鍛治致(大阪成蹊大学)
大陸出身の在日中国人の中には一時滞在型もいれば定住型もいる。一時滞在型の代表格としては研修生が挙げられる(もっとも、近年は短期滞在で日本を訪れる大陸出身の中国人も増えているが)。定住型には華僑、留学生、日系中国人が挙げられる(もっとも、近年は日本に定住するつもりのない留学生も増えているが)。
入管が日系中国人と呼ぶ人々の中には、(1)日中戦争勃発を受けて中国に帰る中国人に伴われて福建省に渡った日本人の子孫等、(2)満州国崩壊後に中国東北からの引揚に失敗した日本人の子孫等、(3)日本人と結婚した者、がいる。
本稿が扱うのは(2)であるが、(2)の大部分は中国残留婦人の係累であり、中国残留孤児の係累は少ない。これは、国籍法の関係で、孤児の子は出生や届出で日本国籍を取得しやすいのに対し、婦人の子は帰化しなければ日本国籍が取得できないことによる。
インドや中国が商業移民を送出したのに対し、日本は農業移民を送出した。送出先は時代とともに、ハワイ(明治)、米国本土(大正)、ブラジル(排日移民法成立後)、満州(日中戦争勃発後)、ブラジル(主権回復後)と推移したが、このうち満州移民の規模が最も大きい。
「昭和の屯田兵」の例えの通り、満蒙開拓団の団員は武装する農民であり農耕する兵隊だった。実際、兵站としての開拓村は「匪賊」出没地区やソ満国境付近に展開していた。また、現地で子をどんどん産んで日本人を増やすのも団員の重要な任務だった。だから、どの村も若い夫婦と児童で溢れていた。
米軍との戦闘が激化すると関東軍の主力は南方戦線へと引き抜かれていったが、これによって生じた兵員不足を補うため、1945年には18〜45歳の男性が全て召集されて関東軍に加わった。その結果、留守家族(若い妻と幼い子)ばかりが、満州で最も危険で奥深い所に取り残されるに至った。
ソ連軍が満州に侵攻してきたことを知った開拓団は集団で避難を開始した。人目を避けながら山を越え河を渡る逃避行の過程で、中国人に襲撃された開拓団も多い。乳児や幼児の大半は、この逃避行で死亡した。
当初ソ連軍は、物資を持ち去ったり、兵士を連れ去ったり、婦人に乱暴するだけで、日本人の送還については無関心だった。このため、満州に住んでいた日本人はみな現地で越冬せざるをえなかった。大都市に住んでいた者は身を寄せ合うようにして冬を越した。大都市に流入した難民の多くは、暖房も配給も不十分な避難所でじっと冬を越すしかなかった。
中国残留孤児が肉親と別れて中国人養父母に引き取られる経緯は様々だ。子の命を案じた肉親が知り合いの中国人に預けたケースもあれば、避難所から街に出た際に誰かに誘拐されてしまったケースもある。いずれにせよ、孤児の中には3歳で養父母に引き取られた者が最も多い。
一方、農村の避難所は冬が越せるような所ではなかった。当時の農村は女性の人口が不足していたので、嫁の来手がなくて困っていた中国人中年男性は日本の若い女性を次々と自宅に連れて帰った。夫を兵隊に取られ、子を逃避行で亡くした女性達は、こうして中国人農夫の妻となり、当時の農村の女性らしく、たくさんの子をもうけた。こうした女性のことを中国残留婦人と言う。
中国残留婦人は大多数が農村部で生活していたのに対し、中国残留孤児は約半数が中都市(地区級市)以上の都市部で生活していた。これは、満州国崩壊時に農村部にいた乳児・幼児の多くは避難所に到達するまでの間に死亡したし、中・大都市にいた女性の多くは1946年以降に通航した引揚船で順次帰国できたという事情による。
国民党を台湾に追い出した中国共産党は内政の整備を急いだ。外国人登録が始まり、帰国を希望する日本人については1953年から順次帰国させることになった。しかし、多くの残留婦人は、命の恩人である夫や可愛い子に囲まれた、貧しいながらも安定した生活を捨ててまで直ちに日本に帰ることを躊躇した。このことが後に、この時点で成人していた者(すなわち敗戦時に13歳以上だった者)は自らの意思と責任において中国に残留したのだ、との解釈を生んだ。一方、残留孤児については中国人として扱われ、外国人登録の対象にすらならなかった。日本政府としても、主たる関心は中共に捕らわれている元兵士およびその遺骨の送還であり、中国人の妻や養子になった女性や児童には関心がなかった。
農民が国民の大半を占める中国にあって、中国残留孤児に占める都市住民の比率は高い。2002年以降に提起された孤児裁判の原告達を見ても、中国で農民だった者は4分の1だけで、一般の中国人と比べれば学歴も高い。こうした点においては、一般の中国人よりもずっと恵まれていたと言える。
だが、まさにこのことが孤児達を文化大革命で迫害されやすい位置へと追い込んだ。もとより、文化大革命による政治運動は都市部の職場で激しかった。しかも、中国籍を有しているとはいえ、実の両親は日本人である。だから、孤児の大部分が文革で叩かれたという事実はないにせよ、確かに孤児達は一般の中国人よりも文革で叩かれやすかった。特に、人の上に立つ意欲と能力がある人ほど叩かれた。一方、中国残留婦人の中には文革で被害を受けた者が少ない。そもそも、日本人と結婚する他なかった中国人男性には文字の読み書きにも不自由するような貧農が多く、そのような貧農は批判対象外だった。むしろ、この時期、外国から来た客人であるという理由で布や油を余分に配給してもらっていた残留婦人も多い。
厚生省は日中国交正常化後も「肉親が生活の面倒をきちんと見れないのなら永住帰国を手伝わない」という態度をとり続けた。このため、そもそも肉親が見つからない身元未判明孤児や、肉親から永住帰国を反対されている残留婦人は、それぞれ訪日調査や里帰りで日本に一時滞在することはできても、日本に永住することは困難だった。だが、厚生省も、孤児については1985年、婦人については1991年に、こうした無責任な態度を改めた。そのため、孤児については1987年、婦人については1995年が、日中国交正常化以降における永住帰国のピークとなり、それぞれ272世帯と308世帯が永住帰国を果たした。なお、孤児のうち身元未判明のまま永住帰国したものは永住帰国した孤児全体の約4割である。
ところで、中国残留婦人の係累は、以下の各点において、中国残留孤児の係累とも、その他の在日中国人とも異なる。
まず、残留婦人の子は識字率が相対的に低い。これは、貧農世帯で生まれ育ったからでもあるし、義務教育を受けるはずの年齢のときに文革で学校が正常に機能していなかったからでもある。ゆえに、子の中には職場に適応できない者が相対的に多いし、孫の中には学校に適応できない者が相対的に多い。
次に、残留婦人の係累は血縁と地縁に基づくコミュニティーを作る。これは、残留婦人が子沢山で孫沢山だからでもあるし、残留婦人の実に4割が黒龍江省方正県周辺で残留していたからでもある。以上を総合すれば、残留婦人の係累は、経済的・文化的には恵まれていないものの人間関係的には恵まれている、すなわち、貧しいけれども寂しくはない日常を送っている人々であると言える。
その点、1980年代の中国残留孤児は気の毒だった。孤児達は日本語が不自由なために祖国に帰ったことを十分に実感できなかったし、頼れる親族が近くにいた訳でもなかった。また、中国でそれなりの役職についていた者は社会的地位の相対的な低下を経験した。孤児とその配偶者は、「異国の地」で孤独感と劣等感に苛まれた。
さて、最後にもう一つ中国残留婦人が特異である点を挙げるとすれば、大勢の児童生徒を日本の小中学校に送り込んだことが挙げられる。残留婦人の場合「子が5人。孫が15人」という人がざらである。しかも、それらの孫の多くが1995年前後にちょうど義務教育年齢だったため、1人の残留婦人が2、3の子世帯を近所に呼び寄せるだけで、地元の小中学校はたちまちパニックに陥った。1990年代の後半、大量編入してくる残留婦人の孫達に大いに鍛えてもらった学校現場は多い。
本稿では、中国残留日本人の発生経緯と帰国経緯に言及しながら、また、中国残留孤児と婦人の違いに注意しながら、在日中国人の中に中国帰国者を位置づけるという作業を行った。何かの参考になれば幸いである。
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鍛治致(KAJI,Itaru),
「在日中国人のなかの中国帰国者――その歴史と特徴――」,
『移住労働者と連帯する全国ネットワーク情報誌:M-ネット』,
移住労働者と連帯する全国ネットワーク,
2008年7月,pp.12-13