第1章  序論

1-1 研究の動機と目的

 文部科学省(2000)によると、日本語教育が必要な日本国内の公立小学校に在籍する外国人児童の数は12,383人に上っている。外国人児童と一口に言っても、保護者の留学、駐在による来日、保護者の国際結婚による来日、中南米日系3世、中国からの帰国者の家族としての来日、インドシナ難民の家族としての来日など、その背景はさまざまである。
 本研究では、さまざまな背景を持つ児童の中でも、永住目的で来日した中国からの帰国者の子弟を対象としている。1975年からの中国帰国者の帰国が始まって以来、学校教育における日本語教育のニーズの高まりを本格化させることとなった帰国児童の存在であるが、1990年の出入国管理法の改正に伴う日系人就労者とその家族の来日により、現在は、日本語教育が必要な児童のうち、ポルトガル語を母語とする児童が44.5%、中国語を母語とする児童が26.5%という現状である。もちろんこの中国語を母語とする児童すべてが帰国者の子弟にあたるわけではないが、現在の研究の中心は入国児童であり、帰国者の子弟を対象とした研究は、中国帰国者定着促進センターにおける研究を除いてはこれまでのところあまり実施されていない。
 また、年少者を対象とした日本語教育において、滞日が比較的長期で日本語の日常会話に問題がなくても、教科の学習についていけないという事態が問題の一つとして取り上げられることが多い。その事態について、Cummins & Swain(1986)は、基本的対人的伝達能力は1〜2年で発達するのに対して、認知・学習言語能力の発達は非常に緩やかで発達に5〜7年かかるためであると説明している。最近では、「認知・学習言語能力」を、単に教科の内容に関わる語彙や表現のような言語知識や技能が熟達するということではなく、学習場面で情報収集をしたり、情報を提供したり、比較・分類・推測などを行う、認知的能力を果たす力である(太田垣 1996:67)とする立場もある。教科学習のための指導は、長期にわたって、あらゆる活動場面で支援される必要があるといえる。

 国内の年少者を対象とした日本語教育研究において、算数の教科学習につながる日本語指導に関する研究は数多く行われてきたが、算数は認知能力が高い教科であり、活動別には、計算などは文脈依存性が高い項目に、文章題は文脈依存が低い項目に分類され、とかく文章題のみを支援の対象としてゆく方向で研究が進められてきた。しかし、近年、小学校で目指される算数の教育は、基礎的な知識と技能のほかに、筋道を立てて考える能力や処理能力が重視されてきている。実際に児童が受ける教育は、教科書や文章の範囲だけで行われるのではなく、在籍学級という教室における学習活動全体を視野に入れなければならない。換言すれば、教師対児童、児童対児童の教室内言語活動という視点が必要なのである。そのような研究はこれまでのところあまり実施されていない。
 以上のことから、本研究では滞日5年目と6年目のある帰国児童のケースを取り上げ、実際の算数の授業場面に入り込んで帰国児童の実態や問題点を探ることで、教科学習につながる日本語支援の一端を考察することを目的とする。

1-2 研究の方法

 本研究では、観察法と面接法という手法を用いて研究を行う。観察法は、人為的な操作を加えない自然な条件の中で行動を観察する自然観察法の中でも特に、参加観察法 を用いる。参加観察法は、調査者(観察者)自身が調査(観察)対象となっている集団の生活に参加し、その一員としての役割を演じながらそこに生起する事象を多角的に、長期にわたり観察する方法(三隅・阿部 1974)で、多数標本研究では見逃される現象の詳細を明らかにしたり、既存の理論ではなく実施のデータをもとに新たな観点から仮説を作ろうとするときに適したアプローチである(田島他 2000:149)。このような方法を用いて得られたデータの内容を解釈したり、関係づけたり、分類することによって、現象についての概念化を行ったり、新たな仮説が構成される。このとき、観察に加えてインタビューや文書資料の分析、自分の体験などの種類の異なるデータで例証し、仮説や解釈的枠組みを多面的に補強することが求められる(田島他 2000:150)。本研究では、そのための手段として、面接法を用いる。
 面接は、対象者と直接対面し、やりとりを通じてデータを収集していく技法である(田島他 2000:162)。本研究では、仮説の妥当性を確認するための目的的面接と、仮説を得るための探索的面接という手法の両方を折衷的に用いる。また、面接形式には、場所・面接者、時間帯やその長さなどの外的条件はある程度固定されるが、尋ねる内容・言い回し方・尋ねる手順などの内的条件は面接者の質問意図をふまえながらも話題が多岐にわたるのをいとわない半構造化面接という手法を用いる。

1-3 研究の概要

 本研究は5章から構成されている。本章に続く第2章では、先行研究をまとめる。2-1で教科学習に必要な言語能力に関する先行研究についてCummins, Collierの論と、Edelsky他 ,太田垣,Cumminsの論に基づき、教科学習に必要な言語能力とはどのような能力であるかをまとめる。また、算数で求められる能力についても触れる。続く2-2では、日本語教育の分野で行われている、日本国内での教科学習支援に関する研究をまとめる。2-2-1では、本研究で中心に扱う算数の研究に焦点を当て、算数の教科学習のための日本語指導について、(1)教科書の語彙や表現に関する研究、(2)算数の文章題の困難点やストラテジーを探る研究、(3)日本語教室や在籍学級の授業観察研究、(4)その他の研究の方面から、どのようなことが問題点とされ、どのような支援策が提案されているかを概観する。2-2-2では、内容重視のアプローチの考え方と、中国帰国者定着センターで行われている、算数の内容重視アプローチに関する実践報告をまとめる。2-3では先行研究の問題点と提案された支援策をまとめ、2-4では先行研究から得られた課題を述べる。
 第3章では、本研究の対象となる中国帰国児童と、彼らに対する日本語教育についてまとめる。3-1ではまず「帰国者」の定義と背景をまとめ、「中国帰国児童」の定義を行う。その際、歴史的に用いられてきた呼称についても触れる。3-2では中国帰国児童生徒の動向、3-3では教育施策について、主に文部科学省の資料を基にまとめる。
 第4章では、第2章で得られた課題に踏み込み、帰国児童の在籍学級での算数科学習に関する調査を行い、算数科の学習支援方法を提唱する。
 第5章では、本研究で明らかになった事例と今後の課題について述べ、本研究のまとめを行う。


田島他 (2000)によると、参加観察法は参与観察法とも呼ばれる。