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2.2 調査結果の概略
筆者はそれぞれの調査で得られた結果を、@日本語教育(教室)の形態および内容、A生徒の母語の取り扱われ方、B学校内の生徒の位置と日本語教室の位置、C地域コミュニティーとのつながり、の4つの観点で横断的に分析し、調査結果としてまとめた。以下に調査結果の概略を記す。
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1) |
日本語教育(教室)の形態では、在籍校内での日本語教室設置のほうがセンター校方式に |
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比べて、生徒へのよりきめの細かい対応、教員同士の連絡・調整・協力、生徒同士の交流 |
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の組織化などを進める上で利点が多い。 |
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2) |
センター校方式は物理的のみならず心理的にも、外国人生徒と在籍学校との距離を生み出 |
|
しているように見うけられた。 |
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3) |
ボランティアによる「入り込み」は、特に違和感なくクラスに迎えられているようだが、 |
|
周りの生徒にどのような心理的影響を与えているのかについては、具体的な調査結果が得 |
|
られず、今後の課題である。 |
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4) |
日本語指導が校内で組織できず、ボランティア等による支援が行われた学校でも、 生徒の |
|
アイデンティティを尊重し、生徒の母語能力を活かしながら日本語と教科の 学習支援が行 |
|
われ、さらにクラス・学校・地域社会(PTA)での相互交流が行われた結果、高校進学 |
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および友人関係で、本人が満足できる結果を得ている。 |
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5) |
可能ならば、生徒の母語を日本語及び教科指導の媒介語として使用した方が良い、との考 |
|
えはすべての調査対象(校)において観察できた。実際、それが実現しているところもあ |
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り、日本語指導以外にも効果(生徒が安心して学習できる、相談しやすい、生徒の保護者 |
|
からも信頼される、など)を生みだしている。 |
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6) |
しかし、母語に自信のない生徒の「中国語で説明されてもわからない、それに試験 は日本 |
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語でされるから、どうせ日本語で覚えなければならない」という発言もあり、母語使用の |
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目的が生徒にとってもわかる形で示される必要がある。 |
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7) |
日本語教育の内容については、大人用につくられたテキストが主に使われている。 それに |
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手づくり教材が補助的に使われる程度である。方法はテキストに従って文法、文型、語彙 |
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等を理解し、聞き取り練習等を行う構造主義アプローチによる指導法が一般的であった。 |
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8) |
現役中学生へのアンケート調査の結果から、外国人生徒は、日本語の学習に大きな関心が |
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あり、もっと学習できる時間、機会、相手がほしいと思っている。教科の学習では、「助 |
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けてくれない」先生も多くもっと助けてほしいと思っている。生徒たちの行動範囲は限ら |
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れており、家の手伝いと勉強が生活の中心である。 |
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9) |
外国人コミュニティーの形成が見られる地域では、学校とそのコミュニティの結びつきが |
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生まれており、日本語教室や地域行事を通じた交流も組織されていた。そのコミュニティー |
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を背景とする生徒たちは、母語や母文化に接する機会が多く、それが彼(女)らのアイデ |
|
ンティティの形成や学校内での位置に影響を与えていると考えられる。 |
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10) |
高校入試とそれに関連する評価の問題が外国人生徒に深刻な影響を与えている。日本語教 |
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育はその影響を避けて通ることはできず、彼(女)らの学習意欲を低下させるような圧力 |
|
に対抗しながら行われている。 |
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11) |
高校入試という圧力の中で行なわれている日本語教育のあり方をめぐって日本語指導者の |
|
間には、「生きる力」の育成か、「1点でも多く点をとれる」指導か、という教育方針の対立 |
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が表れていた。 |
調査を通じて特に印象に残った点が二つある。一つはセンター校における日本語教育(教室)が「閉ざされた存在」になっていることである。外国人生徒の在籍校と日本語教室の交流は実質的にはほとんどなく、日本語教室での生徒たちのがんばりや喜怒哀楽は外には伝わっていなかった。もう一点は中学生にとっての進路の問題である。高校入試という大きすぎる壁に圧倒され、日本の学校に見切りをつけた元生徒たち、一方で、その壁に立ち向かおうとしている生徒や先生の姿があり、中学校での日本語教育の場が単にことばや知識を教える場としてのみ存在することができない現実があった。このような現実をふまえ、次章では中学生に対する日本語教育の枠組みと課題を考察する。
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3 中学校における日本語教育の枠組みと課題ーJSL教育としての日本語教育へ
3.1 小学校(生)と中学校(生)の違い
中学校における日本語教育を考えるにあたって、まずはじめに小学校(生)と中学校(生)の違いについて、実施した調査や文献研究、筆者自身の経験4等をもとに考察したい。切り口として小学校と中学校が持つ学習スタイルなどの形式上観察できる違いと、外国人児童・生徒が異文化や異言語を受け止めていく際に問題となる言語的、精神的発達の違いの2点に焦点をあてて整理する。そのことにより、両者の違いを際立たせ、中学校の課題の考察につなげたい。よって、ここで言う小学校(生)と中学校(生)は一般的な日本の公立(全日)学校をさし、学校ごとの個性や児童・生徒が持つ個人差は捨象して考えている。
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表3−1 学習スタイルなどの小学校(生)と中学校(生)の違い
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項 目
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小 学 校 (生)
|
中 学 校 (生)
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授 業 ス タ イ ル
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体験的、参加的、総合的
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概念的、受動的、単科的
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授 業 で の 学 習 活 動
|
低学年では場面依存的
高学年になるにつれ抽象思考が
増える
|
場面非依存的
抽象的、概念的思考がほとんど
(体育や音楽、美術などを除く)
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反 復 学 習
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多い
|
少ない
|
在 籍 学 級 で の 学 習
|
ほとんど同じ先生
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毎時間先生が変わる
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授 業 外 の ク ラ ス 活 動
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多い
|
比較的少ない
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制服、持ち物などの均質性
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比較的ゆるい
|
強い
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遊 び
|
体を使って
|
おしゃべりが中心
|
日本語学習のスタイル
|
場面依存的(模倣、反復、遊び、
実物学習などが取り入れられる)
|
場面非依存的(記号的な文法学
習、抽象的概念学習が多い)
|
|
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表3−2 言語的、精神的発達などにおける違い
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小 学 校 (生) |
中 学 校 (生) |
母 語 力
|
臨界期5以前ではまだ確立して
いない |
臨界期以降に来日していれば確
立していると考えられる |
言 語 習 得6
|
主に条件的習得 |
主に概念的習得 |
日本語習得のスピード |
会話は速く習得するが、学習言
語の習得に時間がかかる |
会話も上達に時間がかかる。し
かし、母語力次第で学習言語の
習得は早くなる |
自 意 識( 自 我 )
|
まだ弱い |
強い |
友 達
|
自己開示が得意であるため、比
較的つくりやすい。また、友達
をつくるために言語を学ぼうとする |
自意識が強くなり、友達の目が
気になる。友達を作るためには
言語的要素が多く求められるた
め、つくるのがむずかしい |
進 路
|
あまり意識されていない |
強く意識されており、常に不安
として自我を脅かしている。 |
アイデンティティの模索 |
あまり意識されていない |
思春期に入り、自分が何者か、
何のための日本語学習かを問い
始める |
|
|
表3−1から、小学校の児童たちがより体験的、参加的な学習や遊びを通して認知的・情緒的発達を遂げ、友達関係をつくっていくのに対して、中学生は学習に対してより受身で、抽象的概念を用いた理解力、思考力や記憶力が求められ、言語的要素の強い自己表現によって、人間関係を作っていかなければならないことがわかる。一方、表3−2の言語的・精神的発達の違いからは、言語発達では安定しているが、自意識が強くなり不安や葛藤、アイデンティティの模索など、最も不安定な時期を迎えた中学生の姿が浮かび上がる。つまり、学習スタイルの面でも内面的な成長の段階の面でも、小学生と中学生は大きく異なっていると言える。したがって、中学生への日本語教育を考えるにあたっては、十分にこれらの差異が考慮されなければならない。
|
|
3.2 JSL教育としての日本語教育
小学校との違いを考える上で、中学校卒業後の進路の問題は大きい。中国帰国者の子どもや、インドシナ難民の子ども、親の結婚等によって呼び寄せられた子どもたちはいずれも日本社会での定住を当面の前提とする。また、日系人労働者の子どもたちは、帰国を前提としつつもさまざまな事情で、滞在が当初の予定より長くなる場合が多いとされる。つまり、彼(女)らの将来像には、「日本社会で生活し続け、学び、働く」という生き方が選択肢として必ず含まれてくる。したがって、日本語は現在の彼(女)らのサバイバルをかけた言語であると同時に、彼(女)らの将来の生きる力や自己実現の手段ともなるのである。
小林(1993)は、中国帰国者に対する日本語・日本事情教育の蓄積から、「第2言語としての日本語教育=JSL(Japanese as a Second Language)教育」という枠組みを提示し、示唆に富む議論を展開している。小林は第2言語教育は「いわゆる移民に対する教育」であり、日本語はいわば「第2の母語」として機能するという田中(1998)の考えを取り入れて、JSL教育を「第2の母語教育としての日本語教育」と定義している。そして、このJSL教育の特徴を次の5つにまとめている。
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1) |
母語なみの日本語能力を志向する性格 |
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2) |
サバイバル訓練的な性格 |
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3) |
生涯教育的な性格 |
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4) |
社会的・文化的な性格、すなわち移民問題が引き起こす社会的課題・問題への社会的対応 |
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|
のひとつ |
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5) |
実存的な性格をはらむ性格、すなわち「どう生きるか」、「どう学ぶか」、「何のために学ぶ |
|
|
のか」という学習者自身の根元的な問いと常に向かい合う中でおこなわれる |
|
|
小林は成人学習者を対象に枠組みを論じている。では、中学生にとっての日本語教育はどのような視点が必要であろうか。特定の目的のために外国語として日本語を学習するのではなく、日本で生活者として生きていくという前提に立てば、上記の5つすべてが中学生にとっての日本語教育の特色となり得ると同時に、さらに3.1で論じた中学生という独自の環境と発達段階を考慮した枠組みが必要となる。そこで、筆者は小林にならって、中学校での日本語教育をJSL教育と位置付け、その枠組みについて論じる。
しかし、その前にJSL教育という言葉の使用について触れておく必要がある。JSLは言うまでもなくESL(English as a Second Language)をもとに作られた言葉である。ESLは一般に、英語が主流の社会に移民等として入ってきた生徒たちが受ける英語の補習的授業を指し、歴史的には、少数言語生徒の主流社会への同化を目指すものとして機能してきた。したがって、現在のバイリンガル教育研究の中では「消極的な教育形態」(C.ベーカー 1996 183頁)の中に位置付けられており、その言語プログラム自体は広く普及しているものの、その目的によっては問題も内包していると言える。よって、JSL教育という言葉が、ESL教育の限界性を前提としていると考えられる可能性があるが、これまでの年少者の日本語教育研究の中で、この言葉の定義や使用の是非についての議論は、あまり行われてこなかったのではないか。そこで筆者は以下の二つの理由、特にAの理由で、本論文でJSL教育という用語を使用する。
|
|
@ |
ESL教育は、バイリンガル教育推進の立場からは消極的で限界があるにしても、 |
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それ自体の長い歴史の中で英語教育に関する豊富な蓄積があり、現在の日本語教 |
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育に応用できる点が多いと考えられる。 よって、 限界はあっても、 もっとJSL |
|
教育という言葉が認知され、ESL教育と同程度に内容において発展するべきで |
|
ある。 |
|
|
A |
小林が提起したJSL教育の枠組みによれば、より広く深く日本語教育の目標を |
|
設定する必要があり、単にESLのコピーでない、独自の広がりを持つJSL教 |
|
育の発展の可能性が開かれる。 |
|
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3.3 中学校における日本語教育の枠組み
中学校における日本語教育をJSL教育として位置付けた場合、どのような枠組みが必要となるのであろうか。
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1) 母語なみの日本語能力を志向して行なわれる
日本の中学校で学校生活を送るということは、現時点では、友達との会話から授業の内容まで日本語漬けになることを意味し、外国人生徒は、「日常の生活全般において常に顕在的・潜在的なコミュニケーション不全感をもつ」(小林)ことになる。しかし、友達を作り高校にも行きたい彼(女)らにとっては、特定の目的のための限られた日本語だけではなく、「母語話者並み」になることが自然な願いとして出てくるはずである。筆者のインタビュー調査の中で、自分の日本滞在期間の5年間を「空白」と表現した元中学生Bは、来日(中学1年)してからの学習に対する不全感を強く訴えた。「勉強ができるようになりたかった。試験で点が取りたかった」と。生徒たちのそのような願いに比して、来日1年未満か、長くても2年までの期間の生徒に、週10時間前後の日本語の授業を提供するだけの現在のプログラムのありかたは、あまりにも不十分である。また、「母語話者並み」の日本語力は、中学校卒業までで到底獲得できるものではないことを考えると、必要なことは、将来にわたって継続して学習を行いたい、という肯定的な気持ちが持てるような日本語学習環境をつくることであろう。
|
|
2) サバイバルの道具としての日本語
小林は成人学習者にとっての「サバイバル」を主に経済的理由から論じているが、中学生にとってのサバイバルも切実であり、「死活の問題」(中島 1998 24頁)である。中島によると、「サバイバルのためにあらゆるものを動員し、すべての力を結集して日本語を習得しようとする。また分からなくとも分かったふりをするとか、限られた表現で日本語が話せるかのように見せるとか、親切な子どもにぴったりついて行動するとか子どもなりにいろいろなストラテジーを使う」。中学生になるとその緊張は内面に蓄積され、「同年齢の子どもとの交流が大事な思春期の子どもには苛酷な環境(中島)」となる。その結果、日本語教室が「ガス抜き」の場として期待されることになる7。現在の中学校での行政的施策は、ほとんどがこのサバイバル期間に行われて終了してしまう。つまり、長い期間にわたる幅広い言語能力の獲得に寄与するJSL教育の初期に来るものとしてサバイバル期間を位置付けるどころか、現行ではサバイバル期間=JSL教育になってしまっているという問題がある。
では、このサバイバル期間をどのようなプログラムや人的配置で対応するのがよいのだろうか。何も対応せずただ在籍学級に入れておくというのは論外だが、「学校側の混乱を防ぐには外国人の子どもの多数在住する地域に、例えば日本語インテンシブコースのような教育機関を設置し、ある程度の日本語が理解できるようになるまで、その機関で集中的に日本語の教育をするという方法も1つの案であろう。」(中西・佐藤 1995、187頁)や「(センター校方式には問題もあるが)指導者、教材などの点で専門化が図られる利点があり、(中略)一つの方策である」(東京外国語大学 1998 25頁)といった捉え方にも、筆者は疑問を感じている。筆者の調査結果では、外国人の子どもたちを受け入れる側、つまり担任や学校全体(ホスト側)の意識が現在のままである限り、彼(女)らの受け入れはホスト側が変わっていく契機にはならず、センター校もインテンシブコースも外国人のための(実は「日本の学校が従来と変わらない教育活動の展開を可能にするため(太田 1995 79頁)」の)「閉ざされ」た空間にとどまる危険性がある。そこで学ばれる日本語は、日本人生徒や地域社会と豊かな関係を結ぶためのものにはなりにくく、日本語教育は外国人生徒が持つ差異をより見えにくくしてから、在籍校へ帰すためのものとして機能することになるのではないか。初期の受け入れについては、形態の議論はもちろんだが、その理念がもっと検討されなければならないだろう。花井市西中元生徒のA(2-1 調査@を実施)の受け入れの過程で学校、ボランティアが連携し、生徒の母語を最大限活かしながら進められた実践は、一つのモデルとなると思われる。
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3) 生涯教育の基礎的部分としての日本語教育
子どもたちはどの社会に生きていても、生涯を通じて学びつづける権利を持っている。特に「移民」的移入者がホスト社会で生活し、自己実現をしていくためには、そのライフステージに応じて必要とされる言語、知識、技能等の学習の機会が十分に提供される必要がある。現在のところ日本の生涯学習環境は、外国人のそういったニーズに十分応えているとは言いがたい。しかし、中学生へのアンケート調査で、「地域の日本語教室へ行っている」(4人)、または「あれば行きたい」(6人)、と生徒たちが答えているように、学びの場が多くなることは、さまざまな人とのさまざまなコミュニケーションが、具体的に行われる場ができることであり、それを通じたコミュニケーション能力が習得されていくと考えられる。また、学校の中とは違った「受け入れ」や「家族的な関係」がつくられることは、子どもたちの精神的な発達においても重要なものとなる。「限定された空間と時間」の中に生徒たちを閉じ込めるのではなく、「大きなスケール」(小林)のなかの一段階として、しかも生涯教育の基礎的部分を担うものとして、中学校における日本語教育を位置付ける視点が必要となる。
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4) 生徒の社会的関係の中で育まれ習得される
これまで児童・生徒への日本語教育は、子どもたちが早く日本語を習得し、教科の学習にもついていけることをめざして、いかに指導者が子どもに「指導」するかに重点がおかれていた。しかし、子どもたちの「学び」や「ことばの習得」は、川上(2002 87頁)が指摘するように「もう少し広い文脈、すなわち教室の中の学習集団やそれを越える人々とのインターアクションという社会的実践の中でこそ、生まれる」ものであろう。元中学生Bは来日後2年間、センター校に通って日本語指導を受けたが、その間ほとんど在籍校の日本人生徒と話さなかったという。「むこう(在籍校の生徒)のしゃっべている言葉があまりわからないから、返事がない(返事しない)んですよ。言葉は覚えても口に出さないんですよ」というBの言葉から、彼と在籍校(クラスメートたち)との心理的距離がうかがえた。中学生になると、小学生のように遊びや行動を通じた自然なインターアクションが生まれにくいが、中学生にとっても同年代の子どもたちとの交流は不可欠である。よって、中学生に対する日本語教育は彼(彼女)らが在籍学級をはじめ学校のさまざまな場面や地域という社会的関係の中で、さまざまな人とのインターアクションを促すような広がりをもつことが重要であろう。
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5)
「どう生きるか」、「どう学ぶか」、「何のために学ぶのか」、という生徒の根元的な問いや
成長とと向かい合う中でおこなわれる
ある程度、自我や価値観が確立し、自分の決断で来日した大人でも、異文化の中で新しい生活を始めることにはさまざまな困難が伴ない、「アイデンティティの危機の問題にさらされることになりやすい」(小林)。よって、「JSL教育をこの問題から切り離すことはむずかしい」と小林は指摘する。子どもたちにとっては、日本へ来ることは自分の意思ではなく、むしろ意思に反してのことが多い。中学生では思春期特有の内面の不安定さに、意にそぐわない異文化での生活が加わって、強い内面の葛藤を経験すると思われる。さらにそこに高校受験と言うプレッシャーが加わる。したがって、中学校におけるJSL教育はこういった生徒の内面の葛藤へのケアやサポートへの視点なしでは成り立たないと言える。実際、高田市南中の日本語指導担当教員の口からは何度も「生きる力をどうつけるか」という言葉が語られていた。
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6) 生徒の進路をめぐる社会状況とかかわりながら行なわれる
2.2の調査結果の10)、11)にもあるように、中学校卒業後の進路の問題は深刻である。これまで述べたような日本語教育の枠組みが中学校において可能になるためには、現在の高校入試制度8と、それに関連する日常の成績評価9の問題の解決が急務である。母語話者が、15年間かかって身につけた言語力や学力をもって挑戦する高校入試に、一定の配慮事項はあるものの、来日1年や2年の生徒ですら、同じ評価基準で参入しなければならないことの不合理さは明白である。梶田(1994 204頁)は外国人生徒たちが、彼(女)らの能力ではなく日本語能力によって、日本の教育システムに振り分けられる結果、教育システムに存在するヒエラルキーの底辺に組み込まれ、「労働の分野」と類似した「『二重構造』の拡大」が起こっていることを指摘している。中学校での日本語教育はこのような現実と向かい合いながら行なわれており、今後もその影響の中で進められざるを得ない。外国人中学生にとって苛酷な現実をよりよい方向へ変革しようとする志向性が日本語教育にも期待されている。
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以上、小林の枠組みを参考に中学校における日本語教育をJSL教育として位置付け、必要となる枠組みを考察してきた。現在のサバイバル期間の日本語=JSL教育ではなく、上記の6つの視点をもった日本語教育が中学校において考えられる必要があるだろう。
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3.4 中学校における日本語教育の課題
本節ではこれまでの議論をもとに、中学校における日本語教育の課題を考察する。
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1) 外国人生徒受け入れの意味および意義
筆者が第一に重要だと考える点は、外国人生徒の受け入れの意味と意義が学校の中で十分に議論され確認されることである。これは、生徒たちに対するあらゆる教育的営みを行う上での前提となるものであり、このことが揺らいでいればその上に積み上げられる体制やプログラムも不安定となる。山田(2003 25頁)は、日本社会が外国人の受け入れを加速させていることに触れて、「日本社会は『多文化共生』を決断し、多民族・多文化・多言語社会の創造を目指す取り組みを加速させなければならない」としているが、学校においても実質的な意味での「決断」が必要である。それがない日本語教育はこれまでどおり校内の(或いは校外の)周縁に存在する「閉ざされた」ものになってしまうであろう。
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2) 生徒の母語・母文化を守る視点
子どもたちの母語・母文化を大切にすることは、子どもたちにとって国際法上で保障された権利であるとともに、子どもたちの認知・言語発達上不可欠なものであることが指摘されてきた。C・ベーカー(1996 290頁)はJ.Cummins(1986)の理論を引用しながら少数派言語使用の生徒の能力が学校の特徴によって「強化」される場合として、「付加的:家庭の言語と文化が学校に取り入れられ」、(地域社会や親と教師の関係が)「協力的」で「地域社会の(学校教育への)参加」がある場合としている。つまり、生徒が持つ母語での能力や資質に「付加」して日本語や日本の文化を学習することが大切なのであり、母語や母文化を削減したり置き換えたりするための日本語教育であってはならないということである。また「付加的」な教育のために学校は親や地域社会に対し協力を求め、その参加を得ながら教育活動を組織していく視点を持つ必要がある。こういった視点を今日の「地域に開かれた学校づくり」の動きに重ね合わせることができれば、外国人生徒の母語、母文化を取り入れたカリキュラムづくりを促進することができるのではないだろうか。
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3) 日本語教育(教室)の形態
これまでの「日本語指導のためのセンター校」への通級制は外国人生徒と日本人生徒との距離を広げ、欠席する教科の授業数も多くなるなど、生徒にとって負担の大きいものである。現状では生徒の在籍学校内での指導が望ましく、日本語教室が外国人生徒と日本人生徒双方にとって学びや交流の場になるよう組織されるべきであると考える。また、教育が人と人との営みである以上、生徒にかかわるまわりの大人の連携、教育の目標に関する議論、十分な意思疎通が不可欠である。日本語教育と教科教育の協働、学校と地域の協働など「開かれた」関係づくりが鍵となる。
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4) 日本語教育の内容
小林(1993)は、JSL教育においては(外国語学習と違って)「学習者自身が自己の学習目的を明確に自覚しているとは前提できない」として、「JSL教育の場合には、コースデザインというよりもカリキュラム開発10が必要になる」と述べている。このカリキュラム開発においては、学習者の長い学習期間への見通しや理念をもとに、「教授者主導による教育目標の設定」が行われることが「要」になると言う。2002年−2003年に文部科学省が関係者の協力のもとに開発した「学校教育におけるJSLカリキュラム(小学校編)」はそのねらいとして、「日常的な会話はある程度できるが、学習活動への参加が難しい子どもたちに対し、学習活動に日本語で参加するための力=学ぶ力の育成を目指す。」ということを掲げている。小学生にとっての日本語教育の目標のひとつが学習言語の獲得にあること指し示した点で、これまでの国の対応の枠組みを大きく変化させたと言える。また、開発されたカリキュラムがインターネット上で公開され11、実践を共有しつつ実践をふまえて「成長させて行くカリキュラム」として位置付けられている12点も新しい。中学校レベルのカリキュラム開発(2003年−2004年において行なうとされている)においても、これまで支配的であった構造主義アプローチから脱却し、生徒たちが学ぶ日本語が、学級や学校、地域といった場でのさまざまな人とのインターアクションを創り出し、生徒の「生きる力」を育てるものとなるよう、構想されることが期待される。
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中学校における教育内容は、生徒のおかれた学校内外での状況や生徒一人一人の個性が多様であることを考えると、固定的で汎用的なカリキュラムづくりは(少なくとも)現時点では現実的ではなく、それそれの生徒にあわせて教育目標を設定しながら、さまざまなリソースを活用してカリキュラムが創造されていくことが望ましい。そういった点で、石井(1998)の「総合的学習としての日本語学習」の提案は注目される。石井は小学校高学年や中学校の教室で使われている高度な日本語の力はそう短期間でつくものではないとして、日本語習得のみにとらわれず、文脈や視聴覚情報、背景知識など少しでも教室内コミュニケーションが理解可能となるようなストラテジーを考え、指導することが教室で使用されている日本語との接触機会も増やすことになると言う。これまでの日本語教育では学習者にのみ視点を当てることが多かったと考えられるが、石井はむしろ生徒の教室、教室で行われる日々のコミュニケーション、一定の文脈や場面でのことばの使われ方といった生徒をとりまく環境に注目することを提案しており、ユニークである。環境が学習者に語りかけるものが多くなれば生徒は自分の諸能力を使ってそれを「理解」しようとするであろう。
筆者も「閉じた」あるいは「閉ざされた」日本語教育(教室)を「開かれた」ものにしていくことが今後鍵になると考える。「閉じた」日本語教育への対抗概念として筆者が考えるのは、「環境デザイン型日本語教育」というものである。私たちの環境は、さまざまなリソースと、それらがひとつの環境としてデザインされたもので成り立っている。ここで言うリソースとは「リソースセンター」で使われる意味のリソースだけでなく、子どもたちが生きている生活世界にあるすべてのものを指している。日本という新しい社会に参加した子どもたちは、さまざまなリソースを活用してことばを覚え、人間関係を築き、自分を取り巻く環境を理解するとともに環境に働きかける力を身につけていく必要がある。では、子どもたちにそういった力をつけていくための環境はどういったものなのであろうか。佐伯は「学びのドーナツ論」の中で次のように述べる。
|
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人の学びをひろげてくれるのは、このように、YOU的他者(二人称的他者)と、YOU
的道具との親密な交流であり、それによって、私たちの「からだ」=自我が拡大し、変化
し、さらにより深く社会・文化に「入り込んで」いくのである。(佐伯 1995 70頁)
|
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子どもたちが日々接している教師、級友、先輩、地域社会の人々と子どもたちの「親密な交流」は生まれているであろうか。道具としての日本語は彼(女)らのからだの一部になり、彼(女)らをとりまく外的世界の文化や営みへ彼(女)らの意識を向かわせるものになっているだろうか。このような視点で子どもたちの世界を捉え、子どもたちとの接点にあるものをリソースと考えるのである。リソースには子どもたちが接する人々の他にも教室や学校の中のさまざまな物や教材、参加の機会、地域のコミュニティや社会教育施設も含まれる。これからの日本語教育ではそれらのリソースを活用し、それと子どもたちの親密な交流を促進するような環境をデザインすること、そのためにリソースを有機的に結びつけて有効にコーディネーションすることが日本語指導者としては重要となるのではないだろうか。
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4 おわりに
本稿では筆者が中学校で行なった調査結果の分析をもとに、中学校における日本語教育の枠組みを考察し、課題を整理した。筆者は、中学校における日本語教育が生徒たちのアイデンティティの模索や高校受験などのプレッシャーと向かい合いながら、生徒たち一人一人の今後の人生という長い見通しにたって考えられる必要があることを述べた。生徒たちの目の前にある高校入試という現実から考えると、筆者の考察は非現実的と捉えられるかもしれない。実際に、ある日本語指導の現場では校内の試験で「一点でも多くとる」ための「指導」が行なわれていた。問題はそのことの是非が一部の日本語指導担当者の間だけで議論され、学校全体、地域全体、大きく言えば日本社会全体で議論されてこなかったことにあると考える。外国人生徒にとっての現在の日本の高校入試は、第2言語習得に関する知見からすれば、「不可能を可能にしなければならないことにチャレンジしている」(西原 1999 7頁)のである。
日本の学校で学ぶことになった外国人の子どもたちが、自分の可能性を信じて生涯にわたって学びつづけることができるよう支援する、その一端を日本語教育が担うことができればと思う。
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注 |
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1 |
「日本語教育が必要である」とする判断基準が示されていないため、来日して日の浅い 児童・ |
|
生徒を主としてカウントしているとされ、実際はもっと多いと考えられる。 |
2 |
本論文では、行政施策として「日本語指導」という用語が使われている場合はそのまま用い、 |
|
筆者の考察の対象としては「日本語教育」を使用している。 |
3 |
学習に必要なキーワードを日本語とポルトガル語の両方で予習する学習方法。茨城県で学校 |
|
教員、筑波大学、茨城県教育委員会の協力で開発された。 |
4 |
14年間の公立中学校教員としての経験、また成人への日本語教師としての経験を含んでいる。 |
5 |
「『臨界期仮説』によると、人には言語を自然にかつ努力せず習得できる期間があり、一定 |
|
の年齢を過ぎるともはやそれ以前のようなインプットはできなくなると考えられている。10 |
|
歳前後に臨界期があるとする説が有力だが、臨界期がいつ終わるか、言語の側面(文法、発 |
|
音)と臨界期の関係など説は分かれている。(ロッド・エリス
1988 99頁)」に拠っている。 |
6 |
ここは縫部(1999,150頁)の「ある一定の条件下に置かれたら、否応なしに言語を身につ |
|
ける条件的習得の能力は年齢を重ねるにつれて次第に下がり、反対に言語を概念的にとらえ |
|
理屈で習得しようとする概念的習得の能力は、年齢とともに上昇し、10歳前後が二つの能力 |
|
の分岐点であり、大きな転換点となるのである。これ以後は単なる模倣は次第に敬遠される |
|
ようになる」に拠っている。 |
7 |
調査の過程でも、日本語教室で大声を出したり、言うことを聞かなかったり、リラックスし |
|
たりする生徒の姿が観察されたが、在籍学級では見られない姿であるという。 |
8 |
大阪府の場合、筆者の調査時点では日本人生徒と同じ試験で、時間延長・辞書の持ち込み・ |
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試験問題の一部ルビ打ちのみが認められていた。その後、2001年からは一部の高校に特別枠 |
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が設けられ、「門」は広がったが、特別枠を持つ高校は2003年度までで4校で、それ以外の |
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高校では従来の入試が行われている。 |
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テスト時はルビ打ち、辞書持ちこみ可など一定の配慮はしても、成績は日本人生徒と「同じ」 |
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基準でつける学校が多いとされる。筆者の調査校もそうであった。 |
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ここで小林はカリキュラムという言葉を、教育目標の設定および目標達成のための全体的 |
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方針・計画として使っている。したがって、カリキュラム開発とはコースデザインの前に教 |
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育目標の設定を行ない、カリキュラムのいろいろな要素の開発をその目標を中心に有機的に |
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体系化することとなる。 |
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現在、JSLカリキュラムによる授業づくりと実践をサポートするため、東京学芸大学国 |
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際教育センター「外国人児童生徒教育支援ホームページ」が開設されている。 |
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(http://jsl2.u-gakugei.ac.jp) |
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文部科学省ホームページ「学校教育におけるJSLカリキュラム開発について中間まとめ)」 |
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の公表について |
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参考文献
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東京外国語大学 1998 『外国人子女の日本語指導に関する調査研究<最終報告書>』
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西口光一 2002 「日本語教師のための状況的学習論入門」『ことばと文化を結ぶ日本語教育』
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