考道、小山悟(1997)「英語による短期留学プログラムと日本語教育の現状と課題」『留学生教育』創刊号 p.37
7) 水戸、小山(1997)前掲論文 p.38