中国帰国者3世児童・生徒の生活と教育課題

−4人の子ども達のエスノグラフィ―を通して−

藤井健太*・田渕五十生

奈良教育大学・社会科教育講座

(平成 年 月 日受理)

キーワード: 中国帰国者 中国帰国者3世 エスノグラフィー 外国籍児童・生徒の教育

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1. はじめに

1.1.問題意識と先行研究
文部省の調査によれば、'97年における日本語教育が必要な外国人児童・生徒の数は、小学校・中学校をあわせて17,296人に達する。このうち、30.8%が中国語を母語とする児童・生徒である。
'98年における中国語を母語とする児童・生徒は、奈良県下で57人に達している。現在、中国帰国者児童・生徒への教育については、試行錯誤の段階で、日本語指導の徹底と、学力の向上でこと足れりという風潮が強い。
しかし、自らの出自や中国に対する肯定的な態度や民族的なアイデンティティの形成は、彼・彼女たちの発達段階において重要なテーマであり、そのための教育実践はまだ緒についたばかりである。彼・彼女たちの置かれた状況や、彼らの主観によって意味付けられた生活世界についてはあまり知られていない。
 中国帰国者の2世・3世についての研究は他の外国人児童・生徒に関する研究に比べ、中国帰国者定着促進センターに関わる研究以外あまり行われていない。同センターの研究では、センター修了後の玉居子(1994)(1)の進路調査や、隈井・佐久間(1994)(2)の学校編入の現状分析、寺村・佐久間(1995)(3)のセンター退所後、中学校に編入した生徒の人的リソースについての事例調査などが行われている。また、池上(1998)(4)は、中国帰国者の日本語教育の課題について再検討をおこなっている。そこで池上は中国帰国者の児童・生徒の特性を概観し、日本語教育の課題を@目標設定、A教材開発、Bネットワークの形成の3点から整理している。
センター関係者以外の研究としては、社会学的立地から、鄭(1988)(5)が中国帰国者の3家族を対象にして聞き取り調査を行っている。




また、鈴木(1988)(6)の中国帰国者の「子どもたち」の異文化環境への適応と自己のアイデンティティについての聞き取り調査がある。鈴木は、「子どもたち」の発言から、日本社会への文化的同化と中国人としてのアイデンティティの保持という二つの課題が「子どもたち」の意識に葛藤を引き起こしている現状を報告し、その背後にある日本人のアジア観、いわゆるアジア蔑視の問題を指摘している。
また、江畑ら(1996)(7)が行った社会精神医学の立場からの中国帰国者の適応過程と援助体制に関する研究がある。それは児童の適応状態を帰国後1年目、3年目、5年目に行った追跡調査である。この調査では、中国帰国者児童・生徒の言語能力、交遊関係、適応状況、文化帰属感の4項目について年次ごとの分析が行われている。江畑らは孤児家族に影響を与える要素として2点を挙げている。 
第1点は「帰国動機をめぐる日本人孤児と中国人配偶者のトラブル」である。この調査対象16家族のうち、何らかのトラブルを抱えているものが5件あり、その子ども達の適応にとって疎外要因となっていると指摘している。 
第2点は「年代による適応の違い」である。家族構成を分類すると、孤児世代、10代後半から20代の2世世代、そして子ども達の世代となる。それぞれ適応進度が異なるため、子ども達は、言語的にも精神的にも両親とコミュニケーションが出来ない状況に置かれている。
中国帰国者児童・生徒について、研究の切り口は様々であるが、その大半が実態調査的なものに留まっている。そしてマクロな視点からの研究が多く、子ども達の視点から一人一人のミクロの内面世界に踏み込んだものは少ないのが現状である。


*現在 奈良教育大学大学院終了

1.2.中国帰国者の定義
本論で使用する「中国帰国者」および「中国帰国者児童・生徒」の定義をしておきたい。まず、「中国帰国者」であるが、これは「中国残留孤児」、「中国残留婦人」とその家族構成員全体を含んでいる。蘭信三(1997)は『「中国帰国者」をめぐる地域社会の受容と排除』(8)において中国帰国者を「敗戦後から1972年の日中国交回復まで中国に残留し、それ以降日本に帰国してきた日本人およびその家族」と定義し、以下のようにサブカテゴライズしている。
(a)中国残留婦人(高齢女性)
(b)中国残留孤児(b1:男性 b2:女性)
(c)中国残留婦人の中国人配偶者(高齢男性)
(d)中国残留孤児の中国人配偶者
            (d1:中高年男性 d2:中高年女性)
(e)中国残留婦人・孤児の二世・三世
 (e1:中年男性 e2:中年女性 e3:青年男性
                e4:青年女性 e5:少年少女)
(f)二世・三世の中国人配偶者
 (f1:壮年男性 f2:壮年女性
                f3:青年男性 f4:青年女性)
(g)その他 
 蘭の分類からも分かるように「中国帰国者」は多岐にわたっており、本論においても「中国帰国者」を(a)から(g)までの全てを含むものとする。また「中国帰国者児童・生徒」については「中国帰国者」であり小・中・高等学校に在籍する者を「中国帰国者児童・生徒」と定義しておく。

1.3.研究方法
筆者は、奈良市内において、外国籍住民との双方向学習を目指すボランティアグループである「ナラファミリーアンドフレンド」に所属し、1998年から約2年間活動を行ってきた。対象者である中国帰国者3世の児童・生徒4人とは、この活動を通じて知り合い、生活相談や学習支援、日本や中国あるいは他国の文化紹介の行事へ共に参加する中で、自然な形で参与観察を行ってきた。
学習支援は毎日曜日の公民館で行われたが、それ以外、大学や彼・彼女たちの自宅でも彼らの家族を含めて食事をともにするなど、個人的な交流を行い、ラポールを築いてきた。また、彼・彼女らの両親や、学校の先生方、日本語指導巡回講師からも聞き取り調査を行い、学校生活のどの部分に疎外感や違和感を抱き、担任のどのような支援に心を開いたかについて、多面的な情報を得る事が出来た。
本論ではまず、中国帰国者3世の児童・生徒を対象とし、筆者が書き溜めた参与観察のフィールドノートや、会話を録音した30数本のテープをもとに、彼らの生活実態を記述していく。

そして、彼らの生活の背後にある日本社会や学校文化に位置付けて考察を加える。そして最後に、今後、ますます増大するであろう中国帰国者の子どもたちへの教育支援に対する提言を行いたい。
 本論は、エスノグラフィーの手法を援用する。山口(2001)(9)によるとエスノグラフィーとは「特定の対象に対してインタビューや参与観察などで深く関わり、その記述と分析を繰り返して社会文脈の中で対象を重層的に理解する」方法であり、質的調査に分類される。この調査は、質問紙法などの量的調査では見落とされがちな個人の葛藤や矛盾を見出せる利点があり、ミクロの内面世界へのアプローチには効果的な手法である。

1.4.対象者
彼らの祖母は中国残留婦人である。彼女自身は1995年に厚生省の援護を受けずに帰国し、その後親族を呼び寄せている。現在は、離婚や別居で数名が中国に帰国しているが、総勢で30人以上の親族がともに近隣で暮らしている。これは、けっして例外ではなく、祖母と同じ団地に住む残留婦人の家族の場合、20人を越える家族が一般的である。王兄弟は、先行して帰国し就労していた父に合流する形で来日している。干姉弟はまず、徳庫が両親とともに来日し、その後秀華が来日している。

氏名
(生年月日・性別)
王志良
(1988年生まれ 13才 男)
王志高
(1986年生まれ 15才 男)
来日時 1996年春 8才 1996年 10才
中国での学歴 幼稚園と小学校第1学年修了 幼稚園と小学校第3学年修了
来日後の編入学年 小学校第1学年編入 小学校第3学年編入
家族構成

父 母 志良 志高

氏名
(生年月日・性別)
干徳庫
(1986年生まれ 15才 男)
干華秀
(1985年生まれ 16才 女)
来日時 1996年 10才 1998年春 13才
中国での学歴 幼稚園と小学校第1学年修了 幼稚園と小学校、中学校2学年修了後数ヶ月間第3学年に在籍
来日後の編入学年 小学校第2学年編入 小学校第6学年編入
家族構成

父 母 姉 華秀 徳庫


2. 4人の語りから構成された世界

 本章では、彼らの語りと、学校や日本語巡回講師との聞き取りなどをもとに、王兄弟・干姉弟ごとに生活世界を再構成する。彼らの会話は本人の了解のもとに録音され、資料とした。再構成に際し、彼らの語りの中には不適切な表現も見受けられるが、彼らの生きた声を重視してそのまま「 」で引用した。

2.1.王志良・志高の生活世界
2.1.1. 中国での生活('95年まで)
 志良・志高兄弟は中国で父親の仕事(建築の現場指揮
者)の関係から何度も引越しを経験した。
 志良は対象者4人の中で最も幼くして(8歳の時)来日したことになる。筆者が活動をともにした11歳の時点で、中国のことは「あんまり覚えてない。ちょっとだけ。喧嘩したこととか。それと、友達と遊んで、えとね、ほとんど忘れた」というように、曖昧な記憶としてしか残っていない。出生地を尋ねた時には「中国」とだけ答え、中国のどこかと尋ねても「そこはわからへん。だってそこ勉強してないもん。」と答えている。
一方、兄の志高は中国での生活について比較的よく記憶している。祖母とは「生まれた時からずっと一緒に住んでた」ことから、祖母が残留婦人であり、終戦当時「看護婦さん(を)やって」いたことも知っていた。また、志高は中国において父親の仕事先に一度行ったことがある。父親の仕事は「家造るやつ。大工さんって言ってもその上のやつ。上の仕事もらってきてみんなのなんかそういう監督みたいなの」であり、父親の仕事のを見た感想を尋ねてみると「鉄の形とか作るやんか。むちゃ危険。後は石みたいの運ぶとか全部人」を使ってやる作業だから「しんど」そうだったと語っている。
 引越しが多かったことについては「そんな長く住むときなんかあまり無い。いいとこ見つけるっていうか、ここあかんかったらまた違うとこ見つけるっていう感じ。(学校は)3回変わったもんな。家は4回」変わったと回数も正確に記憶している。
 中国での友人関係だが、この兄弟は近所の従兄弟が主な遊び相手であったという。友人関係はかなり限定されていたようで、自分達の来日が決まった時もそれを同級生にも告げていない。
 中国の農村部における兄弟の関係は、兄が弟の面倒を見ることが一般的であり、弟の責任は兄に帰属する。この家族と仲の良い中国帰国者の自立指導員W氏の話では、彼の家庭でもそういう躾が行われていたようである。このことは中国で喧嘩をする時の兄(志高)との関係を語った「僕とお兄ちゃんと(相手が)5人で。その人も悪口言って来るねん。お兄ちゃんがもう喧嘩しようって言うまで僕ら我慢しててん。」という志良の言葉からも読み取れる。つまり、志良の行動は兄によって、ある程度制御されたものであったともいえる。

2.1.2.来日とその後の日本での生活
 兄弟の日本での生活は祖母の住む公営団地から始まった。帰国については、弟の志良は日本に行くことが決定した時、母から聞いたという。その時、志良は「よろこんだ。どんな国かなって思っ」たと語っており、来日には好意的であったことが伺える。一方、兄の志高は父親が帰国した時点で母親から「なんとなく聞いて」おり、弟よりも早くに、この計画を知らされている。来日当初、兄弟の日本についての予備知識はほとんど無く、志良の帰国後の第一印象は「車が多」いということと、中国に比べて「道路に埃が無い」ということだった。これは道路は舗装されておらず、また自動車もそれほど一般的でなかった中国での生活と比較した感想である。また、父親が先に来日し仕事を得ていたとはいえ、志良の目からはかなり苦しい生活であったと感じており、「お金もあんまり無いから、来た時あんまりなかったから困って」いたと当時を振り返っている。
 また、兄の志高は来日については「むっちゃ嫌やった。なんか行きたくなかった」と否定的だった。中国で何度も転居を経験した志高にとっては「(中国での)引越しみたいなのと同じように考えて」はいたが、「そんなんこっちなんも知らんやん。日本のことなんか。だからな、なんか嫌な気分ていうか。日本てどこ?みたいな。でもなんか、来たらどんなんだろう」という不安があったからだ。空港に迎えにきた父親とともに奈良に向かう途中、車窓から見た日本の景色は「凄く(建物が)でかい(と)思ったりとか、なんか機械いっぱいあるとか、そういう、なんか珍しい」と感じたという。中国の空港は「人も多いし、汚い。埃がいっぱい」であったのに比べて、日本の空港は整然とした雰囲気があり、「凄いきれい」だったという。来日までの不安に反して「良いイメージ」をおぼえた志高だが、これから自分達が住むことになる家を見たとき「がっかり」した。「(家が)ちっちゃい」のだ。志高は「中国の家はむちゃでかかった」のに、こんな小さなところで暮らさなければいけないことにショックを受けた。志高は「やっぱり中国いたらよかった」と思ったという。


2.1.3. 来日1年目の生活('96年)
 志良と志高はそれぞれ、小学校1年生と3年生に編入した。その小学校は中国帰国者の児童を受け入れた経験が無く、受け入れに際して様々な研修を行ったという。授業に関しては、志良によると、編入当初は「なんも言葉話せないから」2人で「ずっと遊んで」いたという。また、日本語講師が日本語を週2回教えてくれる以外の授業は「なんにもわからへんからただ座ってるだけ。絵とか書いて」その時間を過ごしていたと語っている。担任からの聞き取りによると、この時期、学校側も、ただ遊ばせていたわけではなく、授業は行っており、彼らも参加していたはずなのだが、言葉のわからない彼らにとっては、意味を解さなかったということだろう。
一般的に言語習得は2つに分類される。一つは、コミュニケーションに機能する生活言語である。今一つは、抽象的な思考活動に使用される学習言語である。志良は生活言語については「1年より少ない」期間でほぼ習得し、「全部分かるようになったと思う。テレビも分かるよう」になったと語っている。その習得は、「僕(志良)の方が早く覚えれた。ラッキーって思ったよ。すごく良いって思ってた。誉められたから。お兄ちゃんより早く覚えれた。うれしかったよ。」と語っている。
 担任によると、志良は生活言語を習得する以前から、ボール遊びなどを通じて、友だち作りをしている。生活言語を習得した1年生の2学期半ばからは日本人の友人ともより仲良くなり、休み時間に遊ぶようになった。けれども、時間や場所は休み時間や放課後の学校に限定されていた。志良によると、3学期に中国人児童が転入し、近所であったことから彼と学校の内外で遊ぶようになったという。しかし、これは時期的に事実と若干異なる。この中国人児童は兄弟と同じ新学期から入学していた。志良の思い違いかもしれないが、志良にとってこの時期の中国語を解する友人という存在が大きなものだったことは想像に難くない。
 1年生が終わる少し前、高学年の児童と喧嘩をした。その原因は高学年の児童による誹謗だった。学校から同級生の中国人児童と帰宅途中、高学年児童の集団に「中国人」と何度も言われ、そして「バカ」という言葉を浴びせかけられたという。「あいつらが中国人とか言って来て、僕がうっせえんじゃ、とか言ってさ、それでさ悪口とか言って、それで、帰りに悪口言いながら僕。それでさ途中までは悪口だったけど、でもさ、僕が怒って石を投げたら、石を投げて返ってきて、もっと投げんねん。それで当たったから(中国人の同級生が)何日か経って転校しはってん。」
 中国人の同級生が転校した理由は、父親が大阪へ転勤したためだったが、この同級生の投げた石が高学年の悪口を言った児童に当たり、怪我を負わせたことが原因と志良は考えている。そして、志良は怪我を負わせたことで相手の担任の先生から怒られたのだが、「むかつくなって思ってん。年上(を)。それでさ、もう年上とか嫌ってんねん。いつも喧嘩してんねん。もし会ったら。」と納得していない。
当時、上級生が、「ラーメン!アホ」と言って、からかう場面があったようだ。その時、上級生の話を聞く先生の姿を見て、なんですぐに叱ってくれないのかと不満に思ったのかもしれないと巡回日本語講師のF先生は話している。 一方、3年生に編入した志高の学校に対する第一印象は「学校ってむっちゃむかつくって思っ」た、というように良いものではなかった。それは冬にもかかわらず、学校では男子児童は「みんな半ズボンとかはいて」いて、「なんでこんな寒い時にこれだけしか着ないのって思っ」たからだ。それにも徐々に慣れていったようだが、なかなか友達は出来なかった。「中国にいる間もな、親友とは喋ったりしてたんだけど、他はあんまりやった。」と語っている。志高にとって、言葉が通じない状態で友達を作るにはかなりの勇気が必要であった。「喋るきっかけがないねん。なに喋っても通じないし、こっちが喋ってる途中に顔が赤くなるねん。恥ずかしくてこっちから全然言えへん。間違ったらどうしようかなとか思ってさ。」

 また、志高は一学期の間はよく喧嘩をした。「こっちが悪かっても、謝る時にさ、どうやって謝るのかなとかさ、そういう、なんか、謝りたくても口出せへんやんか、言葉がわからんから。」志高は元来、中国においてもあまり喧嘩をしていたわけではなく「我慢していた」ほうであった。しかし、意思疎通が上手くいかない時には、少しのことで喧嘩になった。そして、志高には「ほんまにこっちが悪くないのに、そっちから先にやったのはもう悔しくて泣いたりしても、なんか、先生が、先生がこっちが間違ってなくても両方謝りなさいって…。」というように喧嘩両成敗が納得できなかった。「本当は悔しいでしょう。中国でも本当に人に謝るとか、そういうんだって、人にちょっかいとか出せないもの僕は。だから、そういう悔しいって言う気持ちがいっぱいで…。」と違和感をもって捉えている。
 当初、来客があっただけで「凄く慌てた。どうしよう、どうしようって。でも急いでも話しできひんからすごく困」っていた志高だが、生活言語は大体「もう三年生の終わり頃」には話せるようになったという。彼らの日本語講師であるF先生は日本語教育のスキルを持つ数少ない専門家で、「なんか先生と喋りながらやってたように思う。なんかな、先生が動いて、その動きを僕たちが当てる」と志高が語るように、授業は工夫され、彼らは楽しみながら言葉を覚えることができた。日本語会話の聞き取りに関しては「夏休みに入った」頃には分かるようになったようである。このように、志良と志高は生活言語に関しては、多少の困難さは感じられたものの、比較的順調に習得している。
 会話よりも志高を悩ませたのは書くことだった。来日してから約半年間、志高はひらがなやカタカナを全く覚えることが出来なかったという。家でもノートに書いて毎日練習したが、なかなか思うように覚えることができなかったが、「なんか夏休みにな、なんかしらんけどな。書けるようになったの。」と言うように、志高は急にひらがなとカタカナがすらすら書けるようになり、「自分もびっくり」した。それまでひらがなやカタカナは志高にとっては「どういう意味?ってなにこれ?これが字なの?」というような感想しかなく、漢字と違って書き順にある程度の自由さがあるように感じられたことも、戸惑いの原因だったようだ。
 生活言語を克服した志高は、2学期には友人と呼べる同級生も徐々に増え始めたが、下校時に友達と一緒に帰るのが嫌だったという。「帰る途中とかな、友達と一緒の道歩いて、僕の家の方が近いから家に上がってきて、その時なんで人の家に勝手に入るのとか言えへんねん。」志高は家で1人でいることのほうが落ち着き、帰宅してまで友人と遊ぶことを好まなかった。しかし、一学期の時にしたように喧嘩になることを恐れた志高はいつも「一緒に帰ったらまた家に入られるとか思ってな、先帰るとか言っててん。まあなんか、みんな帰ってから帰る」というように友人を避けるようにして帰るようになった。
 友人が少ないことは志高にとっては苦痛ではなかったようで、「一人のほうが良いねん。日曜日とかさ、ずうっと一人で家にいて、テレビ見たり、本読んだりしてる。なんか寂しいって言うのは全然無かった。なんか自分の一人のほうがいいって、ずうっと思ってたもん。」と語っている。筆者が中国での事情を尋ねた時も、大人と遊んだり、山菜取りや家畜の世話をしていたと答えている。  
非社交的な志高であったが、学校で仲間はずれにされることはなかった。クラスでは毎朝会時に「中国語を勉強しよう」という時間が設けられていた。志高は毎日中国語会話(たとえば朝の挨拶など)を教える係であった。これによって、クラスメイトの中国語が上達したわけではないが、クラスの皆はそれをゲームのように楽しむことができ、休み時間でも「これ何て言うん?」と聞かれたりして、志高もクラスに自然と「仲良くなれ」たという。また、志高はクラスの係(電気係といってクラス移動の際電気の管理をする係)を積極的にこなしたり、掃除をすすんですることでクラスにも肯定的に受け入れられたようである。


2.1.4. 来日2年目の生活('97年)
 来日1年を経て2人はそれぞれ進級した。2人の通う小学校では2年間の持ちあがり担任制が採用されている。志良にとっては自分を「いじめていた6年生が卒業した」ことあり、比較的落ち着いた一年だったと記憶している。しかし、この時期、志良は学校では勉強をする意欲が無く、授業中でも算数の時間や日本語教室以外では教室の後ろで、ボールつきをしていたり、折り紙を折っていたりして、授業妨害になる場合もあったと、当時を知る先生は、筆者のインタビュー調査に答えてくれた。
一方、3年生の時、比較的順調に適応を果たした志高は4年生になっても同様に学校生活を続けていた。クラス替えもなく、先生も同じだったことから志高の中では3年生の延長的な年であるように感じられたそうだ。志良と同様に、日本語がほとんどの場合、理解できるようになり、苦手だった国語の時間も「そんなにできなかったけど」大体の意味を取れるようになったという。
2.1.5. 来日3年目の生活('98年)

 2人にとってはこの年が初めてのクラス替えとなった。この年、志良は「友達がどんどん少なくなった」という。原因は口論と喧嘩であった。「あの人たちが悪いことしてきてね、僕がね、やりかえししてん。紙にね、バカとかゴリラとか書いてさ、ぐるんと手に巻いてさ、紙を張ってブチッと付くようにしてん。」
 生活言語が分かるようになった志良にとって、自分に向けて発せられた言葉一つ一つの意味が分かるようになった。それは1年生の時に上級生から発せられたあからさまな悪口ではなく、含みを持った間接的な悪口であっても、それが自分に向けられて言われている悪口であるということが理解できるようになり、それに対して抗議できるようになった。しかし、それが口論にとどまらず、暴力的な行為、すなわち、叩く、蹴るといった実力行使にまで発展することが多かった。「僕が友達のね、悪口言うから。喧嘩するときもあるけど、でもさ、なんか言われたら言い返すねん。どっちが悪いかわからんよ。」

「悪口?でもあの人たちだって言うもん。」志良の中では、言葉による自分への攻撃は、叩くことなどの実力行使と何ら変わるものではなく、自分に非が無いと思えば、それが自分より体力的に弱い対象であっても謝るまで攻撃を加えた。「なんかさ、僕にいつも隣でうるさいこと言う時、そんなこと言うなら女の子も男の子もお構いなしに殴んねん。容赦しいひんねん誰も。僕に悪口言う奴は容赦しいひんねん。会っても、もうなんも言いひんねん。」
 当初、それは自分への攻撃に対する報復であったが、2学期に入る頃には「もうなんにも言われんくても最初にすんねん。もうなんも言われなくてもやりたかったらやんねん。」というように自分が気に入らないと思っただけで暴力を振るうようになった。
 このとき、志良は友達が減った原因は自分の悪口や暴力にあることをすでに理解していた。試みに「3年生の時ちょっとだけ(暴力なり、悪口なりを言うことを)止めて」みたが、自分に対する悪口はなくならなかった。
 当時の担任の話では、クラスの秩序を守るためや、志良の日本での生活のためを思い、厳しく接したという。このことで、志良がストレスを感じ、暴力に発展したのではないか述べ、徐々に穏やかになってきたと「所見欄」を見ながら語ってくれた。けれども、志良の心の中では不満がくすぶり続け、「穏やかになった」とは考えていない。先生と子どもの受け取り方や思いの違いである。
 志高はこの年もやはり別段の変化もなく生活を送っている。この年は先生も変わり、当初「やっぱり緊張した」そうだが、先生ともすぐに打ち解け、3年生、4年生を通して行われてきた朝の会の「中国語を勉強しよう」という時間も引き継がれている。
 筆者はこの年の春に初めて対象者の4人と出会った。志高はおとなしく、志良や徳庫が何かに興味を示して遊びに夢中になっているときでもいつも黙って自分の勉強をしていた印象が残っている。この年、志高について図書館に行った時、「僕の好きな本」といって中国の古い物語に沿ってその遺跡や伝説が生まれた場所の風景を追った本を紹介してくれた。志高は「ええよね。中国のたてもん(建物)のとか。僕の住んでたところな、こんなんやってん。」と語っていた。


2.1.6. 来日4年目の生活('99年)
 3年生の時に見られた志良の行動は4年生になってからも止まなかった。担任の先生の話では、友達はいたようだが、2学期に入ってからは志良はクラスで孤立したと感じている。
 ある日、理科の実験をしていた時、班で一つの実験機材を巡って同じ班の児童と喧嘩をした。「(機材を)横に置きなさい」という先生の指示に対し、班の女子児童がその機材を真ん中に置いたことが発端だった。
 志良にしてみれば、ただ先生が言ったことを忠実に守っただけであり、横に置けという指示を無視し、機材を机の中心に置いた他の生徒に非がある。しかし、先生は昼食の時に志良だけを呼び、一人だけ再実験を見学させた。そして「見てからいっぱい怒られてん。それにさ、女の子に謝りやって言われ」た。志良は納得がいかない。「それでむかつくねん。僕は先生がやれっていたことをやっただけなのに。」志良は今の先生を信じることができないという。先生に説明をしても、「どうせさ、そんなん言ったって、皆がそんなんしてへん、してへんて言うもん。先生はそっちのことを信じるもん。」と思っている。
後日、担任から聞いたことだが、志良は当時、この女児に好意を抱いており、ことあるごとに、気を引くために「ちょっかい」を出しており、それを注意したのである。志良は筆者にこの時のことに強い不満を示した。これは志良が自らの思いを見透かされた恥ずかしい事件で、そのように言い繕ったのだろう。まさに主観的な意味世界である。
 クラスで完全に孤立したと感じている志良は先生からも身方してもらえないという気持ちが強い。現在の担任に対しては今では半ば諦めてしまっている。
「へ、もう別にいいもん。どうせさ、遊んどけばいいやん。聞かなかったらいいやん。注意されてもそこに立っとけばいいやん。(理解されることは)無いと思うよ。」説明してもどうせ信じてもらえない。そういう気持ちが志良の中には強い。そして、友達と遊んでもらえなくなったことについて、なぜ自分が暴力を振るうのかわかってくれない先生が悪いという考えを持っている。「先生が変わってくれれば。ええっとね、5年生になんねん。もう少しで。それでさ、変わるんだから。別にさ、もう慣れてるから。変わってくれれば。」自分の気持ちをわかってくれる先生になれば、暴力を振るうことが無くなるし、それで友達も増えていくだろうと志良は考えている。

担任は粗暴な行動の目立つ志良のためを思い、これから日本で暮らすためには厳しさをもって躾ないといけないという思いから、時に厳格に接したのだが、幼い志良には担任の配慮が理解できなかったのだろう。
 現在の志良は同じようにクラスから遊んでもらえないようになった数人と休み時間を過ごしている。その友人達についてさえ、「ほんまに仲の良い友達じゃない」という。なぜこの数人と遊ぶのかと尋ねた時、「喧嘩しないから。なんもいわへんしさ。バカとか。」と応えている。唯一と言える友達はノブ君であるが、彼とも学校では一緒に遊ぶことはないという。志良は友人がいないのはさびしいでしょう?という筆者の問いに「ちょっとだけ寂しい」と答えている。
 兄の志高は、この年もクラスメイトや担任の先生との関係は良好に保たれ、問題は見られない。そして、将来について具体的な目標を持っている。夢は「大学に行って他の外国語を勉強」することだ。そして、筆者に「中国に帰ったとき思ったけど、(中国語も日本語も)どっちも喋るの辛い。日本に来たらな日本語一生懸命勉強して、中国に帰ったときに中国語分からへんとかな、中国語変とかな、自分でもわかるけど、でもなんか上手く言えへん。あのな、日本語でこういう意味を中国語で言いなさいって言われてもな、わかるけど、でもどうやって言うのかわからへんよな。だって、心の中で思ってもどうやって喋ったらいいのかわからない。でも日本語でも説明できるけど、中国語ではわからへんよな。あと反対でもそう。あの、中国語を日本語で意味を言いなさいって言ってもなその時ばっと言えへんよな。だって中国語の中のイメージと日本語の中のイメージじゃ違うもんな。これからもっと中国語も勉強せな。」と言って笑っていた。
志高は中国語の重要性を認識し、積極的に学習しようという意欲を持っている。弟の志良は、例えば夏休みや冬休み等、長期の休みの間は日本語に触れる機会が比較的少なく、逆に家庭内の中国語に長く接することになるので、休みの終わりには中国語を流暢に話すようになる。しかし、日本語に触れる機会が圧倒的に多い日常生活では家族の会話に志良が加わることは少なくなってきているようで、母親は志良が完全に中国語を忘れてしまうことを危惧している。それは志良本人も自覚しており、「3分の1は忘れたよ。お兄ちゃんの方がよく喋れる。僕の方がちょっと喋ったら悩んじゃう」と語っている。また、家族の中で徐々に自分が会話を交わせなくなっていることにも少なからず不安を抱いている。


その一方で「どっちもあんまり憶えたくは無い。もう一回勉強するの面倒くさいもん。」というように、中国語を勉強することについては積極的ではない。このような中国語を忘れかけている不安と、これを積極的に勉強する気になれない二律背反の状態が志良のあせりとジレンマを助長することになる。
 筆者が彼らの家を訪問した時、それを象徴することがあった。我々が日本語で談笑している時、母親が仕事から帰宅してきた。それまで完全に日本語で行われていた会話は中国語に切り替わり、志高と母親が会話を交わすのだが、志良はこれまでの饒舌とはうって変わって沈黙し、一人テレビを見ていた。そして母親が片言の日本語で志良の中国語の状況について筆者と話をしていた時、「志良は中国語だめです。忘れてます。」という発言を母親がした途端、テレビから視線を外し、母親に激しく中国語で抗議した。筆者にはその内容が定かではなかったが、忘れていないということを主張したのだろう。
志良と志高はともに自分は中国人であると明言している。しかし、中国文化を改めて学習した経験からその保持に努める姿勢を持つにいたった兄と、幼くして来日し、その後中国文化に親しむ機会の少なかった弟では、中国の文化に対する姿勢は2人の中で大きく異なっている。
 志高に現在の家族について聞いてみた。
「変わってる。自分が中国(に)いるあいだな、親切とかさ、そういうの普通。でも日本来てから自分が日本来てるからとかいう自慢とかな、自分がお金持ってるから偉そうになってるとかな、そんなん親戚にあるねん。中国いる間とかみんな仲良しやねん。でも日本来てから変わってる。」そういう意味では「自慢とかそういうのなかったし、中国の時の方」が良かったという。また父親の仕事については「日本に来てもそういう仕事してるけど、上の命令聞かないといけないから、いつも家帰って腹立つとか言ってるんよな。中国のときはお父さんが命令するから(同じ仕事してても)全然ちゃう。気持ちがちゃうよな」と言い、そのような父親を見ていて「中国の方が良いんちゃうの?日本のほうが体(が)楽や」けど「中国は疲れても気持ちが楽や」からと言う。
中国にいた時、親類は分け隔てなく仲良く暮らせていた。しかし、来日後は物質的な豊かさに重きを置いて、それこそが価値であるというように一部の親戚の生活様式や価値観が変わっていく姿は、志高にとってはあまりよいものとは思えない。そして、父親の仕事も精神的に苦しくなった状況を心配している。物質的豊かさという一つの目的を持って来日した親世代(2世世代)と異なり、志高たちは、自らの意志とは無関係に来日している。おのずと重視するものは異なる。志高は、物質的な豊かさに流されていく一部の親戚の姿を見て、その危険性に無意識的に気が付いている。

2.2.干徳庫・干華秀の生活世界
 次に干徳庫と干華秀の姉弟の生活世界を記述する。姉の華秀は筆者が対象としている4人の中では定住期間が最も短く、かつ、年齢も最も高い。そのため、日本語もやや判然としない場合もあり、聞き取り調査のときは通訳をつけることも検討したが、本人の希望により通訳を介することはしなかった。したがって、聞き取りが十分に行えなかった。また、筆者が男性ということも有り、思春期に入った華秀としては思ったことをそのまま話すことが恥ずかしかったのかもしれない。
 幸いにも'99年の春から華秀の中学校に派遣されている日本語巡回講師のN先生から、華秀の普段の学校生活を聞く機会があり、華秀についての記述は、N先生からの聞き取りを含めて再構成したことを付記しておく。

2.1.1.中国での生活
 華秀と徳庫は吉林省長春市周辺部の農村で生まれた。徳庫の記憶によると生まれたところは建物も一階建てしかなく道路は舗装されていなかった。2人は来日までそこで生活していた。
 徳庫が小学校1年生を修了した後、姉の華秀を残し、来日することが決まった。徳庫はそれまで生まれた町を出たことが無く、初めて見た都会は帰国の手続きのために行った長春だった。長春は生まれ育ったところとは異なっていた。「俺ら住んでたとこ、二階建てとか三階建てとか全然なかってな、全部一階建てだからな、初めて二階建てに上るのかなり怖かった。」まさしく新しい体験に期待と驚きを感じつつ過ごした。
 この時点での日本に対する知識は先に帰国していた祖母の手紙から伝え聞いていたようだが、手紙を出して日本について知ろうという意識は無かったようだ。
 一方、華秀の中国での生活は学校と家の手伝いに費やされている。学校から帰ってくると夕食の手伝いや、家の畑の手伝いをしており「自由時間全然なかった」という。
 華秀は「私は学生でしょう。だから私のことは私では決められない」からと語っていた。彼女がなぜ1人だけ日本に来るのが遅かったのかということだが、「家族が決めたら自分で全然決めれないから。そのときは、おじいちゃんが決めた」と語っている。華秀は中国に祖父母と残るという家族の決定に従ったのだという。 そして、このとき、祖父は「私の家族の子ども10人の中で私が一番好きだから」自分を手放したくなかったのだろうと考えており、帰国が遅れたことについても疑問を抱いていない。
 華秀が中国にいる間、日本のことは両親や、特に姉からいろいろと話を聞いていた。「日本は凄く空気悪いとか、雪とか全然ないとか。雨の日が多いから。あとはお姉ちゃんが言ったのは日本はお菓子がおいしい。」
 華秀が家族の下に呼ばれたのは'98年のことであった。


2.2.2.来日1年目の生活('96年)−徳庫
 長春で見た2階建ての建物ですら「怖かった」と語っている徳庫にとって来日後は見るもの全てが驚きであった。一度も信号を見た経験の無い徳庫はその意味すら分からず、来日2日目に信号無視をして怒鳴られたという。
「信号あるやん。赤とか?青とか。全然分からんくってな、無視してん。最初全然知らんかってんって。車(に)乗ったおっちゃんに怒られて。でも何喋ってんのかさっぱり分からんし…。怖かったよ。いきなり車止まるし。なんでって思った。」
我々日本人が常識として捉えていることですら、徳庫にとっては違和感の対象であった。そのような徳庫にとっての'96年は日本語の習得と喧嘩の毎日だったという。
 担任の先生にしても、同様に大変だったようで、学年の途中に編入してきた徳庫に対して、日本語講師が派遣されるまでは、身振り手振りでなんとか意思を伝え合ったそうだ。徳庫は言う。「最初はやっぱり日本語の覚え方。あれはきつかったで。2日で20個とか覚えなあかんねん。中国の先生むっちゃくちゃ厳しかった。かたかな、ひらがないっぺんに覚えんねん。あと学校から出す宿題もあるし。(中略)それでもむちゃくちゃしんどかった。あの時な、日本に来んかったらよかったって思った。」
 徳庫の通う小学校では中国帰国者が他にいなかったために、学校は中国語が喋れる環境ではなかった。週2回、中国人の留学生が日本語を教えに来てくれていたが、自分の悩みを打ち明けられるような関係ではなく、その時間はただ日本語の習得のみに費やされていた。
 この日本語習得は徳庫にとってはただ「しんど」かった。ストレスもつのったようだが、当時を知る担任の話では、やはり、母国語で話が出来るという安心感からか、当初の緊張した表情は徐々に薄らいでいったという。しかし、徳庫の勝気な性格もあって小競り合いもあったようだ。「何しゃべってるんか分からんから、むかついた時俺、中国語で喋るし、相手は日本語。どっちも分からん。」
小競り合いの原因は「言葉の壁」であった。言葉がわからない徳庫にとっては当時は毎日が大変だったという。
 担任は、家庭との連絡を残留婦人である祖母を通して行っていた。徳庫はその電話について、喧嘩についての連絡が多かったと思っているが、後日担任から確認したことであるが、学校での状態を伝えることや、持ち物などの連絡が多かったという。
 3学期になると、小競り合いやボール遊びなどの非言語的な接触から、喧嘩相手とも友人関係を築け、徐々に友人の数も増えてきたという。

2.2.3. 来日2年目の生活('97年)―徳庫
 この年、「中国語の先生が2人から1人になって」取り出し授業の時間数も半分になったことでクラスで過ごす時間が増えたと徳庫は語っている。前年は、正式に日本語講師が派遣されるまでの空白を埋める為の緊急措置で、児童館の先生が話し相手に来てくれていた時期があった。それが「2人」の先生という記憶として残っている。徳庫が言うように、クラスでの時間数的には増えているわけではない。ここではむしろ、一年目の心の負担の大きさがこう表現をさせたと理解すべきだろう。
2年目の日本語学習は「新しく入った先生楽やってん。覚えるもんあるけど1週間で覚えなさいって言うのも少ないねん。2年生の時にやるだけやったから。」というように、一年目の苦しさを乗り越えたという気持ちを持ったようだ。
授業中に分からない言葉があると辞書を引いて調べることも多くなったようだ。「めんどくさかったで。(辞書を引くのに)普通の人は30分。俺1時間半かかったもん。」辞書を引く作業は徳庫にとっては困難なことだったが、「友達にも教えてもらってたけど。隣の人とか。」というように、友人の助けを借りながらの1年であった。
 こうした交流が増えるにつれ、友人と下校後も遊ぶようになり、友人の家にはよく遊びに行っていたようである。しかし、自分の家に友人を連れてくることについては抵抗感があった。「自分の家に連れてきたくなかった。いやもん(ママ:嫌だもん)。それでもめんどくさいもん。なんかよく見るやん。自分のうちとかどんなんか。それがめんどくさいねん。家どんなん?ってよく見るやん。どんな家とか。あと部屋とか。別に見せたくないわけじゃなくて連れてくるのめんどくさい。それにお母さん連れてきたらあかんて言うし。」という発言をしている。
母親が反対する理由を聞いてみたが「なんでやろ。知らん。自分はようわからんけど。連れてきてなんの意味になるんかさっぱり分からん。」と答えている。この家族は両親や長姉が遅くまで仕事をしていることから華秀が家ことをしている場合が多い。前述した自立指導員のW氏の話では、やはり部屋は清潔さを保てていない場合も多いという。徳庫は祖母が「自分の部屋な、かってにほうき持ってな、こんな汚い部屋ちゃんとしろっていうねん。」といつも怒られると語っている。そういう部屋の状態を友人達に見られたくないのかもしれない。
また家では両親や姉は中国語で話し、中国的な家具や品物が多い。日本の友人たちが中国的な室内を見て必要以上に徳庫を中国と結びつけ、中国の文化を軽く見ることを恐れ、連れてくることを拒んでいるとも考えられる。


2.2.4. 来日3年目の生活('98年)―姉との関係
 この年、華秀は家族に遅れて来日している。ある日突然、日本で既に生活をしていた姉(長女)が一時帰国し、祖父と話をして、「行け」と言われたという。長姉から日本のことを聞いていたとはいえ、実際に自分で体験することは別次元の話であった。これから住むことになるアパートは、家族5人で住むには「小さい」と思ったという。 
また、「日本の農業はゼンゼンない。中国は農業は多い。日本の農業は見たことない。中国はいっぱい。農業も自分で作ったものを食べるでしょう?日本ではそれはゼンゼンない。トマト何個とかって買うから。」と違和感を持ち、やはり戸惑いを覚えている。
また、この年、華秀は「小学校の時はほとんど友達ができてない。小学校のときに一番しんどかったのは友達ができんかったこと。ずっと1人だった。」というように、クラスから仲間はずれにされたと感じている。そして、自分と比べて「毎日、毎日、友達と遊んでた」徳庫を羨ましく思っていた。
華秀の日本語学習には、王兄弟の日本語を教えているF先生が来ることになった。このとき、学校は華秀が日本に不慣れであり、一人の行き帰りに不安も残るという配慮から、徳庫に姉の学習に付き添いを頼んだ。徳庫はこのF先生の授業を見て「僕もこんな授業受けたかった」と感想を述べたそうだ。そこで、クラブ等がない場合は、姉とともに勉強することになった。
徳庫はこのとき懸命に勉強した。後日、担任の先生は、この時期、徳庫の日本語は格段に上達したと筆者に語っていた。しかし、華秀の勉強方法が、かつて体験した日本語学習とあまりに異なったため、「(姉の勉強は)むっちゃくちゃ楽やもん。先生やさしいから。かたかなから覚えて1週間はただあいうえおだけやで。それが終わったらかきくけことかいう感じで。俺もそういうふうにしたかったな。俺も。楽やって。俺より楽やん。」というように、華秀の先生の指導法に対して不満を抱いた。ときには「何で初めてだ。今中学3年生なのに。」と日本語のわからない華秀を批判することがあった。これは中国にいれば中学校3年生に在籍していた華秀が小学校程度の日本語が理解できないことに対する嫌味であった。そのような発言に対して、華秀は筆者に「悔しいんだぞ。日本語は弟が出来るし。自分は出来ないから悔しい。」とつらさを語っていた。
徳庫の場合、日本語教育のスキルを持ち合わせてない留学生が日本語巡回講師であった。従って、日本語は独力で学ばざるを得なかった。その一方で、姉の華秀は、日本語教育専門家である、F先生から体系的に学んでいる。その不合理さに、徳庫は、日本語学習の時間、勉強ノートをちぎって先生に投げつけたと筆者に話している。しかし、後日、F先生に確認したところ、そのような無礼な行為は無かったと話してくれた。この発言は、独力で学習を続けてきた徳庫が、姉の日本語学習との関係の中で抱いた憤懣を吐露したものであろう。

2.2.5. 来日4年目の生活('99年)
来日2年になった’99年になって、徳庫は初めて自分に合った日本語講師に出会ったと思った。「今度の先生はむっちゃくちゃ楽やで。ちっさい「っ」とか覚えなかったらもっかい復習とかしてくれるから。自分がちょっとわからんて言ったら復習できんねん。前の先生(来日当初の先生か?)とか自分で覚えとけ!とか、むっちゃくちゃむかつくやろ。あんな先生。わりと今も先生は合ってるねん。楽しくできんねん。分からんこと分からんって言ったら教えてくれんねん。」
この年、担任の先生は徳庫と一年間どうやって勉強するか話し合ったという。徳庫は自分の意志で週2時間は日本語の授業を受けると選択した。上述した感想は自分の納得できる形で日本語学習が行われたため、日本語が上達し、達成感を確認できた結果であろう。
徳庫は、またクラスメートとの勉強も喜んでいる。「授業なんかは皆と同じ。それがうれしいねん。わからんかったら辞書じゃなくて、(日本語の)勉強する日に先生に聞けばわかんねん。わからない言葉があんまり無いな。社会とか分かるようになってきてん。だんだん面白くなってきてん。」
 学齢では2歳年上である徳庫は、自分は「クラスのお兄さん」と呼ばれていると筆者に述べている。実際に愛称として定着しているわけではないそうだが、確かにリーダー的存在としての役割を担っている。
 徳庫に自分が何人かと筆者が尋ねた時、徳庫は「やっぱり中国人。だって、自分の国忘れてないから。おじいちゃんとおばあちゃんおるし。中国人は中国人」と言う。そして、日本人に中国人と言われても「別に普通。ああそおやって思う。」と答えている。
しかし、中国語に関しては、現在、保持してはいるが「もうええかなって思う。日本にいてる時。もう日本語でええんじゃないの。中国に帰れへんかったら。」と中国語を忘れることに対してあまり危機感はない。また、中国語で会話することが常だった華秀とも「お姉ちゃんとよく日本語で喋るようになったかな。」と語っており、生活において、中国語を使用する機会は減ってきている。両親が日本語を覚えないことに関しては「(仕事が)忙しいし」と理解を示してはいるが「やっぱり(日本語は)話せた方がええんちゃう」と語っている。 ‘99年、華秀は中学校に進学した。小学校の時に一緒だった児童もいるが、以前のように仲間はずれにすることはないという。巡回日本語講師であるN先生が見る限りでは「寂し」そうに過ごしている日が多く、また、友人も少ないようだと語っている。それでも華秀は「(中学校は)楽しい。全然違う。中学校の友達は優しい」と語っている。「あんな、中学の最初、はじめ難しいから私全然分からなかったら、泣きたくなったら、全然大丈夫だぞって言ってくれた。もしわからんかったら自分の家に持ってきたらええって言ってくれた。勉強がんばってたら、テストあかんかったら、次のテストがんばってって言ってくれる。」おそらく、ごく日常の会話に過ぎないものであっても、友人の輪に入れなかった小学校時代を経験している華秀にとっては非常に嬉しいのだろう。このように華秀に話しかけてくれるのは、彼女が所属する英語部の友人たちであり、クラブ活動が友人関係のネットワークを作ることに大きく関わっている。


 また勉強についても「いつも友達教えてくれるから。休みの時間は日本語教えてって。その時に教えてもらったりとか。」というように友人とのコミュニケーションから学んでいるようだ。
一方で「中学校で授業中な、わからへんだら質問とか先生には聞けないでしょ。先生は毎日授業授業で忙しい。全然教えてくれないから。」と学校の先生に対しては、あまり自分には教えてくれないと思っているようである。しかし、それは仕方の無いことであり、家族がまだ寝ている朝5時に起きて机で自習をして補っていると語っている。筆者がなぜ帰宅後に勉強しないのか尋ねたところ、中国での生活は日中は家事手伝いをし、両親や姉が働いている現在も同様に家事を担当しており、勉強は登校前に限られているという。
 華秀は’99年1月の時点で、日本語をある程度まで使えるが、他の対象者のように自在に日本語を操れるわけではない。しかし、徳庫の発言からも分かるように、次第に姉弟の会話にも日本語が混ざってきている。それは毎週の彼らの会話を通しても感じられることである。
 10月になって、華秀が自分からパソコンの勉強がしたいと言い始め、他の3人とともにナラファミリーアンドフレンドの活動の後、事務所にあるマッキントッシュで少しずつパソコンを使って遊んでいる。また、’99年(12月)では徳庫が行儀の悪いときには「だめでしょ。ちゃんとしなさい。」というように徳庫を諭す場面も見られるようになってきた。
これは4月当初には見られなかったことである。日本語が出来るようになったことの自信の現れであろう。また、筆者や他のボランティアのメンバーに対しても時折、敬語を使うようになった。公民館に集まる他の国の子ども達や、日本人の子ども達に対して敬語では話していないことから考えても、華秀の日本語の獲得状況はここ数ヶ月でかなりの進歩をしている。

3. 彼らの生活世界から見えてくる教育課題

以上、4人の中国帰国者3世児童・生徒の生活実態を彼らの語りと学校の教師や巡回日本語講師との聞き取りなどを中心に構成してきた。それに対して日本の社会生活や学校文化の文脈に位置付けて考察を加えてみると、次の7点の課題が見えてきた。

3.1. 自分の意志とは無関係の来日
 中国帰国者3世の児童・生徒に共通しているのは、自らの意志とは無関係な来日である。彼らは、なぜ日本に行くのかという理由が理解できていない。動機の無いまま日本の学校現場に置かれているという状況を、まず第一に留意すべきである。

志高 帰国については、父親が帰国した時に母親から
「なんとなく聞い」ていた。「むっちゃ嫌やった。
なんか行きたくなかった」「(中国での)引越し
みたいなのと同じように考えて」いた。「そんな
んこっちなんも知らんやん。日本のことなん
か。だからな、なんか嫌な気分ていうか。日本
てどこ?みたいな。でもなんか、来たらどんな
んだろう」という不安があった。
華秀 「私は学生でしょう。だから私のことは私では
決められない」中国に残ることは「なんか家族
決めたら自分で全然決めれないから。そのとき
はおじいちゃんが決めた」祖父は「私の家族の
子ども10人の中で私が一番好きだから」自分を
手放したくなかったのだと考えている。来日は
ある日、日本から姉が帰ってきて祖父と話しを
して、「行け」と言われた。

祖母にとっては祖国への帰国であり、両親にとっては物質的な生活の豊かさへの憧れという動機がある。しかし、彼らにとっては動機が不明確で、ダイレクトに日本の学校に投げ込まれているのだ。
 ここから浮かび上がってくることは、動機の無いまま、在留している状況が、疎外感や被害者意識を醸成しやすいということである。
このことが、日本社会や学校への適応に対して様々な問題を生み出す要因となっている。このことを関係者は理解すべきである。細やかな配慮が求められる所以である。


3.2.乖離する生活習慣と価値観
 来日直後の4人は、日本の生活習慣や学校のあらゆることに違和感を覚え、戸惑いを見せる。

志高 冬にもかかわらず、学校では男子児童は「みん
な半ズボンとかはいて」いて、「なんでこんな寒
い時にこれだけしか着ないのって思っ」た。

これは、画一的な規制や集団行動を日本人が肯定的に受けとめていることへの違和感を示したものである。

志高 「こっちが悪かっても、謝る時にさ、どうやっ
て謝るのかなとかさ、そういう、なんか、謝り
たくても口出せへんやんか、言葉がわからんか
ら。」「ほんまにこっちが悪くないのに、そっち
から先にやったのはもう悔しくて泣いたりして
も、なんか、先生が、先生がこっちが間違って
なくても両方謝りなさいって…。」「本当は悔し
いでしょう。中国でも本当に人に謝るとか、そ
ういうんだって、人にちょっかいとか出せない
もの僕は。だから、そういう悔しいって言う気
持ちがいっぱいで…。」

これは最後まで是非を論じて解決する中国の行動様式と日本の行動様式の違いから出た言葉である。

徳庫 「来た時。信号あるやん。あっこ、赤とか?青
とか。全然分からんくってな、赤でわたった
ことあるねん。無視してん。最初全然知らん
かってんって。車(に)乗ったおっちゃんに怒
られて「何やってんのん」って。でも何喋って
んのかさっぱり分からんし…。怖かったよ。い
きなり車止まるし。なんでって思った。」
華秀 アパートに着いて思ったことは「部屋が小さい」
と思った。「日本の農業はゼンゼンない。中国
は農業は多い。日本の農業は見たことない。中
国はいっぱい。農業も自分で作ったものを食べ
るでしょう?日本ではそれはゼンゼンない。
キュウリとか梨とか。日本では全然無いから。
トマト何個とかって買うから。」

上記の語りは、高度に物質化された日本社会と、彼らの社会の違いについて述べたものである。

志高 「(親戚は)変わってる。自分が中国いるあいだ
な、親切とかさ、そういうの普通。でも日本来
てから自分が日本来てるからとかいう自慢とか
な、自分がお金持ってるから偉そうになってる
とかな、そんなん親戚にあるねん。中国いる間
とかみんな仲良しやねん。でも日本来てから変
わってる。」「自慢とかそういうのなかったし、
中国の時の方(が良かった)」

 来日後、物質的な豊かさを追及することで、価値観や生活様式が変わっている親戚に対しても、志高は「中国の時のほう」が良かった述懐している。そして、分け隔てなく仲良く暮らしていた中国の生活様式の良さを強調する。日中間の生活の激しいギャップに翻弄される親戚一同に対して、連帯感が薄れていく不安感を抱き、志高
は親類への違和感を感じている。
 日本と中国の生活様式や価値観の間で揺れ動く彼らが、このままマジョリティ側の圧倒的な同化圧力に飲みこまれた場合、強度の不適応状態に陥ったり、逆に、自らのルーツである中国文化について、否定的な意識を持つ可能性がある。徳庫は中国的な生活様式が部屋の隅々にまで染み付いている自宅に友人を連れてくることに拒絶反応を示している。その意味では徳庫は既にその兆候を見せている。このような状態はアイデンティティの危機にもつながるものであり、学校教育において彼らが感じるストレスを軽減するためには、共感的に彼らの言葉に耳を傾けることが求められる。

3.3. 家庭と学校のディスコミュニケーション
 中国帰国者の家族の抱える問題として、両親の仕事の問題があげられる。中国での実績や能力が十分に評価されない日本では、就職はいわゆる「3K」と呼ばれる重労働に限定される。厳しい労働条件の中で、差別や誤解を受け、肉体的にも精神的にも追い詰められる場合が多い。ナラファミリーアンドフレンドのメンバーでもある、W氏の話では「周りの人が理解してくれなかった」場合、「就職は1日我慢、2日我慢、」して、その結果「1週間ぐらいでクビになるか、あるいは自分で辞めるぐらいしか」選択肢がない場合も多いという。
W氏は中国帰国者の生活支援者として行政機関から派遣される自立指導員であり、彼らの就労問題をめぐる状況を熟知している。W氏が語ったように、その経緯は、この4人の両親についても同様である。


志高  「日本に来てもそういう仕事してるけど、上の
命令聞かないといけないから、いつも家帰って
腹立つとか言ってるんよな。中国のときはお父
さんが命令するから(同じ仕事してても)全然
ちゃう。気持ちがちゃうよな」「(父親は)中国
の方が良いんちゃうの?日本のほうが体(が)
楽や」けど「中国は疲れても気持ちが楽や」から。

志良、志高の父親は中国では工事現場の指揮者であった。しかし、来日してからは建築作業員をしており、志高は上記したように父親の仕事の困難さを語っている。また、彼らの母親も仕事を持っており、仕事場での差別的な扱いから、心労が溜まりアパートを出れなくなり、一時帰国していた時期もある。
 生活に追われ、家族を経済的に支えることで精一杯の状況では、両親は子どもの教育にまで関心を払えない場合も多い。現在、志良、志高の両親は、子ども達の教育に関して不安感を持ってはいるが、何の支援もできない状況になっている。彼らの場合、日本語を理解する中国残留婦人の祖母が学校と両親との伝達者となることが出来て幸いであったが、そのような媒介者が全ての帰国者にいるわけではない。
志良の担任は、志良が学校で問題を起こすたびに祖母の家を訪問し、相談を重ねていた。しかし、その担任によれば、祖母は彼らの父親に伝え聞いた問題を全ては語らず、祖母が家長として、子どもたちを厳しく叱ることが多かったという。また、両親は外部とのコミュニケーションに子ども達に依存せざるを得ない。子ども達の都合の悪い情報は伝えられないし、両親の必要な情報が与えられているとは限らない。
両親は、日本の教育制度や教育事情をほとんど理解していない。そのため、子どもが伝えた情報を正確に把握できない。また、他の日本人児童・生徒の保護者と語り合うこともなく、教育に関する外部とのコミュニケーションは子どもや祖母以外には皆無である。それが不安感を増大させることにつながっている。
徳庫の担任によれば、クラスの父兄や地域の住民が誘いをかけるものの、両親や祖母が学校を訪れることはほとんど無く、担任の粘り強い粘り勧誘があって、はじめて来校したという。
また、華秀は、両親に代わって家事を引き受けており、家庭学習に支障をきたしている。幸い華秀は早朝に起きて学習時間を確保することで、最低限、中学校の学習についていってはいる。しかし、今後、高校進学を含め、両親が彼女の教育に協力的であるか否かは定かではない。
 志良と志高の両親は、子どもの教育に関心を抱いていても、制度上の手続きや教科内容に関する情報の少なさから、漠然とした願いしか持ちえていない。また、徳庫と華秀の両親の場合、長女の姉も仕事を持っており、毎日を仕事に明け暮れ、子どもの教育にまで意識が及ばない。情報環境が閉ざされた二組の両親のもとで、4人がそれぞれの夢や願いを実現するには困難が待ち受けている。そのためには、両親に適切な情報を提供する担当窓口を教育行政に設けることが求められる。

3.4. 両親とのディスコミュニケーション
 彼らの両親は、精神的にも、肉体的にも重労働を強いられている。そのような日常生活の中で、日本語習得は思うように進まず、現在では、両親のいずれも夜間の日本語教室に足を運ぶことを止めている。筆者が直接に対話をした感想では、コミュニケーションにかなりの困難があり、子ども達の通訳が必要である。その反面、子ども達は、日本語の習得が進み、両親との日本語能力の格差は歴然としている。このまま親子間の日本語でのコミュニケーション能力の格差が拡大し、子ども達が中国語を忘れてしまうことになれば、今後家族間での意思疎通は困難となる。

志良 「3分の1は忘れたよ。お兄ちゃんの方がよく
喋れる。僕の方がちょっと喋ったら悩んじゃう」

筆者が志高と志良の家を訪問した時、母親は「(志良は)中国語はだめです。忘れてます」と、語ったことがある。生活に追われる毎日の両親にとって、日本語習得の時間を生活の中で確保することは現実的に難しい。「3分の1は忘れた」と語る志良に対して、全く母語保障が行われなければ、親子間のコミュニケーションの断絶が起きることは避けられない。さらに、価値観や道徳の伝達などに齟齬をきたすであろう。

徳庫 「(中国語は)もうええかなって思う。日本にい
てる時。もう日本語でええんじゃないの。日本
にいてる時は。中国に帰れへんかったら。」「お
姉ちゃんとよく日本語で喋るようになったか
な。」両親に関しては「(仕事が)忙しいし」と
理解を示してはいるが「やっぱり(日本語は)
話せた方がええんちゃう」

特に徳庫に関しては本人が中国語の必要性をあまり意識していない状態であり、今後アイデンティティの問題を含め、なんらかの支障をきたす可能性が強い。
 母語の喪失はあらゆる面で中国帰国者3世の生活に悪影響を与えることになる。しかし、現状を見る限りでは中国語の保持、強化を行う教育は行われておらず、彼らの置かれた現状がいかに危機的状況であるかがわかる。今後中国に帰るチャンスもあるだろう。あるいは両親との「言葉の壁」から親子間のディスコミュニケーションが起こるのを防ぐためにも、彼らに中国語の保持、習得、また強化を保障して行くことが必要である。
 しかし、現状において、各学校現場で日本語学習の取り出し授業以外、新たに時間を設け、中国語の指導を行うことは、時間的にも経済的にも人材を確保する面でも困難を伴う。各学校に分散し、孤立している中国帰国者児童・生徒が安心して集まれる場を設定し、お互い励まし合いながら母語学習が行える環境を整備することが重要である。つたない日本語や中国語であっても、非難や嘲笑を受けることがなく、なんでも自由に語り合える、彼らの居場所作りが求められている。同じ経験をしている仲間を得ることで、疎外感や被害者意識を軽減できる。さらに、中国について話し合う機会も増え、自らのアイデンティティについて仲間と考えることも可能になる。


3.5. アンビバレントなアイデンティティ
 箕浦(1984)(10)は「自分の周囲の人々が分かち合っている目に見えない意味付けの枠組を自己の内面的世界に摂取して行ける境界」として「9歳の壁」説を唱えている。志高は「9歳の壁」をかろうじて越えた、10才で来日している。したがって、自文化である中国の文化を確実に内面化していたとは言い難い。

志高 志高のクラスでは毎日朝の会の時に「中国語を
勉強しよう」という時間が設けられていた。志
高は毎朝中国語の先生として中国語会話(たと
えば朝の挨拶など)をみんなに教える係であっ
た。これによって、みんなが中国語で話すよう
になることは無かったが、クラスの皆はそれを
ゲームのように楽しむことができ、休み時間で
も「これ何て言うん?」と聞かれたりして、志
高もクラスに自然と「仲良くなれ」たという。

上記のような活動は、中国帰国者児童・生徒がアイデンティティを構築して行く上で非常に有益である。クラスで中国について語る機会が与えられたことにより、たとえ、強いられた形態であっても、改めて中国について改めて考える機会を志高は持つことができたのである。
 これは自らのルーツである中国文化を対象化し、再構築していく作業である。志高は中国文化を自文化として意識することで、中国語と日本語の持つ意味の微妙な違いについて意識するようになった。つまり、日本文化についても意識化し、深い洞察が可能となったのである。

徳庫 「やっぱり中国人。だって、自分の国忘れてな
いから。おじいちゃんとおばあちゃんおるし。
中国人は中国人。」「(日本人に中国人と言われ
ても)別に普通。ああそうやって思う」「自分
の家に連れてきたくなかった。いやもん(マ
マ:嫌だもん)。それでもめんどくさいもん。
なんかよく見るやん。自分のうちとかどんなん
か。それがめんどくさいねん。家どんなん?っ
てよく見るやん。どんな家とか。あと部屋と
か。それがめっちゃむかつくなあ。別に見せた
くないわけじゃなくて連れてくるのめんどくさ
い。それにお母さん連れてきたらあかんて言う
し。」「(母親が反対する理由は)なんでやろ、
知らん。自分はようわからんけど。連れてきて
なんの意味になるんかさっぱり分からん。」

 また、徳庫は、自分を「中国人」と断言している。その反面で、自らは友人の家に遊びにいくにもかかわらず、友人を家に呼ぶことを嫌がる。また、中国語を忘れることに対しても傍観者的な発言をしている。このアンビバレントな発言からは、徳庫が中国に対して、あるいは中国的なものに対して疑問を呈していることが伺える。
 中国文化に関心を持ちつづける志高と中国文化に冷淡な態度をとる徳庫の事例が示唆するものは、アイデンティティを獲得していくために周囲の肯定的な支援があるか否か、またアイデンティティをはぐくむための具体的な場面があるか否かの違いが生み出した差である。
母文化に対するアイデンティティの獲得は、異文化環境に暮らすものにとって、強力な同化圧力に屈しない根拠として最も重要なものである。志高に見られるように自文化の再構築を通して、相手文化をより深く洞察することができるのである。この過程で志高は多くのことに気付き、学んでいる。その学びは彼の人生を豊かにしていくものであろう。ホスト社会の中で母文化を相対化しながらハイブリッドなアイデンティティを獲得していく学びの意味に関係者は気付かなければならない。
志高の担任教諭はこの「中国語を勉強しよう」という会を3年間行ったが、その後、マンネリ化が進んだのでやめてしまったという。しかし筆者は、図書館で中国にかんする書籍や写真を眺めながら、自らの故郷である中国について学習を深め、「でかいよなあ」「すごいよなあ」「こんな家おぼえてるわぁ」という志高の姿を忘れることは出来ない。志高はこの「中国語を勉強しよう」という会の準備を行う中で、自らのルーツを改めて確認したことになる。これが、志高のアイデンティティ形成を内面化していく過程だったのである。
学校や、教師は、彼らが二つの文化の中で自己を相対化させながら賢明に生きる姿に注目すべきである。例えば、華秀は両親を助け、家事を引き受けている。そのような目に見えない努力や逞しさも評価するべきである。
 さらにアイデンティティは他者、あるいは周囲との関係性の中から構築されていくものである。それは、日本人児童・生徒にとっても重要である。なぜなら日本人児童・生徒にとっては、中国の文化を知ることで自文化を対象化する機会が与えられ、それが多様な価値観を認める態度をはぐくむことに通じるからである。価値観の多様性をはぐくむ教育は、国際化が加速する社会に対応して行くためには必須条件であり、未来に生きる子どもたちには欠かすことができないものである。


 3.6. クラスの支持的風土と双方向の学び
 華秀の場合、彼女自身を紹介する機会が十分に与えられず、結果的に、クラス内で仲間はずれにされてしまう。
華秀 「小学校の時はほとんど友達ができてない。小
学校のときに一番しんどかったのは友達ができ
んかったこと。ずっと1人だった。」「(徳庫は)
毎日毎日、友達と遊んでた」

 自分を表に出さない華秀の小学校生活は結果的に耐えることを強いられた1年間であった。小学校の6学年は5年間生活をともにしてきた、いわば、閉ざされた人間関係が支配する空間である。その中に華秀は飛び込んだのである。生活言語も習得していない状態であったことから、クラスメイトには彼女に対する異質感が先行してしまった。クラス内に彼女を暖かく見ていこうという視点が育たなかったことが原因である。
一方、志高の場合、当初、意志の疎通が上手くいかず、喧嘩もあったが、中国語紹介の時間を通して、また積極的に様々な活動に参加することで、クラスメイトが志高を受け入れるようになった。そして、それほど友人との関係を密にすることが好きではなく、放課後も、帰宅後もクラスメイトと遊ぶことが無くても、誘えば沢山の友人が集まるような関係を保つことができている。
 その意味では華秀と志高とでは全く異なる学校生活の経験をしていることになる。クラスに溶け込めたか否か、クラスメイトが彼らを受け入れることができたか否かが、それぞれの立場を分けたのである。
 生活言語を獲得する以前に、学校に編入してくる中国帰国者児童・生徒にとって、日本語の飛び交う学校は孤立するしかすべがない閉鎖空間であり、自らの個性を発揮できる状況は存在しない。ともすれば「異なること」を排除しやすい日本の学校文化の中で、彼らが疎外の対象とされることは目に見えている。これはマイノリティの問題であると言うより、むしろマジョリティである周囲の日本人児童生徒の問題である。中国帰国者が日本の習慣を学ぶべきであり、自分達は中国語や中国文化など学ぶ必要が無いと考える風土に起因している。そこには双方向の学びは存在しない。
 志高がなぜ、クラスメイトの支持的な態度を引き出せたか。その鍵となるものはもちろん志高の前向きな性格であるが、双方向の学びに気づいた担任の共感的、多文化的な対応がより重要な要素であったといえる。

3.7. 日本語教育の課題
 周知のごとく、生活言語と学習言語は性格が異なる。中国帰国者児童・生徒はまず、日本社会で生き抜くための生活言語の獲得が急務である。しかし、この生活言語は、授業中に教科書などで使用される学習言語とは異なる。彼らは、生活言語とともに学習言語の獲得が必須となる。これらの言語獲得は今後の人生に大きく影響する。しかし、現時点での日本語教育については行政の対応も含めていまだ未整備であるといわざるを得ない。

 
徳庫 「(姉の勉強は)むっちゃくちゃ楽やもん。先生
やさしいから。かたかなから覚えて1週間はた
だあいうえおだけやで。それが終わったらかき
くけことかいう感じで。俺もそういうふうにし
たかったな。俺も。楽やって。俺より楽やん。」

 華秀を教えたF先生は彼らの日本語教育について以下のように語っている。
・ 華秀は中国で漢字を全部勉強していたので、幼少時に来日した弟の勉強方法とやり方を変える必要があった。
・ 華秀の勉強方法、テキストなど、全てが徳庫にとってはいやだった。華秀には中国語と日本語の対応するような勉強をしていた。華秀はすぐに答えられる。で、それが日本語ではこういう意味よという。それが、徳庫がひらがなを最初から学習した方法とは異なっている。
・ おねえちゃんもかなり、(来日後の)ストレスが高かったのであまり宿題も出さなかった。だから、徳庫の受けた授業と全くちがう。
 このF先生は、過去7年間、日本語教育に関わった経験を有する数少ない日本語教育の専門家である。志良と志高の来日当初から一貫して彼らを教え、日本語教育とともに、彼らの相談相手となってきた。また、日本語教育に対するスキルも高く、個々の学習者に合わせた学習形態をとることが出来る。徳庫の来日から、姉が来日するまでの約2年間、彼を受け持った日本語教師は留学生であり、日本語教育のスキルを確立していたとは言い難い。 
F先生の発言から学ぶべき点が2点ある。まず、日本語教育を行う上での習熟進度や、教授内容の異なる学習者を同時に教授することの困難さである。中国で中等レベルまでの教育を受け、中国語で使用される漢字の学習を深めた華秀と、初等レベルの導入部分しか教育を受けていない徳庫では学習内容やテキストが異なる。明らかに習熟レベルの異なる学習者同士を、同時に一人の巡回日本語講師が教えることは、多感な時期に突入する学習者の精神面に負担を増加させることにもつながる。それは華秀が下記のごとく語るように、かえって個々の学習を妨げる要因ともなり得る。
華秀 「悔しいんだぞ。日本語は弟ができるし。自分が
出来ないから。くやしい。」

次に、志良・志高と徳庫・華秀の日本語教師の状況について比較した時、前者は編入時から一貫して同じ教師が対応しているが、後者は毎年のように教師が代わっている。そして、専門の日本語教育スキルを持った教師か、急場しのぎで採用された教師かという差もある。日本語指導の講師は現場の校長任せで、その人材リストも整備されていない。このようなシステムの不備が学習者の日本語習得の困難さを増大させることもある。
来日直後の学習者の生活背景や心情に配慮して、負担を軽減しつつ生活言語の習得だけでなく、学力の向上につながる学習言語の獲得が求められる。そのためには専門的な知識をもった日本語講師の育成が急務である。


4. おわりに―エスノグラフィーの視点―

 中国帰国者という包括的なテーマの中で、筆者は彼らの「顔が見える」調査をしたいという願いを持っていた。中国帰国者児童・生徒の問題を取り扱った研究は、どうしてもマクロ的な視点からのアンケート調査が主であった。マクロの視点に立った調査は、事象をめぐる状況把握には有益であるが、平均化された結論からでは「個」の抱える多様な問題は見えてこない。それはミクロの視点からでしか見えてこない性質のものである。
 そこで、本論ではミクロの視点から「個」の内面を考察していくために、参与観察と聞き取り調査から彼らの生活世界を記述していく作業を行った。この中でもっとも長い期間を要したことは、彼らのラポールを得ることであった。所属するNPOの活動の内外で約2年間にわたり交流を深め、筆者の人生を語り、心のふれあいを続ける中で、彼らがポツリポツリと自らの経験を語り始めたとき、初めて本論が可能となった。
その語りから見えてきたものは、子ども達がいかに困難な状況に置かれ、それに耐えながら毎日を過ごしているのかということだった。筆者は志良が小声で「ちょっとだけ寂しい」と語ったときの表情を忘れることができない。それは「ちょっと」どころではない。志良は孤独感を懸命に耐えていたのである。彼らの語りを文字に起こす作業の過程で感情移入し、テープを止めて考え込んでしまうことが何度もあった。そして、それを再構成していく過程でどのようにまとめていくか非常に悩んだ。なぜなら、彼らと交わした談笑も含めて、その語りの全てがそれぞれの人生であり、まとめ直すことなど困難に思われたからである。また、対象者が幼く、記憶の掘り起こしを伴う作業でもあったため、実際には記憶がずれていたり、事実と異なる事象が見受けられた。それを彼らの日本語講師、そして担任教諭や学校長の諸先生方と確認していく中で改めて気がついたことは、「事実」と彼らの語る「真実」の違いである。
人は自らを取り巻く社会事象を内面化していく過程で、体験や経験を捨象し、自己の主観に統合して理解する。そして、最終的に自らの心に内面化されたものが彼らにとっての「真実」であり、生活世界なのである。エスノグラフィーとはその「真実」を「事実」と対応させ、比較していく中で、彼らの「真実」の意味を見出していく視点であり方法なのである。

引用文献
(1) 玉居子延子 「青年二世進路調査報告」 『中国帰国者定着セン
ター紀要』2(1994)pp71〜94
(2) 隈井由佳・佐久間治夫 「小中学生クラス修了生の学校編入
の現状」 『中国帰国者定着センター紀要』2(1994)pp95〜
108
(3) 寺村由佳・佐久間治夫 「事例研究:人的リソースの利用状
況」 『中国帰国者定着センター紀要』3(1995)pp128〜142
(4) 池上摩希子  「児童生徒に対する日本語教育の課題・再検討」
『中国帰国者定着センター紀要』6(1998)pp131〜146
(5) 鄭暎惠 「ある「中国帰国者」における家族」『解放社会学研
究』2(1988)pp92〜107
(6) 鈴木智之 「中国帰国者の「子どもたち」」 『解放社会学研究』
2(1988)pp108〜125
(7) 江畑敬介ら編 『移住と適応』 日本評論社(1996)pp261〜
324
(8) 蘭信三 他共同研究  『「中国帰国者」をめぐる地域社会の
受容と排除』 文部省科学研究費補助金成果報告書(1997)
(9) 山口誠「キーワード解説―エスノグラフィー」吉見俊哉編
『カルチュラル・スタディーズ』講談社選書メチエ(2001)
p217
(10) 箕浦康子 『子どもの異文化体験』 思想社(1984)pp245〜
271
参考文献
倉地暁美『対話からの異文化理解』勁草書房1992
谷富夫編『ライフヒストリーを学ぶ人のために』世界思想社1996
田渕五十生,米田信次〔ほか〕著『テキスト国際理解』国土社1997
倉地暁美『多文化共生の教育』勁草書房1998
中川明『マイノリティの子どもたち』明石書店1998
R・M・エマーソン,R・I・フレッツ,L・L・ショウ著(佐藤郁哉,好井裕明,
山田秋 訳)『方法としてのフィールドノート』新曜社1998
箕浦康子『フィールドワークの技法』ミネルヴァ書房 1999
田渕五十生「異文化共生時代に日本の学校はどう変わるべきか」
『異文化間教育』11号1997p80〜90
日本統計年鑑(1998年度)

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The 3rd Generation Returnee Children From China
And Their World1
- Ethnographical study on four children -

Kenta FUJII and Isoo TABUCHI
(Department of Social Studies Education,Nara University of Education)
(Received April , 2001)

   According to an investigation made by the Ministry of Education, in 1997 there were 17,296 foreign children who needed Japanese language assistance in elementary, junior and senior high schools. 30.8% of these are native speakers of Chinese. In 1998, no less than 57 of such children went to schools in Nara Prefecture.
   In the enrolling schools, the educational strategies aimed at the returnee children are still in the making. Nevertheless, there is a strong tendency among the teachers to consider that thorough language assistance and academic ability support alone are satisfactory.
   It is beyond argument that support toward Japanese language proficiency and academic ability is very important. However, school education must not neglect to also encourage a positive attitude towards their families and homeland China and to facilitate the formation of an ethnic identity. Therefore, the educational practices related to these returnee children need to be further examined so as to become apt to respond to their life style and situation. 
   Starting with 1998, the author has been engaged in volunteer activity concerning four 3rd generation returnee children from China who now live in Nara for about two years, the author interacted with the subjects and built a mutual trust relationship that occasioned participant observation. The author helped them to solve their problems related to school and participated together in various cultural events related to Japan, China, or other countries. The present research is also based on data gathered from discussions with their school teachers and their visiting Japanese language teachers.
   Given the set of circumstances above, this paper sets to describe the world of the 3rd generation returnee children through the means of participant observation. Furthermore, the author aims at making suggestions towards appropriate educational practices directed at returnee children, who are likely to grow in numbers in the future as well.
Key Words:  returnee children from China, the 3rd generation returnee children from China, ethnography, education
for children of different nationalities

1中国帰国者三世 = 3rd generation returnee children from China. The phrase refers to the 3rd generation of descendants born from Japanese who moved to China and settled there. These descendants are now coming back to Japan in large numbers.