年表 : 中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開

藤沼敏子
国立総合研究大学院大学 教育研究交流センター
研究生(非営利組織論)

1.はじめに

 本稿は、中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開について、年表を通して明らかにすることを試みたものである。(注1)
 中国帰国者問題の歴史や援護政策の展開については、その問題点が十分に共通認識されているとは言いがたい現状にある。中国帰国者問題は、ともすれば、日本語教育学における日本語習得に関する議論や心理学・精神医学における異文化適応の問題としてのみ取り上げられることが多く、それらの諸問題が構築されてきた歴史や、それらを支える社会基盤としての援護政策そのものの評価はもとより、その実態についてさえ、議論されることが僅少である。
 国交正常化以降、すでに中国から国費帰国した人数は、1万7673名にのぼる(注2)。私費帰国者・呼び寄せ家族も含めるならば、10万人は下らないと推定される(注3)。1994年の「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6)」が制定され、初めて「国等の責務」が明らかにされた。これまでの親族・身元引受人中心の援護政策から「援護の社会化」へという大きな転換を向かえることとなったわけである。しかし、現実は、このような法制度による基盤強化にもかかわらず、中国帰国者の福祉問題は依然として解決されていない。生活保護の漏給(注4:藤村正之,1997)や、生活保護そのものを高齢化した中国残留婦人・邦人・孤児(1世)の生活保障制度として位置付けている齟齬、それが新たなスティグマを生み出している矛盾、2世・3世の教育・生活問題など、解決されなければならない問題が山積している。
この年表が、中国帰国者問題研究の基礎資料として利用され、中国帰国者問題解決に向けて、多少なりともその一翼を担えるならば、幸いである。
本稿でいうところの中国帰国者とは、中国残留孤児、残留婦人、残留邦人、及び同伴・呼び寄せ家族(配偶者、2世・3世とその配偶者と子、養父母を含む)などで、日本に帰国(来日)した者の総称である。これをまとめれば以下のようになる。

  残留孤児(1945年8月9日の時点で13歳未満)
  残留婦人・邦人(1945年8月9日の時点で13歳以上)
  同伴・呼び寄せ家族(配偶者、2世・3世とその配偶者と子、養父母)

(注1)中国帰国者の福祉問題の所在を明らかにするために、中国帰国者問題の歴史や援護政策の展開について、日中関係史、厚生省の援護の歴史、その他の省庁の対応、ボランティア支援団体の活動(訪日帰国から定着自立、日本語教育支援まで)マスコミその他の動き等を時系列に沿って調べ、その年表を作成することは、この問題を歴史的文脈の中で捉え直すことであり、社会科学的研究として意味がある。さらに、ここに、公開することによって、関係諸氏よりご指摘を受け、修正され、書き加えられるならば、問題点を共有しあうだけではなく、新たな研究の視点も生まれてこよう。関係諸氏のご指導、ご教示を待つものである。(中国帰国者定着促進センターのホームページにて公開)
(注2)厚生省提供資料(1997年10月31日)による。
(注3)拙稿、修士論文(1998.3)における調査結果によると、中国残留婦人・邦人・孤児は、一人当たり、平均で11.6人を呼び寄せている。厚生省・外務省・入国管理局いずれも、私費帰国者・呼び寄せ家族の人数を正確に把握してはいない。
(注4) 『貧困・不平等と社会福祉』(有斐閣,1997)「1章 貧困・剥奪・不平等の論理構造」で、藤村正之は、「漏給」とは、最低生活基準以下であるにもかかわらず、生活保護を受給していない状態であるとし、その類型として、@本来受給する資格があるのに、制度を知らない。A他者から受けるスティグマを避けたいという社会意識から、受給しない。B要保護地域で、1世帯の受給を認めると多くの世帯に認めざるを得なくなる事態を避けたいという行政上の姿勢の問題(地域均衡論)などを指摘している。

中国帰国者に関しては、拙稿、修士論文「中国帰国者の福祉問題−生活史および生活問題分析を通して−」の量的調査結果や関係各機関への聞き取り調査結果でも明らかになったが、国費帰国・自費帰国を問わず、2世への生活保護支給制限が行われており、それは、地域均衡論とその性格を同じくするものであると言える。(自費帰国者にのみ、生活保護支給制限を行っている地域もある。)

2.年表のアブストラクト

世界史の流れの中で、日本の歴史と中国の歴史、日中関係史に大きく影響されながら、中国帰国者の福祉問題はその特徴と問題の質を変えてきた。1995年、1996年、1997年に、埼玉県岩槻市、秩父郡、長野県佐久市近在で行なったフォーマル・インタビュー及びインフォーマル(非構造化)・インタビューによって得られた知見および参考文献・資料から「中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」を、筆者の独自の判断で、以下の4期に区分し、各期における歴史的・社会的事実、援護政策の展開を記述する。

第1期:前史「国策としての満州移民の歴史」 1905(M38)〜1945(S20)年

日露戦争で日本は戦勝国となり、9月のポーツマス条約でロシアから中国東北部の旅順、大連など関東州の租借権を譲渡された。これに加えて長春と旅順間の南満州鉄道経営権を獲得した1905年を起点に据えた。満州事変を経て、傀儡政権である満州国が作られ、国防、食糧増産、五族協和、王道楽土を謳い、「無限の荒野に理想の村を建設する」という基本方針のもとに、国家体制が整えられていった。最初は、在郷軍人による武装移民であったが、1936(S11)年の「20カ年100万戸計画」より、本格的な大量移民政策が打ち出された。そして、1939(S14)年の「満州開拓政策基本要綱」が満州移民事業の根幹となり、国策として「満蒙開拓団」、「青少年義勇軍」、「大陸の花嫁」、「分村・分郷移民」などが推し進められた。
今日の中国帰国者問題を理解するうえで、満州移民がどのような歴史的背景において行われたかを正確に認識することは、満州移民に対するその後の国家の責任を考えていくうえで不可欠である。

第2期:「中国残留孤児・残留婦人等の形成期」 1945(S20)〜1949(S24)年

1945年6月の関東局調査によると、満州国の総人口は166万2千人であった。厚生省『引き揚げと援護30年の歩み』によると、終戦直後の死亡者は24万5千人、うち、日ソ戦闘時は6万人で、終戦後に18万5千人が死亡していると記されている。この数字は、終戦直後の混乱と惨状を如実に物語っている。中国国内のさまざまな事情で、このとき帰国できなかった孤児・婦人・邦人が多数存在した。今日の中国残留孤児・残留婦人等の形成期と見ることができる。多くの人が極限状況を経験した終戦直後からの国共内戦などによる混乱期から、1949年の中華人民共和国(以下中国)成立までを、「第2期: 中国残留孤児・残留婦人等の形成期」とした。

第3期:「日中国交断絶期(文革によるトラウマ形成期)」1949(S24)〜1972(S47)年

 日中政府間交渉ができないため、中国紅十字会と日本赤十字社等民間三団体により、集団引き揚げのための「北京協定」及び「天津協定」によって、帰国・一時帰国の道が開かれた。しかし、長崎国旗事件に対する中国政府の抗議に、岸信介首相は「中共」政府無視の発言をしたため、日中国交全面断絶が決定的となり、2年で打ち切られた。大飢餓をへて、文化大革命では、日本人であることにより、又は、日本人を妻にしたことにより、親に持ったことにより、多くの者が様々な形で迫害にあう。日本の親族とも、手紙のやり取りもできなくなる。
一方、国内では、1959(S34)年3月3日「未帰還者に関する特別措置法」が公布され、当時3万3千人にのぼるとされた戦時死亡確認がなされていない者に戦時死亡宣告がなされ、およそ1万3600余名の戸籍が抹消された。日本と連絡の取れなかった多くの残留婦人・残留孤児の戸籍も抹消された。
多くの残留婦人・残留孤児及び2世に、大躍進政策、大飢餓、文化大革命等の中国諸事情は、色濃く影響を残した。

第4期:「日中国交回復期(帰国と帰国後の生活)」1972(S47)〜

1972年の国交正常化以降、中国残留邦人の一時帰国、永住帰国がはじまった。中国帰国者に対する援護政策は、終戦直後の引き揚げに関するGHQ指令(講和条約後閣議決定)に基づく施策の延長として、その法的根拠を欠いたまま、「通知」や「通達」などの行政施策のみで対処されてきた。そのため、「肉親捜し」においても、「帰国」においても、多くの問題が存在した。1974年から、民間の手により肉親捜しが始められ、翌年から厚生省による調査も始まった。1981年からは、訪日調査が始まった。1984年の日中政府間口上書によって、はじめて、日本の親族の有無に拘わらず、日本への永住許可が可能になり(残留婦人については、先送り)残留孤児の帰国が実現できるようになった。また、身元の判明した残留孤児は、肉親が受け入れを拒否すると、帰国できなかったが、1989年から可能になった。残留婦人等は、1991年から可能になった。1993年の中国残留婦人「12人の強行帰国」は、世論の注目を集め、議員立法「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」(1994年)成立の契機となった。それまでの残留孤児・残留婦人にたいする援護政策は、基本的には「個人的な問題」として、本人ないし肉親が自分で解決、処理すべき問題で、それが出来ないときに初めて政府ができる範囲、必要な限度で援助するとの姿勢で扱われてきたが、初めて、「支援法」によって、「国等の責務」としてその責任の所在が明確にされた。

3.年表:中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開

歴史、政策史をまとめる上で、以下の文献・資料その他を参考にした。年表中の出典は、丸数字で示した。また、引用にあたっては、当然のことながら、筆者の政治的・社会的・文化的判断を避け、原典のまま記した。例えば、「中共」や「新京」、「」付きの「満州国」と「」のない満州国、満州と満洲等、そのまま、記した。
参考文献の選択も、中国人留学生の視点でまとめられたもの、事業報告書やそれに類するもの、「満州国」を肯定的あるいは否定的に捉えて書かれたもの、体験記に近いものなど、網羅的に集めた。頻度の少ない文献は、その都度記した。その他、新聞各紙縮刷版および朝日新聞CD-ROM(1985〜1996)、中国帰国者に関する国会記録、支援団体機関紙、(財)中国残留孤児援護基金・中国帰国者定着促進センター ニュースレターなどを参考にした。また、【朝日10/23】は、10月23日付朝日新聞を参照の意。表記の仕方で、(46/60: 76.7%)は、孤児の判明について、「60人中46人が判明。76.7%の判明率」の意である。(法236)は、「法令第236号」の意である。(援発又は社援第323号)は、「援護局長発又は社会援護局長発 各都道府県知事宛通知 第323号」の意である。(社援対662)は、「社会援護局中国残留孤児等対策室長発 第662号文書」の意である。(庶務第231号)は、「庶務課長発各都道府県民生主管部(局)長宛通知 第231号」の意である。(業一調484)は、「業務第一課 調査資料室発 第484号文書」の意である。年表中、月日の不明なもの、日にちの不明なものもあり、分かる範囲で記述した。

@『満州開拓史』(1966.満州開拓史刊行会)
A『引き揚げと援護30年の歩み』(1978.厚生省編集.ぎょうせい)
B『「満州国史」総論』(1970.満州国史編纂刊行会 )
C『祖国復帰へのあゆみ』(1990.中国帰国者問題研究会)
D『満州に送られた女たち−大陸の花嫁』(1992.陳野守正.梨の木舎)
E『祖国よ』(1995.小川津根子.岩波新書)
F『キメラ−満州国の肖像』(1993.山室信一.中公新書)
G『援護50年史』(1996.厚生省編集.ぎょうせい)
H『「満州国」社会事業史』(1996.沈 潔.ミネルヴァ書房)
I『満州国警察外史』(1996.幕内満雄.三一書房)
J『戦後中日関係史』(1997.林 代昭・渡邊英雄.柏書房)
K 厚生省提供資料
L「中国帰国者問題同友会」庵谷 磐氏提供資料、ヒヤリング。
M 中国残留婦人十数名よりヒヤリング(1920年代から30年代生まれ、1930年代後半から40年代初頭に渡満。黒竜江省、北安省、遼寧省より永住帰国。埼玉県在住)
N『満州女塾』(1996.杉山 春.新潮社)

 

1)第1期 前史:国策としての満州移民の歴史

1905(M38) 日露戦争で日本は戦勝国となり、9月のポーツマス条約でロシアから中国東北部の旅順、大連など関東州の租借権を譲渡され、加えて長春 と旅順間の南満州鉄道経営権を獲得。
1915(T4) 中国に対して二十一カ条を要求し、南満州、東部内モンゴルにおける日本の権益を獲得。
1917(T6) ロシア革命。
1919(T8)  
6月8日 ソ連が帝政時代の満州の特権を放棄。
1920(T9) 第一次世界大戦後恐慌はじまる。
1924(T13) 米国排日移民法の成立(北米・南米への移民が困難になる)。
1928(S3)  
6月4日 張作霖(東北三省の支配者)爆死事件。
11月 中国共産党満州省委成立、満州民衆に排日を呼びかける。I
1929(S4) 世界恐慌の影響が日本にも及ぶ。国内の失業者が増大し、農村の不況が深刻化。
1931(S6)  
9月 8日 満州事変。関東軍、柳条湖の満鉄線路を爆破、奉天占領。15年戦争の出発点となる。
1932(S7)  
3月 1日 「満州国建国宣言書」発表I。長春を首都「新京」と称する。関東軍は「移民方策案」、「日本人移民案要綱」、「屯田兵制移民案要綱」を作成(屯田兵による村を満州に入植させるという案)。拓務省はそれを受けて「満州移民案の大綱」、「第一・二・三回移民案」を閣議提出し、臨時議会通過。
満州農業移民正式募集開始
5月 2日 国際連盟リットン調査団一行、新京到着。B
10月 3日 第一次武装農業移民492名が神戸を出発(永豊鎮に入植。後に弥栄村)(注1)DN
1933(S8)  
3月 1日 満州国経済建設綱要宣布。B
3月27日
国際連盟より、軍を満州から撤退させるように勧告され、日本政府は国際連盟を脱退。
7月 5日 第二次武装農業移民455人原宿駅出発、満州へ。@
東宮鉄男大尉「新日本の少女よ大陸へ嫁げ」を作詞。D
1934(S9) 「昭和九年度満州自衛移民実施要綱」
3月 8日 土竜山事件。
9月 第一次武装農業移民団の「大陸の花嫁」30名ハルピン到着。@DN
1935(S10)  
5月 7日 拓務省、「満州農業移民根本方策に関する件」を決定。D
6月 第二次武装農業移民団の「大陸の花嫁」130名現地到着。D

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(注1)東北・北陸・関東の在郷軍人のみで、一般人の募集ではなかった。拓務省は、「武装」という言葉を避けて、「自衛移民」・「試験移民」と呼んだ。E

現地の99戸400人あまりの中国人農民は、一人5円の立ち退き料で追われた。N20p

1936(S11) 2・26事件で満州国移民事業反対者の高橋是清蔵相が暗殺される。
4月 日満両方が新京で第2回移民会議を開き、満州農業移民百万戸移住計画を策定。(注1)H
8月25日 「満州農業移民百万戸移住計画」が広田広毅内閣によって発表され、満州移民が国策となる。(注2)@BDEIN
1937(S12)  
7月 7日 盧溝橋事件。日中全面戦争に入る(農村の労働力不足深刻化)。
8月 2日 満蒙開拓青少年義勇軍(長野県)100名が東京を出発。(注3)
8月31日 満州移民の募集機関として「満州拓殖公社」が設立され、「満州移民第一期計画実施要綱」が発表される。
1938(S13)  
2月 満州国国家総動員法を公布H。

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(注1)満州国の人口は、20年間に五千万人増加するものと推定し、その約一割を占める五百万人(100万戸)を日本開拓民の入植によって確保しようとするものであった。@N
(注2)以後、終戦の年(1945年)まで、農業移民関係者数は、約27万人(一般開拓団24万2300人、義勇隊2万2800人、その他4900人)が渡満。【『図説 満州帝国』河出書房新社】
(注3)昭和13年度から開始、16歳(なかには13,4歳もいたという)から19歳の青少年を茨城県内原訓練所で約2か月訓練をして、満州現地の訓練所で3カ年の訓練を終えたものを開拓民として定着させる。約8万5千名を送出した。応召、軍需労務などのため開拓民の送出は、計画どうり遂行し難い状況に立ち至り、対ソ戦防衛のためにも、移民政策は中断できないので、一般開拓民の他に、満蒙開拓青少年義勇軍の送出が行われた。この苛酷な状況に少年たちを送り込むために、日本政府は精神性を付与し、「鍬の戦士」と讃えた。「満蒙開拓青少年義勇軍」は、満州国内では、中国人の感情を刺激するとの理由で、「満蒙開拓青少年義勇隊」と名乗っていた。妻を必要とするまでには、間があったが、昭和14年1月8日には、拓務省、農林省、文部省が協力して、「花嫁100万人」送出計画を発表した。@DN

4月 農林・拓務両省による「分村移民計画」が成立。(注1)
満蒙開拓青少年義勇軍(隊)の本格的募集が始まる。満州移民協会が「大陸の花嫁」2,400人を募集。拓務省が府県主催の女子拓殖講習会へ助成を開始D。
4月10日 青少年義勇軍5,000人、渡満開始D。
10月 赤十字社が、日本赤十字社満州部と併合し、満州国赤十字社となるH
宮城県女子開拓講習会と県知事夫妻を仲人とした満州移民合同結婚式を開催。D
10月 1日 大日本女子総合青年団指導幹部の開拓地視察団42名、東京出発。
@(注2)
1939(S14)  
1月 8日 拓務、農林、文部3省が、協力して「大陸の花嫁」100万人を大陸へ送出する計画を樹立@D
2月23日 衆議院で、大陸花嫁養成所を全国に設置すべしの建議案可決@D。
4月 3日 青年義勇隊寮母49名渡満@
9月 1日 独軍ポーランド進撃(第2次世界大戦勃発)。
満州最初の開拓女塾(大陸の花嫁養成のための塾)が開設される。(注3)
12月 日本・満州両国の閣議決定をへた「満州開拓政策基本要綱」が出される。(注4)@BDE

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(注1)海外移植民政策から農村経済更正対策の一環へ。
(注2)目的は、女性の大陸進出の足場を建設するため。団長:大妻こたか女子@
(注3)一塾概ね30〜50名を収容した。
(注4)以後満州移民事業の根幹となる。満州移民事業を「日満両国の一体的重要国策」と位置付ける。@BD

女性の送出については、基本要領の第17項目に「開拓地における人口構成の階調的進展を期するため汎く女性一般に対し積極的進出を鼓吹すべき有効適切なる施設を行うものとす。」として、学校や農民道場に女子訓練施設を設置して、長期・短期の訓練を行う一方、「満州国」では、内地日本人女性が現地生活を体験できる施設を作ることが決められた。N

1940(S15) 満州移民模範県として、勅令で山形、新潟、長野、広島、熊本に拓務課を設置。@
4月 満州国「国兵法」が公布され、募兵制から徴兵制に変わる。(注1)FH
5月12日 勤労奉仕隊の第1陣特設農場班 7,001名、羅津上陸@
5月20日 勤労奉仕隊特設農場班 1,017名、大連上陸@
7月 4日 満州建設女子青年団結団式を挙行@
7月10日 開拓女塾第1回生徒21名新潟を出港、満州へ@D
9月27日 日満帝国婦人会、満州開拓女子訓練所関西日満女塾の開設を決定DN
10月 満州国「軍事援護法」を発布。H
12月16日 開拓花嫁塾、明年度現地5カ所へ新設決定D
1941(S16)  
4月13日 日ソ中立条約調印
5月 2日 拓務省は、7か村に女子開拓訓練所設置を決定B。
7月 2日 「関東軍特別大演習」が発動され、兵力70万が満州に集中。
7月 5日 本年度義勇隊第1陣726名を新京に向かえる@。
10月 1日 68こ団 1万7千余名、開拓団結成式を行う@。
12月 満州国は、「国民隣保組織確立要綱」を制定H。
日本と満州国は、合同で戦時緊急方策要綱を公布H。
12月 8日 経済統制政策による都市の失業者・転職者を「大陸帰農移民」として送出。日本が米・英国に対し宣戦布告(太平洋戦争が始まる)。
12月31日 満州拓殖公社の「満州拓殖5カ年計画要綱」が閣議決定される。
女子の積極的進出を促進する啓蒙・宣伝・教育の徹底のため、女子の訓練施設の整備充実に力をそそぐD。

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(注1)1937年から、割当制による募兵制に着手していたが、この年から徴兵制採用に踏み切り、「国軍の中核をなす兵士の素養改善および人民の中核分子の錬成(国兵法事務局『国兵法要覧』1940年)」が目指されることになった。国兵法によって徴兵された中国人に対しては、建国理念の注入や治安維持軍として演習に重点が置かれ、兵営が満州国への忠誠心の刷り込み教育の場となった。F

1942(S17)  
1月 6日 開拓第2期5カ年計画発表(開拓民22万戸、義勇隊13万人)B
3月 1日 本年度最終の義勇隊、4百余名入満。累計12,460名@
3月31日 満州開拓第1期5カ年計画完了。@
11月 1日 大東亜省創設。「満州開拓女子拓殖事業対策」、「女子拓殖指導者提要」発表。(注1)DN
12月 8日 満州国基本国策大綱発表@B。
1943(S18)  
3月 第81回帝国議会貴族院請願委員会で「満蒙開拓女子義勇隊制度創設」に関する請願D。
満州建設勤労奉仕隊女子青年団一行250名が新京に到着D。
7月21日 北安省克山県立開拓女塾の入所生42名北安に着く。@N
7月24日 東宮女塾の開所式が三江省宮城村神社で挙行される。@
7月26日 満映会社、「開拓の花嫁」撮影のため、北安省埼玉村開拓団を訪問@
8月10日 大日本青少年団、大日本婦人会が協力して全国から慰問袋を20万個集め、青年義勇隊に送る運動を始めた。@
8月18日 開拓地奉仕の東京女子医学生一行38名は10日間にわたる奉仕を終え、新京着。@
8月18日 日本女子大学の開拓生活建設協力隊一行34名新京到着。@

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(注1)「女子拓殖指導者提要」では、以下のように明文化されている。N
一、開拓政策遂行の一翼として(イ)民族資源確保のため先ず開拓民の定着性を増強すること。(ロ)民族資源の量的確保と共に大和民族の純血を保持すること。(ハ)日本婦道を大陸に移植し満州新文化を創建すること。(ニ)民族協和の達成上女子の協力を必要とする部面の多いこと。
二、農村共同体における女性として(一)衣食住問題を解決し開拓地家庭文化を創造すること。
三、開拓農家における主婦として(一)開拓農民のよき助耕者であること。(二)開拓家庭のよき慰安者であること(三)第二世のよき保育者であること。

1944(S19)  
1月21日 日本内地で募集採用した医師、保健婦、助産婦、看護婦等三十数名、新京に到着。(注1)@
3月 1日 満州農地開拓公社が設立される。(勅令第27号満州農地開拓公社法による)H
1945(S20)  
2月 4日 ヤルタ会談(米英ソ)。対独戦後処理、ソ連の対日参戦などが決定される。I
3月10日 東京大空襲(注2)
3月25日 満州国は一切の施策を決戦に向け自戦体制へ転換の旨発表。I
4月 5日 ソ連が日ソ中立条約不延長を通告。
5月30日 大本営による満鮮方面対ソ作戦(常備)計画要領(満洲の4分の3を放棄)発令。@I
5月 8日 ドイツ降伏。
7月10日 在満在郷軍人根こそぎ動員(注3)。@DE
7月25日 医師、看護婦等二十二名、日本内地から新京に到着(注4)@
7月26日 ポツダム宣言(米英中)。
8月 6日 広島市に原子爆弾投下。
8月 8日 ソ連対日参戦通告。
8月 9日 ソ連軍が国境から進攻し、対日戦争を開始。@DE長崎市に原子爆弾投下。
8月10日 大本営命令(関東軍は朝鮮を保衛せよ。満洲は全土放棄も可)。@BI
8月14日 ポツダム宣言受諾。
8月15日 日本は無条件降伏する。天皇は戦争終結の詔書をラジオ放送する(注5

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(注1)講習の後、三月下旬に開拓団に配属@
(注2)国策で満州に送られたのは、開拓団ばかりではなく、3月10日の東京大空襲(10万近い死者と100万近い罹災者)の被災者たちもいたという。【『残留・病死・不明』1993.片岡稔恵.あすなろ社.12p.】
(注3)満州開拓移民に関しては召集免除であったが、18歳以上45歳以下の成人男子が根こそぎ動員により、関東軍に召集され(20万人)、国境近くの開拓団の家に残されたのは老人・女性・子どもであった。@BCDEF
(注4)終戦当時における開拓保健団の職員数は1,440名で、医師は740名。@
(注5)終戦時、旧満州に住んでいた日本人は、約155万人(外務省の調査)で、8月9日のソ連侵攻と敗戦の混乱で死亡した日本人は、全体で約17万6,000人、そのうち開拓団関係者は78,500人と全体の死亡者の半数を占めている。戦死または自決11,520人、不明11,000人(死亡処理とみられるもの、6,500人。生存見込み、4,500人)。@E

(その他の補足)
・武装移民団を関東軍では、「屯田兵移民」「在郷軍人屯墾部隊」と呼び、「対ソ作戦上、後方の憂いをなくすため」吉林掃匪軍司令の直轄部隊として、「一朝、事あるときは、関東軍司令官の指揮下」で軍事行動を行うことと決められていた。現役の軍隊と変わらない任務を帯びていた訳である。E

 

2)第2期:中国残留邦人の形成(トラウマ形成期)

1945(S20)  
8月16日 満州国崩壊。新京が昔の呼称にもどり「長春」となる。ソ連軍が中国東北部を占領(注1)
8月20日 満州国解散発表B。
8月30日 外地及び外国在留邦人引揚者応急措置要綱決定(次官会議)。A(財)満洲国関係帰国者援護会の設立が認可される。
9月 1日 中国東北地方日本人居留民救済総会が設立。
9月 7日 外征部隊及び居留民帰還輸送等に関する実施要領(閣議了解)。

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(注1)当初、日本人への略奪・婦女暴行が続出した【『満蒙終戦史』543p.1962.満蒙同胞援護会】【『撫順炭鉱 終戦の記』8p.庵谷 磐著.満鉄東京撫順会.1973.】。ソ連から、最初に満州に侵攻したのは「囚人部隊」であったと言われているLM。ヒヤリング協力者の大半の残留婦人は、丸坊主にして男装し、体中に炭を塗っていたという。日本軍は武装解除を受けるが、多くが捕虜となり、シベリアヘ送られ、老人、女、子供だけが、残った。@LM

9月 9日 支那派遣軍総司令部降伏調印式(南京)A
10月 1日 「戦争終結に伴う外地在留邦人引き揚げ民に対する援護に関する件」(厚生省健民発関係機関あて)A
10月 2日 GHQ覚書(AG370.05)「日本人の引揚に関する件」。
11月19日 (財)満州国関係帰国者援護会(後の「(財)満蒙同胞援護会」)の基金3億円が凍結され(GHQ命令)、業務停止(GHQ命令)となる。(注1
11月22日 社会局に引揚援護課新設A
12月15日 生活困窮者緊急生活援護要綱、閣議決定A(注2)
1946(S21)  
1月26日 引揚関係各省連絡室設置の件公布。(注3)A
3月15日 引揚援護事業のみ再開許可。「(財)満蒙同胞援護会」として再発足。
4月25日 定着地における海外引揚者援護要綱、次官会議決定(注4)
5月11日 国府軍と米軍間に在満日本人の送還協定成立(注5)
5月14日 在満日本人引き揚げ第1陣、コロ島引き揚げ開始。1,219人。A(注6)

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(注1)(財)満州国関係帰国者援護会は、1947年6月30日解散。(財)満蒙同胞援護会」が、事業を継承。その後、事務的処理を社団法人国際善隣協会にゆだね、(財)満蒙同胞援護会」は、53年解散。【『社団法人 国際善隣協会 五十年のあゆみ(非売品)42p.坂東勇太郎編.国際善隣協会発行.1992』より】
(注2)生活困窮の戦災者、引き揚げ者、留守家族、傷痍軍人、戦没遺家族等に対し、国費をもって緊急援護の措置が講じられた。A
(注3)業務の迅速密接な連携並びに統一ある調整を図るためA
(注4)引揚者相談所の設置(就職、住宅、施設の斡旋、生業資金の貸し付けなど)A
(注5)コロ島引き揚げに関するもの。A
(注6)日本人の技術者(含医者や看護婦など)は国民党あるいは共産党軍に徴用され余儀なく残留。L【『大連の日本人引揚の記録』石堂清倫.青木書店.1997.】【「ソ連軍政下大連の日本人社会改革と引揚の記録」木村英亮.『横浜国立大学人文紀要・第1類第42輯』1996.】

7月 国共内戦一時休戦。ソ連軍撤退。中国国内戦(国民党軍対共産党軍)。日本人孤児の救済のため、紅卍会「撫順孤児院」設立。(注1)
8月15日 満州中共地区邦人送還協定成立(注2)@J
8月21日 中共、満州に自治政府樹立発表
9月 9日 旧生活保護法公布
10月22日 引揚者等援護緊急対策実施に関する件(閣議決定)G
11月 3日 日本国憲法公布
1947(S22)  
5月15日 奉天より引揚第一列車が出発。(注3)
7月29日 参議院に海外同胞引き揚げに関する特別委員会設置A
11月23日 大連地区引揚第一船が入港。(注4)

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(注1)撫順炭鉱、各収容所から3、4歳から5歳の孤児300人余りを収容。避難民から保母、賄い方として十数名採用L。【『撫順炭鉱 終戦の記』庵谷 磐著.満鉄東京撫順会.1973.】
(注2)国府・中共・米国の間で、中共軍勢力下の満州に在留する日本人の送還についての協定A 日僑分布状況: 国民党統治地区に80万余、共産党解放区に約28万、ソ連大連地区に27万【人民日報1983年4月2日】。)
(注3)引揚人数: 昭和22年までに、満洲104万人、大連22万8000人、中国全土159万6000人。大連の第3期引揚(1949.9)では、積極的残留希望者も多くいたという。(中国人・朝鮮人と結婚したもの、新中国の建設に生き甲斐を感じているもの、いずれ日本に帰れることが確実になったので、もう少し中国から何かを得たいというもの等。)【『大連の日本人引揚の記録』石堂清倫.青木書店.1997.】
(注4)コロ島を出港する船の中には女性専用の相談室が設けられていたというN。『引揚援護│の記録(続・続々)』(昭和25・30・38年)では、検疫所内に特殊婦人相談所があったことへの言及がある。「上陸地患者状況調」の傷病名欄の妊娠の名目で診察を受けた者6,386名、内入院したもの2,157名。別の資料「引揚婦女子医療救護実施要領」に│よると、6つの上陸港の最寄りの国立病院及び診療所に第1次婦女子病院が設けられ、600床を越える受け入れ体制が整えられて「諸種の事情のため正規分娩不適切者には、極力妊娠中絶を実施すること。」とされていたN。しかし、当時は堕胎罪が存在していた。

1948(S23)  
5月 長春に立てこもる国民党軍とそれを包囲する八路軍との間に、「チャーズ」(経済封鎖・食糧封鎖)が設けられる。M(注1)
8月 3日 引揚同胞対策審議会(法律第212号)設置(注2)
10月 6日 引揚同胞対策審議会は、引揚援護更生強化方策要綱を決定。(注3)
10月 9日 引揚同胞対策審議会は、未引揚一般邦人調査に関する決議をする。A
11月24日 未帰還者対策要綱(閣議決定)A(注4)
1949(S24)  
6月27日 ソ連抑留者引き揚げ第1陣舞鶴港に入港。B
9月23日 中共地区からの引揚第1船、高砂丸、大連より舞鶴入港。A
10月 1日 中華人民共和国(以下中国)成立。
10月 3日 中共地区大連からの引揚最終船、山澄丸、舞鶴入港。A
10月31日 中共地区からの引揚促進に関する決議。A

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(注1)市内残留者の体験は、地獄絵さながらであったと言うM。十数万の市民が、食料もない中で、毎日何百何千人と餓死していったという。【『チャーズ−中国革命線をくぐり抜けた日本人少女−』(上下)遠藤 誉.文芸春秋.1990.】また、【『満州脱出』武田英克.中公新書.1985.72p.】では、長春で終戦の年から3年間で死んだ者は10万から20万人と記されている。
(注2)総理府内に厚生大臣を会長として、関係各省次官、引揚援護長次長をもって構成、引揚促進、遺家族、留守家族の援護、帰還者の更生対策、在外資産等に関する調査審議機関を設けた。1963.8.31失効A
(注3)応急援護の充実、帰還者輸送の改善、定着援護の強化等A
(注4)ソ連・中共残留邦人の引揚げ促進A

 

3)第3期:日中国交断絶期(文革によるトラウマ形成期)

1949(S24)  
5月 4日 生活保護法公布(旧法廃止)
10月 1日 中華人民共和国成立
10月 3日 中国からの集団引揚中断。
1950(S25)  
6月25日 朝鮮戦争始まる。
1951(S26)  
9月18日 講和条約に49カ国が調印(1952年4月28日より発効)中国代表は中華民国(台湾)。AJ
1952(S27)  
3月18日 海外邦人の引揚に関する件で閣議決定(注1)AG
4月28日 中華民国(台湾)と平和条約調印。
4月30日 戦傷病者戦没者遺族等援護法(法127)公布(注2)
12月 1日 中共政府は、残留日本人3万人の帰国援助を北京放送を通じて表明。(注3)GJ
12月23日 北京放送を通して、中共政府は、引き揚げ交渉3団体を指定(日赤、日中友好協会、日本平和連絡委員会)。A
1953(S28)  
2月 1日 引揚者に帰還手当支給開始。

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(注1)講和条約発効に伴うGHQ指令に代わる措置。
(注2)軍人軍属または、これらのものの遺族に対し、国家補償の精神に基づき、障害年金、遺族年金などの支給及び戦傷病者に対して、更生医療の給付等の援護を行うこととなった。A
(注3)放送内容は、「約3万人の日本人居留民については日本側が船の問題について解決すれば、帰国の援助は惜しまない」。中国人の反日感情が日本人居留民に向かわないような教育を実施。L

3月 5日 日赤等三団体が、中国紅十字会と北京協定を結ぶ。(注1)
3月16日 中国引揚孤児対策要綱実施。(注2)
8月 1日 未帰還者留守家族等援護法公布。
8月18日 国の援助等を必要とする帰国者に関する領事官の職務等(法令第236号)
1954(S29)  
4月 1日 引揚援護局が厚生省に設置され、これまでの引揚援護庁が廃止になる。A
9月27日 中共引揚第8次船、興安丸、舞鶴入港。A
11月 3日 訪日代表団と日赤等3団体との間で、邦人帰国問題に関する懇談覚書(注3)AGJ
11月30日 中共引揚第9次船、興安丸、舞鶴入港。A
1955(S30)  
2月24日 中共引揚第10次船、興安丸、舞鶴入港。A
2月29日 中共引揚第11次船、興安丸、舞鶴入港。A
5月17日 引揚同胞対策審議会、未帰還者引揚げ促進に関する決議採択国会、引揚げ促進に関する決議採択A
7月31日 NHK「尋ね人」放送開始後10年(注4)
12月18日 中共引揚第12次船、興安丸、舞鶴入港。A

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(注1)集団引揚が再開する。第一船が3月23日に舞鶴に到着。第二次日本人引揚げが始まる。残留していた技術者および家族など日本人の大半が引揚げた。Lしかし、中国人との間にできた子供は連れて帰ることはできなかった。M
(注2)舞鶴引揚援護局において、その氏名、性別、年齢、本籍、縁故者の住所・氏名その他参考事項を調査し、リストを作成し、その写しの1部を児童局へ提出して調査A
(注3)日本赤十字社など3団体と中国紅十字会との協力により中国残留婦人の里帰りが実現し、昭和33年までに590人が一時帰国した。A
(注4)3,000回以上、82,738件、その内相手に巡り合ったもの22,599件A

1956(S31)  
6月 9日 瀋陽で中共抑留者の軍事裁判開始B
6月28日 日赤等3団体と中国紅十字会との間で、いわゆる「天津協定」が結ばれる。(注1)ADEGJ
7月 3日 中共引揚第13次船、興安丸、舞鶴入港。A
8月 1日 中共引揚第14次船、興安丸、舞鶴入港。A
9月 5日 中共引揚第15次船、興安丸、舞鶴入港。A
9月21日 「特別帰還手当の支給について」(援発101号)A
1957(S32)  
5月17日 引揚者給付金等支給法公布(法109)。(注2)
6月25日 中共引揚第16次船、興安丸、舞鶴入港。A
10月20日 中国紅十字会訪日代表団来日、中国残留日本人調査人名簿、遺骨名簿発表A
1958(S33)  
3月 4日 永久帰国者400名以上、遺骨2,000柱以上を送還する旨、中国紅十字会会長李徳全女史より北京訪問中の勝間田清一氏に意向発表A
4月24日 中共引揚第17次船、白山丸、舞鶴入港。A
5月 2日 長崎国旗事件(注3)に対する中国政府の抗議に、岸信介首相は台湾政府との友好を主張し、「中共」政府無視の発言をする。これを受け、中国紅十字会は「岸政府が中国人民を敵視することを継続するので、本会は里帰り日本人に対する援助をしばらく中止する」と通告)。

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(注1)正式国交のない中で、夫や子供たちのために引き揚げることができない女性たちに一時帰国の道が開かれた。戦犯335名、中国人と結婚した残留婦人、居留民、その他の帰国または里帰りが実現するが、2年後打ち切られる。A
(注2)外地に生活の本拠を有していた引揚者に対し、その社会復帰に資するため引揚者給付金等(10年償還国債、額は年齢別)が支給されることとなった。
(注3)日中友好協会主催の中国切手展の会場で、一人の青年によって中国国旗が引きずり下ろされた事件

5月 7日 中共引揚第18次船、白山丸、舞鶴入港。A
5月10日 日中国交全面断絶。
5月27日 中共引揚第19次船、白山丸、舞鶴入港。A
5月 中国で大躍進運動が始まり、大飢饉にみまわれる。(58〜63年)(注1)
6月21日 中共引揚第20次船、白山丸、舞鶴入港。A
7月13日 中共引揚第21次船、白山丸、舞鶴入港。A
1959(S34)  
3月 3日 未帰還者に関する特別措置法公布(注2)
1961(S36)  
6月 1日 引揚援護局を援護局と改称。
9月 6日 日赤、中国紅十字会に、帰国希望日本人の出国許可など個別引き揚げの援助等申し入れ。A
1962(S37  
5月17日 「中共地域引揚者に対する出境地までの帰国旅費の支給について」(援発406)
10月27日 「自己の意志により帰還しないと認定された者に対する引揚援護の取り扱いについて」(庶務605号)
1964(S39  
4月 7日 戦犯として中共に抑留の最終釈放者帰国B

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(注1)大飢饉時、1958から1961年の間に、餓死者2千万人を出したと言われている。
(『満州女塾』283p.では、餓死者1,500万人と記述されている。)中国政府は自然災害(´60〜´63)に人的災害(ソ連の援助がなかったこと)が、加わったためとしているが、被害状況など正式には公表されていない。残留婦人のヒヤリングでは、樹木の皮や野草を食べた経験のある人もいるM。市井の生活を描いたものとして、小説ではあるが、ノンフィクション性を強調した『ワイルド・スワン』(チアン・ユン、講談社、1993)には、大躍進運動の重工業化政策に重点を置き過ぎたことにより、農業生産性が落ちたことが、その原因として捉えられている。『満州女塾』では、農業政策の失敗、異常気象、急激な工業化政策が上げられている。
(注2)戦時死亡宣告により、1万3600余名分の戸籍が抹消される。

1965(S40)  
10月 5日 「新規引揚者の定着援護について」(援発1049号)
10月 6日 日中友好協会第11次訪中団、北京において紅十字会から、「中共地域残留者等の消息名簿」受領。(登載人員67名、うち、死亡8名)A
10月 6日 「引揚者住宅の譲渡について」(援発1210号)
1966(S41)  
8月 8日 中国プロレタリア文化大革命に関する決定(拡大中央委員会)。(注1)
1967(S42)  
8月 1日 引揚者等に対する特別交付金の支給に関する法律(法114)公布。

 

4)第4期:日中国交回復期(帰国と帰国後の生活)

1972(S47)  
9月 江戸川区葛西小に日本語学級が設置されるC
9月25日 田中総理大臣一行、中華人民共和国訪問【新聞各紙】
9月29日 日中共同声明(国交正常化)。台湾対日国交断交を宣言【新聞各紙】(注2)
1973(S48)  
3月28日 「中国からの引揚者に対する出境地までの帰国旅費の支給について」(援発第323号)。
4月 1日 引揚者に対する帰還手当の支給額改定(大人2万円、子供1万円)。G
5月 2日 「中国からの個別引き揚げ手続きなどについて」(庶務第231号)。
6月 日中友好手をつなぐ会が発足C
中国帰国者三互会が発足C
8月 8日 「中国から一時帰国する邦人の国籍証明書について」(庶務第443号)。

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(注1)以後、手紙のやり取りもできなくなる。
(注2)この時点で厚生省が把握していた中国地域未帰還者数は、2,963人であった。

10月 6日 「中国からの引揚手続きについて」(庶務第533号)(注1)
10月16日 「中国からの引揚者に対する帰国旅費の国庫負担について」(援発第1052号)(注2)
10月31日 「中国からの一時帰国者に対する援護について」(援発第1130号)(注3)
12月21日 中国からの一時帰国者(井筒アイさん)初の国庫援助帰国(徳山上陸)A
1974(S49)  
4月 1日 引揚者に対する帰還手当の支給額改正(大人3万、子供1万5千円)A G
5月22日 「未帰還者などの調査等に関する協力方について」(注4)
6月 3日 全日空特別機で中国から70人里帰り(注5)
8月15日 「生き別れた者の記録」第1回、新聞報道【朝日443p】(注6)
9月 1日 世田谷区新星中に日本語学級設置(注7)

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(注1)10月10日以降、中国からの帰国者にたいし「帰(入)国に関する証明」の発給を取りやめ、大使館において「帰国のための渡航書」及び「査証」を発給すること)G
(注2)昭和27年2月「個別引揚者の船賃について」及び昭和48年3月「中国からの引揚者に対する出境地までの帰国旅費の支給について」の通知は廃止。
(注3)内容: 終戦前から中国に居住する日本人で終戦後初めて墓参り・親族訪問等の目的をもって本邦に一時帰国を希望するものに対し、往復の旅費は国が全額支給する。
(注4)援護局長から外務省アジア局長へ。A
(注5)一時帰国者40人、その他30人G
(注6)「手をつなぐ会に寄せられた肉親捜しの依頼などの手紙、写真などを朝日新聞が取り上げると、大きな反響が寄せられた。民間の手による本格的な肉親捜しが、始まる。」
(注7)中国引揚者の急増で日本語学級生徒数が100名を越える。C

9月29日 中国と東京を結ぶ定期航空路開設。
11月28日 「中国からの一時帰国者が永住帰国に意志を変更した場合の取り扱いについて」(援発第1737号)
1975(S50  
3月12日 厚生省、終戦時中国に残留された日本人孤児の身元調査のため、第1回の肉親捜しの公開調査を始める。【朝日398p】(注1)
4月 1日 引揚者に対する帰還手当の支給額改正(大人4万円、子供2万円)G
6月17日 中国残留孤児の肉親捜し、さらに6件身元わかる。【朝日6/17】
9月17日 中国残留孤児の第1号帰国者 荒井さん、30年ぶり肉親と再開【朝日9/17】
10月10日 中国から日本へ永住帰国ないし里帰りした日本人関係者は、9月末現在で、約1,000家族、約2,200人(北京大使館発表)[読売10/10](注2)
11月22日 中国帰国者の入国に関しては、原則として外国人として取り扱う(法務省入管局登録課長発第9669号)。
1976(S51  
2月 孤児問題連合会が発足(旧孤児連)C
2月 9日 「引揚者に対する就職の援護について」(庶務第44号)
4月 1日 引揚者に対する帰還手当の支給額改正(大人5万円、子供2万5千円) G
4月 5日 いわゆる第1の「天安門事件」(周恩来追悼花輪撤去をきっかけに)
9月 9日 毛沢東死去(10月7日、4人組逮捕)。
12月 日中協会日本語教室(夜間)開設C
1977(S52 凍土の会が発足C
3月 4日 田川誠一議員が衆議院予算委員会質疑で、中国残留孤児問題を取り上げる(第1回)。【日中協会会報.第8号1977.5.15日号】
8月12日 文化大革命終結宣言(11全大会)

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(注1)新聞各紙が協力し、81年1月13日まで、9回行われる。第4回以降は、民間と合同発表。GL
(注2)この時、一時帰国したものの永住帰国を希望しなかった残留邦人に対して、日本政府は、中国に止まることを選んだとして、1979年まで援護の対象外とした。

1978(S53)  
2月13日 身元未判明孤児に就籍許可。(小島文子事件、長野家裁飯田支部、52(家)740号)行政と司法の違いが話題を呼ぶ。【朝日2/9,読売2/13,信州日報2/13】(注1)
4月 東京都の夜間中学4校の日本語学級生徒数増加。(注2)
5月 残留孤児問題議員懇談会が発足C。
6月 紅卍会が日本語学級を開設C。
10月 6日 「未帰還者等に関する調査及び処理実施要領について」(援発第88号)
12月20日 中国残留孤児の資料公開(厚生省)【朝日12/20】
1979(S52  
4月 1日 中国帰国者上陸時オリエンテーションを実施するようになる。
6月 5日
「中国からの再帰国者に対する帰国旅費の国庫負担について」(庶務第151号)(注3)
1980(S55)  
10月22日
衆議院外務委員会において、田川誠一議員が孤児問題について質問(第二回)したところ、伊東外相が誠意をもって対処答弁する【国会記録・朝日10/23】残留孤児訪日調査開始。
11月 5日
中国残留孤児問題について関係各省庁による第1回連絡会議開催
1981(S56)  
3月 2日 第1次訪日調査(30/47: 63.8%)
4月15日 中国帰国者、荒川区で「隣人殺人事件」【新聞各紙4/16】
9月 厚生省が「里親制度」のための予算を要求(手当月額1万円)。
9月 9日 全国社会福祉協議会、定住化対策委員会「中国帰国者定住化促進の課題と対策」提言
12月24 中国の養父母に養育費を払うよう中国の裁判で判決。【朝日12/24】

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(注1)77年の2月に大阪入管より国外退去命令を受け、78年1月強制送還通告(期限は2月17日)され、争った。山本敬三『国籍 戦乱の果てに』184p.
(注2)1978年(121人)→1979年(204人)→1980年(267人)C
(注3)一時帰国後の永住帰国希望者に対する旅費援護の開始)G

1982(S57)  
2月18日 第2次訪日調査(46/60: 76.7%)(注1)
3月 大阪府社会福祉協議会および定住化対策委員会が発足C。
3月 中国残留孤児の里親になる会が発足。(注2)
3月 2日 肉親不明で日本永住を希望する残留孤児の国籍取得を容易にし帰化承認されるようになる。【朝日3/2】
3月26日 「中国残留孤児日本人孤児問題懇談会」発足。(注3)
4月 厚生省が「里親制度」事業において、57、58年度の2年間で孤児48人を帰国させる計画を立てる(実現せず)。
中国帰国者の会が発足。
5月24日 東京都社会福祉協議会 中国帰国者「生活相談コーナー」開設【朝日5/23】
6月 全国社会福祉協議会の定住対策委員会が厚生省に「短期指導センター」等を設置することを要請。C
大臣諮問機関である中国残留日本人孤児問題懇談会(孤児懇)が身元引受人制度を提言。
日常生活に即した日本語の学習書(カセットテープ付)の配布が始まる。
日本語教育指導者研修会の開催(東西地区に分けて毎年。各1回開催)。
雇用対策法による職業転換給付金制度(訓練手当等支給)を中国残留邦人等永住帰国者に適用することを労働省が決定する。(労働省業指発第24号)
8月26日 中国残留孤児日本人孤児問題懇談会」が第1次報告として、「早期解決方策」を提出。(注4)

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(注1)このあと、養父母扶養の問題や新たな家族との離別が問題化。新しい悲劇として解決の必要ありと、中国側訪日調査をストップ。
(注2)第2回訪日調査孤児を激励する。
(注3)円城寺次郎座長、孤児の養父母、妻子らの扶養問題等で提案。
(注4)肉親捜しの計画的推進、養父母の扶養、帰国後の定着化対策等。G

10月29日 孤児の養父母への補償問題で、日中協議もの別れ【朝日10/29】
11月29日 中国残留孤児問題全国協議会(孤児全協)が結成され、ボランティア団体の一本化が試みられる【朝日11/30】。
12月16日 大阪で、国の施策待てずと、民間定着センター建設の募金開始。【毎日12/16】
12月 中国残留孤児問題全国協議会が「早期解決の要望書(感謝金の構想をまとめる)」を政府に提出。C
1983(S58)  
1月18日 養父母扶養費問題が解決し(注1)、訪日肉親探しが再開される。(日中事務レベル交渉妥結)。【朝日1/19】
2月 8日 中国残留孤児の肉親捜しを再開【朝日2/8】
2月25日 第3次訪日調査(25/45: 55.6%)。
3月31日 厚生省が「孤児名簿」を配布。
3月 第3次訪日調査の際、30人が里親となることを申し出る。
4月 1日 (財)中国残留孤児援護基金が設立される
4月 8日 「中国残留孤児の養父母等の扶養に関する援助等について」閣議了解(注2)
5月29日 中国光明日報が、日本の中国帰国者受入れ体制の不備批判。(注3)
7月 東京都福祉局が、被保護引き揚げ世帯を調査(346世帯1215人。うち102世帯が江東区)C

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(注1)第一次訪日調査残留孤児の養父母の扶養問題で日中合意(国費と民間の寄付で扶養費を支払うことが決まる)。
(注2)中国残留孤児援護基金が行う。養父母等扶養に対して援助すること。定着促進事業に対し、関係行政機関が協力すること。残留孤児問題唯一の閣議了解だが、「インドシナ難民」の閣議了解に比し、政府姿勢の低さが目立った。
(注3)日本は中国帰国者には「幻滅の天国」であると報じ、受入れ体制の不備について触れる【光明日報5/29、日本各紙5/30】。

12月 第4次訪日調査(38/60: 63.8%)
中国残留孤児の中国帰国者定着促進センターヘの入所が始まる。
孤児全協が血液鑑定と未判明孤児の受け入れについて厚生省に要望書を提出C。
1984(S59) 中国帰国孤児定着促進センター(現中国帰国者定着促進センター)が開所する(援発82)。(注1)
2月 1日 国籍取得を支援する会が発足C。
2月 第5次訪日調査(27/50: 54.0%)
2月25日 日中政府間で「残留孤児引取りに関する口上書」が交換される(注2)
3月17日 日弁連が中国残留邦人に関する人権侵害を決議。国会・政府へ要望。
3月20日 「国籍、早期帰還、帰国者に対する特別立法を含む諸措置」【新聞各紙10/7】。
3月22日 第6次訪日調査(40/90: 44.4%)訪日調査再開。
3月 日本語教師用指導書の作成(文化庁)、中国残留邦人等永住帰国者を雇い入れる事業主に対し、特定求職者雇用開発助成金を支給する(労働省)等が決定。
10月 1日 「中国帰国孤児の生活実態調査の実施」(対象世帯数、187)
10月19日 日本弁護士連合会、早期帰還実現と帰国後の諸施策の改善を要望する決議を採択【新聞各紙】
11月 6日 (財)「中国残留孤児援護基金」、中国帰国孤児の中国人養父母を日本へ招待。以後毎年実施 (注3)

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(注1)孤児と家族に4カ月間、日本語学習と生活指導。
(注2)在日親族の有無に拘わらず、身元が分からない孤児など、身元引き受け人の斡旋を受けて、日本への永住帰国が可能になるが、残留婦人に関しては先送りされた。実に、終戦後38年、国交回復後11年ぶりである。養父母の扶養問題や帰国者の取扱い等の問題に対する方針がほぼ固まり、訪日調査再開の目途がつく。
(注3)養父母招待事業の目的に、「中国残留孤児の自立を促す」とあり、自立をしていることが前提で、生活保護を受給している残留孤児には、適用されない。

(財)中国残留孤児援護基金よりヒヤリング。(1997.5.)

1985(S60)  
1月 1日 改正国籍法、戸籍法施行。【新聞各紙1/1】
1月12日 第7次訪日調査(39/90: 43.3%)。
2月 9日 日中国交回復後、9,000千人が永住帰国【朝日2/9】
3月11日 帰国旅費国庫負担(援発208)。
3月29日 厚生省、「身元未判明の中国残留日本人孤児の帰国受け入れ制度」を創設。G
3月11日 厚生省、本邦に永住帰国する身元未判明の中国残留日本人孤児に対する「身元引受人制度」を創設。G
4月 1日 厚生省に「中国帰国孤児定着促進対策室」が新設される【朝日4/2】
孤児全協が「一次、二次の定着センターの設置等」について厚生大臣に要望書を提出C
4月15日 「中国残留日本人孤児問題懇談会」再開。(注1)
5月 9日 自費帰国者に対する引揚証明書交付・帰還手当支給(業一調644)。
5月17日 厚生省、肉親捜しのため訪中調査(第1回)【読売5/21】。
5月27日 孤児人数2,000人超す。訪日計画の手直し必至(中国側調査で分かる)。【朝日5/28】
身元未判明孤児の身元引受人の斡旋開始。
日本語教育指導の手引の作成。
6月 孤児問題全国協議会より孤児連絡会が脱会C。
7月 8日 肉親捜しの公開調査実施。(注2)

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(注1)帰国後の定着自立促進対策を討議。
(注2)訪中調査対象孤児179人について、報道機関の協力のもとに、新聞・テレビ等により、広く一般に呼びかける。
(その他)第6次訪日調査団瀋陽班は、帰国後、公開書簡で、@永住帰国の前提条件として、戸籍・国籍の回復を規定していることが、孤児にとっていかに酷な要求であるか、同様に、A永住帰国の条件として保証人を必要としていることが、実質的に永住帰国を拒絶するに等しい効果になっていると指摘。【『終わりなき旅』井出孫六.279p.1991.岩波書店】

7月22日 残留孤児問題懇談会で、第2次提言報告(今後の施策の在り方)(注1)
 7月 東京都福祉局、第2回被保護引き揚げ世帯調査(422世帯1460人。うち二世127世帯)C。特別区区長会、政府、東京都へ「引揚者への施策の充実」のための要望書提出C
8月15日 日本軍の大虐殺記念館、南京に開館。【『教科書に書かれなかった戦争Part21』北崎加代.梨の木社.1997】
9月 3日 第8次訪日調査(41/135: 30.4%)。
11月 1日 法人身元引受人制度が制定される。(援発621号、業一調発1484)。
11月 4日 身元未判明孤児帰国第一陣の一家族、10日余で山村の身元引受人のもとを抜け出し、問題をなげかける【新聞各紙】。
都知事が政府に「孤児定着自立促進事業への助成」の要望書を提出。
11月 9日 永住帰国を希望する中国残留孤児のための訪中説明を吉林省長春市で実施。(中国残留孤児援護基金主催)
11月11日 身元引受人制度適用第一号(岡本貞助が岡本恵子こと李桂芹の身元引受人となる)。
11月19日 第9次訪日調査(33/135: 24.4%)。
11月26日 社会福祉法人漆明会、法人として初めて中国残留孤児の身元引受人名乗り。(注2)
「帰国を希望する中国残留孤児国会友の会」が発足(注3)
 12月 厚生省が身元引受人懇談会を開催。

 

(注1)第l次報告「早期解決方策」1982年8月26日。肉親捜しの早期完了と定着自立促進対策の総合的推進。孤児全協孤児懇座長が、要望書を援護局長に提出。その内容の中心は、「身元引受人については、精神的拠り処、相談相手に止どめると共に、総合的受け入体制の中の身元引受人とし、個人的責任を負わせることの無いようにすること。」とあった。
(注2)身元引受人とは永住帰国する身元未判明孤児の身元を引き受けて相談相手となる人のことである(S60年3月29日援発205及び制度実施要領)。
(注3)衆参議員200余名で構成。活動方針は身元引受人となる等。しかし、実際の引受人の名乗りは1名のみで消滅。

1986(S61)  
1月16日 瀋陽日本総領事館開設。
2月 1日 中国帰国孤児の生活実態調査を実施(対象世帯数260)
2月16日 在中国日中混血児2,000人、就籍希望相次ぐ。(注1)
2月26日 第10次訪日調査(37/130: 28.5%)。
4月 最高裁判所が中国帰国者定着促進センターにおける就籍手続を指導。中国帰国者地域交流事業、外国人子女等教育指導協力者派遣(平成8年度41地域)日本語指導研究協議会の開催(東西地区に分けて毎年各1回開催)。労働省が中国帰国者定着促進センターにおける就職相談・指導を開始する。
4月 2日 厚生省、中国残留孤児の肉親調査にコンピューター・システム導入。
4月 東京都、高校入試で引き揚げ子女特別選考を実施。
東京都、都立高校に帰国子女特別学級設置。
5月 9日 中国帰国孤児の養父母等に対する扶養問題で、日中両国政府間で口上書交換。(注2)【新聞各紙】
6月 1日 第11次訪日調査(78/200: 39.0%)。
7月16日 中部管区行政監察局が愛知県の帰国孤児援護体制の問題点を指摘
(孤児問題が初の行政監察を受ける【朝日7/16】
8月14日 中国山西省に、残留日本人(旧軍人、女性)100〜 200人暮らしていることが明かにされた。【毎日8/14】

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(注1)【毎日新聞2月17日】では、「大半再会拒否」と記載。
(注2)帰国孤児一人につき、被扶養者一人と算定し、月額60元を、15年分一括支払い。(財)中国残留孤児援護基金より、中国紅十字会へ送金する。扶養意識についての日中間の微妙なずれが、この問題の背景には、あるように思われる。中国では、「子女は父母に対し扶養の義務を負う(婚姻法第15条)」、「老人に対して扶養の義務を負いながら、扶養を拒否し、情状の悪質な者は5年以下の有期懲役、拘留または管制(投獄せずに監督、改造をおこなうこと。)に処する。(刑法第183条)」日本に帰国後、中国の裁判で、実際に、有罪になった残留孤児の例もある。

9月 3日 第l2次訪日調査(63/200: 32%)。
10月14日 第13次訪日調査(32/100: 32%)。
10月22日
衆・法務委員会厚生省答弁において、残留婦人の人数が初めて明らかにされる(注1)。
11月11日
民営委託第一陣である大阪二次センターが開所(注2)
三互会が孤児問題全国協議会を脱会C
12月15日
中国帰国孤児定着促進センターが拡充し、年間180家族を受け入れるようになる。
12月 第14次訪日調査(14/42: 33.3%)。
1987(S62)  
1月16日
16都道府県中国帰国者対策協議会が発足C。
1月 孤児全協身元引受人アンケート結果発表。
2月23日 第l5次訪日調査(28/104: 26.9%)。(注3)
3月 2日
厚生大臣が、個人に代わって、「戦時死亡宣告取消」を申し立て、東京家裁が許可するようになる【毎日3/3】。
3月31日 厚生省が孤児白書を発表(『これまでの足跡とこれからの道のり』)。
4月 1日 総務庁行政監察局が中国帰国者定着対策の監察を決定。(注4)

 

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(注1)一時帰国約2700名、永住帰国約1000名、在中国約3500名。
(注2)日中友好手をつなぐ会の大阪支部が中心。来年度は全国5箇所に二次センターを開設することを予定【毎日9/ 19】。
(注3)厚生省より『肉親捜し、「概了」』したと発表される。この時点でまだ多数の身元未判明孤児が中国にいることが分かっており、その後も「補充調査」と名前を変えて、訪日調査は現在(1998年)も行われている。終戦当時、13歳以下であった者を残留孤児として、調査対象にしていた訳であるが、年令制限が撤廃され、当時13才以上であった「残留婦人」も対象になり、訪日調査に加わるようになる。【毎日・朝日2/ 24】
(注4)実地調査は、第4四半期に予定されていた。改善を強く望む中国帰国者支援団体や中国帰国者等から期待されていたが、後に取りやめとなり、他に予算は転用された。【新聞各紙】

4月 文部省、引き揚げ子女教育の手引き配布。C
4月 7日 一時帰国者(旅費申請手続き簡略化)・再一時帰国者(旅費支給)援護(援発213)。(注1)
4月13日 厚生省、肉親捜し協力に「感謝状」(ボランティア、報道関係等68団体、個人68人)。G
4月23日 第1回厚生省実務家会合(月1回を予定)。
4月29日 厚生大臣訪中訪日調査協力に謝意。
6月 1日 福島中国帰国孤児定着促進センター開所
北海道中国帰国孤児定着促進センター開所
7月 6日 福島中国帰国孤児定着促進センター開所
7月 6日 16都道府県の中国帰国者対策協議会が各関係大臣へ「定着自立の基本措置、都道府県への援護施策経費の確保など」についての要望書を提出。
7月24日 身元未判明孤児肉親調査委員会(キャラバン隊、第1回)【日経8/ 25】
9月 中国帰国孤児定着促進センターで、修了式中止事件(東京への定住を望む孤児の抗議行動)C
9月21日 フィリピンにも忘れられた残留孤児【朝日9/ 21】。
10月29日 「残留孤児の国籍取得を支援する会」が、就籍支援システムを確立し、発表する。(注2)
11月19日 「中国帰国孤児、法務省人権擁護局・日弁連宛、人権救済申立」【毎日他各紙11/ 20】。
11月 第16次訪日調査(第1回補充調査)(10/50: 20%)。
国立大学協会、中国引き揚げ子女への入試特別選考実施を発表
12月 16都道府県中国帰国者対策協議会、政府・政党へ要望書提出(注3)

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(注1)国費による再度の一時帰国が、10年に1回認められるようになる。
(注2)於司法記者クラブ。日本国籍を抹消されたり、日本国籍のない残留婦人、残留孤児が、日本国籍を取得するシステムが発表された。
(注3)内容は、(1)自立センター(2)自費帰国者対策(3)地方自治体への助成。C

*その他の出来事

・5カ所に自立研修センター(二次センター)が設けられる。
・労働省が雇用促進事業団の身元保証制度を中国残留邦人等永住帰国者に対して適用することを決定する。
・東京都福祉局、第3回被保護引き揚げ世帯調査(563世帯1887人。うち二世世帯は210戸7384人。江戸川区が103世帯と全体の18.3%を占める)C
・特別区区長会が、政府、東京都へ「引揚者への施策の充実」のための要望書提出C。
・日中友好手をつなぐ会が孤児問題全国協議会を脱会C。

1988(S63) フィリピン残留孤児、混血二世について厚生省が本格調査をはじめる
2月23日 【毎日2/ 23】。
2月27日 第l7次訪日調査(第2回補充調査)、再調査5人が含まれる。(13/50: 26%、再調査4/5)。
3月 (財)中国残留孤児援護基金、進学のための日本語教育資金援助開始
3月 8日 自立研修センター(第2次センター)、15カ所が決定(注1)
3月 9日 フィリピン残留孤児の人数は約1万人【毎日3/ 9】。
3月 身元引受人登録891名【衆・予算委】。
4月 「凍土の会」が孤児問題全国協議会を脱会。
孤児問題全国協議会は事実上ボランティア組織としては消滅C
6月 第l8次訪日調査(第3回補充調査)が始まる(12/35: 34.3%)。
8月21日 日弁連は、中国帰国孤児の人権救済を法務省人権擁護局に対して申し立てるが「門前払い」となる【読売9/ 22、朝日10/ 27、28(解説)】。

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(注1)その方針は、「適度の集中と適度の分散」とされ、都市への集中や、特定の自治体への集中をかわすことが、意図された。自治体による受け入れ体制の差異は、口コミによって帰国者の間に「○○天国、△△地獄」というように広まり、ある都市への集中を生んでいた。全国の15カ所とは、山形、埼玉、千葉、東京、神奈川、長野、愛知、大阪、京都、兵庫、広島、高知、福岡、長崎、鹿児島である。日本語指導、定着自立指導開始。

1989(S64)  
2月 6日 山西省残留日本人帰国支援に民間組織【朝日2/ 6】(注1)
2月 第l9次訪日調査(第4回補充調査)が始まる(9/57: 15.8%、再調査2/3)。
4月 身元判明孤児の身元引受人の斡旋、自立支援通訳派遺事業の実施巡回健康相談事業の実施。
5月31日 肉親が身元引受人とならない身元判明孤児に「特別身元引受人」を斡旋。(援発411、庶務対267)(注2)
6月 4日 中国天安門事件(血の日曜日、民主化運動を武力弾圧)。
10月26日 厚生省がフィリピン残留孤児の国費一時帰国援護を制度化(756人中、条件合致対象者1名のみ)。フィリピン日系混血二世来日援助に民間団体が名乗りをあげる(毎年20人を3年間)【毎日、朝日10/ 27】。
12月 8日 厚生省援護局が中国帰国孤児自立対策委員会設置(注3)
1990(H2)  
1月10日 タイ残留日本人2名帰国(マラヤ共産党反英独立運動参加)。
2月 第20次訪日調査(第5回補充調査)が始まる(12/46: 26.1%、再調査0/3)。

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(注1)関連記事:「国共内戦に巻き込まれ」【毎日61年8/ 14】
(注2)委員の内訳は、5名の専門家(社会福祉、産業社会、精神衛生、文化人類、日本語)、および社会福祉協議会、評論家、定着センターから各1名の計8名。帰国孤児とその家族について、定着自立状況を研究し、その特性を踏まえた効果的な指導方法について調査研究する。検討期間は2年間(1994・4月30現在結果不明)。「中国帰国孤児自立促進対策研究会(委員会指示による研究、報告)」。専門家8名、実務者5名計13名。L
(注3)「残留婦人等」や身元の判明した「残留孤児」は、親族が受け入れを拒否すると、帰国の道がとざされていたが、帰国できるようになった。しかし、結局効果はあがらず、判明孤児、残留婦人の帰国促進も進まなかった。ちなみに、この制度は、後に(1991.3.)残留婦人の帰国に適用された。関連記事: 「原籍主義、肉親│説得等のため実績上がらず」【朝日63年5/ 14】

3月10日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施。(注1)
8月 7日 「海外在留邦人を考える会(自民党)」発足。(注2)
8月29日 中国残留婦人一時帰国に対する協力援助事業開始(注3)
11月17日 第21次訪日調査(第6回補充調査)(4/37: 10.8%)。
適応促進対策研修会の実催。
永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施。(注4)
1991(H3)  
2月 8日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施。(注5)
4月26日 中国からの一時帰国者に対する滞在費等の支給が始まる。(注6)G
5月 1日 扶桑同心会が発足(帰国者のみで構成する相互扶助)。
7月 1日 福島中国帰国孤児定着促進センター閉所
7月10日 帰国孤児生活実態調査概要(平成元年11月30日現在)発表。
7月18日 訪日調査に参加できない残留孤児を、訪中調査実施。(注7)
10月24日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注8)

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(注1)内蒙古自治区、河北省天津市G
(注2) 会長、戸井田三郎、副会長、大鷹淑子、代表世話人、佐藤信三(衆議院35名、参議院14名)FL
(注3)これまで、中国残留婦人の一時帰国時の世話は、親族が身元引受人になって責任をもつことになっており、肉親が拒否した場合には、ボランティアや支援団体が行っていたが、これからは、国の委託事業として、(財)中国残留孤児援護基金が、身元引き受け人になる制度。身元引受人のなり手が少ないことも背景にあってできた制度。【厚生省ヒヤリング】
(注4)吉林省長春市、延吉市、
(注5)遼寧省瀋陽市、大連市、
(注6)親族に代わって第三者(通常、ボランティアや支援団体等)が世話するとこれまでは、持ち出しであったが、定額の滞在費が支給されるようになった。
(注7)障害などのために訪日調査ができない孤児に対し、厚生省職員を中国へ派遣して聞き取りなど調査を実施。(黒竜江省在住の6人。)
(注8)黒竜江省ハルピン市、ジャムス市

11月 9日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注1)
11月26日 第22次訪日調査(第7回補充調査)(5/50: 10.0%)。
自立指導強化推進事業の実施。残留婦人等の身元引受人の斡旋始まる
1992(H4)  
3月10日 愛知中国帰国孤児定着促進センター閉所
4月 就労安定化事業の実施。
  ☆永注帰国援護対象者の範囲拡大(注2)
9月 8日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注3)
11月19日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注4)
11月24日 第23次訪日調査(第8回補充調査)(4/33:12.1%、訪中0/7)(注5)
12月 5日 国の援護対象「20歳未満の未婚の子」に、中国残留孤児より不満【朝日12/5】(注6)
1993(H5)  
1月 1日 中国帰国孤児の生活実態調査を実施(注7)
8月 1日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注8)

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(注1)山東省済南市、河北省石家荘市
(注2)身体障害者等の中国残留邦人を扶養・介護するために同伴帰国する成年の子一世帯を新たに援護対象に追加。
(注3) 吉林省長春市、吉林市、
(注4) 遼寧省瀋陽市、撫順市
(注5) 現在までの訪日調査合計。訪日人員1846名、判明640名(34.6%)。うち訪日調査中判明、567名(30.7%)、帰国後73名(3.9%)。
(注6)孤児の高齢化に伴い、子供たちの多くも成人しており、「配偶者と扶養家族」までが援護対象というこれまでの規定では、孤児2世を同伴帰国することができず、新たな家族離散の悲劇を生む可能性が出てきている。厚生省の基本姿勢は「あくまで引揚者本人に対する援助」(中国孤児等対策室)【朝日12/5】
(注7)対象世帯数1,423。ただし、厚生省が把握している国費帰国者のみが対象。
(注8)吉林省敦化市、琿春市

8月29日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(注1)
9月 5日 中国残留婦人「12人の強行帰国」(注2)がマスコミの注目を集め、その後も帰国が続き、議員立法の契機となる 。(注3)
10月26日 第24次中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査(第9回補充調査)(4/32: 12.5%)。
11月 1日 中国帰国者に関する事業に携わり、事業の進展に特に貢献のあったものに対し、厚生大臣感謝状を贈呈(34団体及び個人74人)。
特別身元引受人制度改正(援発600、平成元年7月31日援発411廃止)。
「特別身元引受人制度実施要領」の取扱いについて(社援対662)。
永住帰国旅費改正(援発601、平成4年4月9日援発216廃止)。
12月15日 日中政府間で「残留邦人帰国促進に関する口上書(第二次)」が取り交わされる。(注4)
永住帰国を希望する中国在留邦人を、3年以内に全員帰国させる」と厚生省の発表【新聞各紙】

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(注1)黒竜江省方正県、鶏西市
(注2)定着地、保証人(身元引き受け人)未定のまま、集団自主帰国。長く待たされ続け、高齢化に伴う不安と、なぜ、身元引受人が決まらないと帰国できないのかという不満が、帰国を急がせた。【新聞各紙】12人が、初めて、残留婦人として中国帰国孤児定着促進センターヘ、入所が許された。
(注3)中国残留邦人の帰国・自立に関する「援助法」を自民小委が立案し国会に提出する【毎日12/ 23】。
(注4)「永住帰国を希望する中国残留邦人の帰国の促進について」帰国希望者1,600人余りの帰国を3年以内で実現させるという方針が厚生省より出される。(参考)中国残留婦人等に対する帰国意向調査の回答状況(平成5年11月30日現在)

1994(H6)  
4月 1日 「中国帰国孤児定着促進センター」が「中国帰国者定着促進センター」に名称変更。
☆永注帰国援護対象者の範囲拡大(注1)。
☆再一時帰国の要件緩和(注2)
☆身元未判明孤児の一時帰国援護の開始
4月 6日 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(議員立法)」公布(平成6年10月1日施行)。
6月10日 中国残留日本人孤児に係わる訪中調査実施
6月15日 中国帰国者定着促進センター長野分室開所。
8月 4日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を実施(4日黒竜江省ハルピン市、7日同省チチハル市中国残留孤児援護基金主催)。
8月 6日 中国帰国孤児生活実態調査(93.1.1実施)厚生省、発表する。(注3)【朝日8/ 6】
8月29日 中国帰国者定着促進センター山形分室開所G。
9月15日 永住帰国を希望する残留孤児のための訪中説明会を吉林省延吉市で実施(中国残留孤児援護基金主催)G。
10月 1日 中国残留邦人支援法、施行規則(厚生省令)施行。
11月 9日 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律」の一部改正(第13条国民年金の特例)公布(注4)
11月22日 第25次中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査(第10回補充調査)(1/ 36: 11.1%)。

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(注1)国費による再一時帰国が、70歳以上のものは3年に1回、それ以下は5年に1回になる。
(注2)日中いずれかで孤児要件不備とされているものの資格要件確認調査G。
(注3)2年後に過半数が生活保護を脱却。ただし、調査対象者は国費で永住帰国した残留孤児世帯1,191世帯である。
(注4)中国残留邦人等に対する国民年金の特別措置。平成8年4月1日施行。

1995(H7)  
3月 1日
残留婦人等及び残留孤児を対象とした中国帰国者生活実態調査実施
(対象4532世帯)G。
4月 ☆永注帰国援護対象者の範囲拡大(注1)一時帰国の毎年化(注2)
6月24日
「中国残留問題への理解を深める中央大会」を開催(厚生省及び中国残留孤児援護基金主催)G。(注3)
10月31日 第26次中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査(第11回補充調査)(5/67: 7.5%)。
1996(H8)  
1月31日 「中国残留邦人等の円滑な帰国の促進及び永住帰国後の自立の支援に関する法律(平成6)施行令」の改正が行われる。(注4)
第27次中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査(第12回補充調査)(4/43: 9.3%)。
4月 二次センター(中国帰国者自立研修センター)において、いわゆる「再研修」(日本語再指導)の試行が始まる。(注5)

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(注1)60歳以上の残留邦人を扶養するため、成年の子一世帯を援護対象に追加。
(注2)残留邦人全員が毎年国費で一時帰国できるようになる。
(注3)中国帰国者に関する事業に携わり、事業の進展に特に貢献のあったものに対し厚生大臣感謝状を贈呈(18団体及び個人32人)。
(注4)特例措置として、国民年金の3分の2の自己負担分について低利の貸し付け制度『生活福祉資金』が利用できるようになる。
(注5)対象は国費の援護対象者で、帰国後5年以内の人。一次・二次センターの4カ月間や8カ月間(12カ月間)では、不十分な人のために、一次・二次センターを出て、地域に入った後の日本語力を深めるための事業。しかし、すべての二次センターで実施している訳ではない【厚生省ヒヤリング】。文化庁でも「中国帰国者のための日本語通信教育(試行)調査研究部会」が、平成8,9,10年度にかけての事業として進められている。

1997(H9)  
4月 ☆永注帰国援護対象者の範囲拡大(注1)一時帰国の毎年化
当年度の事業として、いわゆる「再研修」(日本語再指導)の実施が始まる。
10月13日 第28次中国残留日本人孤児の肉親捜しのための訪日調査(第13回補充調査)(2/45:4.4%)。

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(注1)55歳以上の残留邦人を扶養するため、成年の子一世帯を援護対象に追加。

 

4.おわりに

数年前の夏、ある農山村で、中国帰国者の生活指導員をしているAさんの所へ、「文化庁中国帰国者のための日本語教育指導書」作成のための調査協力依頼に伺った時のこと。私の執筆担当は「中国帰国者と日本社会」という章だったので、なるべく帰国者の現実と乖離したものは作りたくないという思いから、多くの方に直接会って、お話を伺う機会を持つようにした。三日間、Aさんに案内されて、苦渋に満ちた九人の帰国者の過去と現在の話を伺うことができた。食べ物と引き換えに自分が売られたことを幼い時の消しがたい記憶として持っている方、助かって今生きているのが不思議だと言いながら、傷を見せてくれる残留邦人の男性、地獄絵さながらのチャーズ(長春の経済・食料封鎖)を生き延びた姉妹は、人肉を食らう話のとき、泣き出してしまった。三日間の車での移動中、私はAさんから九人のことについてのより詳しい情報を引き出すことに終始していた。最後の日、意外にも彼女の家の夕食に招待され、そこで、問わず語りに彼女の半生を聞くことになった。福祉事務所の嘱託職員で、滑らかな日本語を話す彼女を、中国帰国者二世と聞いてはいたが、暗黙のルールとして調査対象とは考えていなかった。彼女はこの三日間で話したいことが、溢れるように記憶から呼び覚まされたという。
残留孤児であった母親は日本に帰りたがり、中国人の父親は中国を離れないと言い、家族間の確執の末に、結局、父親の世話をするために姉が中国に残ることになり、家族が離れ離れに暮らすことになった。彼女が中学二年生の時のことである。幼いころは、中国では「日本人」といじめられ、日本の高校では「中国人は中国へ帰れ」と言われた。その経験から、専門学校では、「海外駐在員の子」として振る舞い、長年中国に住んでいたのでバイリンガルであると嘘をついていたという。一番つらい時代であったと当時を振り返る。今でも、自分が何人なのか答えられないと言う。
 こんな悲しみを背負って生きている人達がいる。国費帰国者だけでも一万七千人、自費帰国者、呼び寄せ家族も入れたら十万人は下らないと推定される。帰国(来日)の動機が経済格差にのみあるかのような、思慮のない無遠慮な日本社会の視線にさらされながら、ある者は、帰国(来日)後さらに、傷つき、多くの生活課題をかかえながら、忍耐強く暮らしている。その他の地域で出会った人々も、親族や地域からの孤立、二世・三世の教育問題、老後の生活への不安、受け入れ制度の矛盾などを抱えながら、その暮らしぶりは、痛々しいほどに日本社会に諦観している。彼女たちに福祉は何をしているのか。そんな素朴な疑問から、この研究は始まった。
 とりわけ、私の研究の関心は、彼女たちの生活史研究であった。多くの方々の協力を得て、3年間生活史調査を行った。その基礎となるのは中国帰国者の歴史研究であり、政策史研究である。ところが、先行研究を調べてみると、その部分は驚くほど空白であった。終戦後の引き揚げ援護の歴史についてはまとめられているものはあるものの、1972年以降のいわゆる「中国帰国者」については、研究されていない。そこで、「中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開」をまとめ、研究ノートとしての年表を作成した。また、国費帰国者の生活実態調査に関しては、厚生省が行っているが、自費帰国者や呼び寄せ家族の生活実態に関しては、把握されていない。そこで、現在の彼女たちの生活問題を横断的に把握し、生活史を複眼的に理解するために、中国帰国者の健康・医療・福祉に関する生活調査(アンケート数:135、1997.7〜10実施)を行い、生活問題分析を行った(別稿:東洋大学紀要)。
 そして、最後に、いざ、自分の一番やりたかった生活史分析を手掛けようと6冊のフィールドノートを手にしたとき、多くの疑問が噴出した。ひとつは、質的調査法の中でも、グラウンデット・セオリー・アプローチ(注)を使って、コード化(符号付け)を行う作業を続けてきた訳であるが、彼女たちの「語り」から調査者である私の「読みの変換(解釈)」を行う作業中、その意味内容の押さえ方そのものへの客観性への疑問が噴出した。私の「読みの変換」が、「確かにそうである」と言える根拠の不確実性が露呈した。たとえば、中国人との結婚について、「そうするより仕方がなかった」をコード化し、それを「諦観」と読み取っても、次の面接では、「諦観」の狭間に、「積極的に自分で選び取った」と、自由意志による選択が強調して語られるといった具合であった。それを、「葛藤」という「読みの変換」を行うことの妥当性への疑問が出てきた。最初の頃の面接では、この様な被調査者の変化を、「行間を読む」力のない自分自身が、「試されている」ように感じたり、あるいは、何の苦労もしていない戦後世代の被調査者には、到底「分かるはずはない。」と、理解を拒否しているのかとも考えた。しかし、違っていた。加害意識(多くの残留婦人が、持っていた)と被害意識の重層化の中で、「語り」を通して、「語り手」の認識そのものが、変化するのである。「語り」は、ある時は調査者と被調査者との共同作業であり、「コードを引き出す」と言うよりは、一緒になって「コードを生み出す」という作業をしてしまっていた。あまりにもつらい経験を「語る」時、「語り」は、「聞き手」である被調査者を共感的理解を超えて追体験に駆り立てる。「聞き手」の変化が「語り手」をさらに変化させる。そこで、調査者と被調査者は「何かを構築して行く」という作業をしている。調査者と被調査者はその作業の後、作業の前とは別のステージにいるのである。このような経験を何度か繰り返した。観察者であることをやめ、当事者になっているのである。つまり、このような状況のなかでの「意味付け」は、その解釈に不可避的に調査者と被調査者の関係性を持ち込み、調査者と被調査者は、相互に影響を与えあい、変化して行くのである。相互作用からコード化を行い、理論の産出を待つというのは、<絶えざる比較法>が、ある種の柔軟性や曖昧さを考慮に入れて設計されていたとしても、もはやグラウンデット・セオリー・アプローチとはいえないであろう。このような調査者と被調査者との関係性の変化がグラウンデット・セオリー・アプローチで、記述することを困難にしていった。また、ストーリーをバラバラに解体し、そのとらわれから抜け出ることが、理論をきちんと統合してゆくために必要なことであったが、そのような分析者には、なりきることができなかった。
 そこで、それぞれの時期の社会状況と歴史・政策が個人の生活史から見たらどのように関連していたか、生活問題が個人の生活史から見たらどのような過程を経て形成されたか、については、今後の課題とし、ここでは、基礎的な中国帰国者問題の歴史と援護政策の展開を年表で示すに止め、ご批判をいただきたいと思う。
 最後に、修士論文全体にわたってご指導くださいました東洋大学社会学部社会福祉学科園田恭一教授、年表作成の意義を評価し励ましてくださった国立総合研究大学院大学教育研究交流センター出口正之(非営利組織論)教授、貴重なお話しとボランティア支援団体の豊富な資料を提供してくださった中国帰国者問題同友会、庵谷 磐氏、ヒヤリングに協力くださった「紅梅の会」代表、村上米子様はじめ10数名の中国残留邦人の皆様、年表表記上のアドバイスをくださった京都大学大学院博士課程教育学研究科 鍛治 到氏、お忙しい中、資料提供のご協力をくださいました厚生省社会援護局中国孤児等対策室担当者様、中国帰国者定着促進センターの紀要委員の皆様には、大変お世話になりました。心からのお礼を申し上げます。


【付記】

1.厚生省の援護対象者とは、国費帰国者である。
2.本稿は、東洋大学大学院社会学研究科社会福祉学専攻修士論文『中国帰国者の福祉問題−生活史および生活問題分析を通して−』の第1章第6節を加筆したものである。
3.本稿が、ダウンロードされる環境に置かれる性質上、歴史と援護政策の展開は、今後も年毎に書き加えられるべきものである。関係諸氏のご教示、ご指導を仰ぎながら、「中国帰国者問題」という日本社会の問題が解決され、記述の必要がなくなる日まで、書き加え続けたいと思う。

 情報提供は、メールアドレスcag88360@pop13.odn.ne.jpまでお願いいたします。


(注)質的調査法の一つ。統計的な仮説検証型の量的調査と異なり、観察される質的データをコード化(符号付け)し、分類整理した上で、それらの関係を検討、考察する。詳しくは『データ対話型理論の発見』(グレイザー、ストラウス、新曜社、1996)を参照のこと。