当稿は、1999年度教育研究全国集会「人権と教育」分科会 における発表原稿としてまとめたものに手を加えたものである。
筆者は、現在の勤務地に赴任するまで、他地区の公立小中学校で、外部指導者として中国引揚児童・生徒を主な対象に、日本語指導・適応指導を10年間担当してきた。当稿は、その体験に基づき、まとめたものである。
【1】深刻化する現実
−ただ外国人児童・生徒を入学させたらどうなるか/“お荷物”−
今の日本の学校は、児童・生徒がすべて日本人であることを前提に作られている。その器にそのまま外国人児童・生徒を入れてもうまくいかないことは、簡単に想像がつく。ところが、未だに多くの学校では、この“放り込み”状態から抜け出せないでいる。
外国人児童・生徒も最初の1人2人のうちは、珍しくて大切にされるかもしれない。しかし、続々と入学するようになると、特別な支援体制のない学校では、外国人児童・生徒の状況は数が少なかった頃より悪い状況に陥っているように思われる。
筆者は、日本語指導者として主に中学校で指導してきた。そこで見てきた外国人生徒の存在状況をパターンに分けてみる。
A. 非常に努力し、日本人生徒と同等に学習し卒業していく
Aタイプの生徒は、母国にいたときも学校生活によく適応し、学習習慣がついていることが多い。その上、本人がたいへん努力する。こうした生徒は時々いるが、多くはない。しかし、1人でもAタイプの生徒と接したことがあると、これから述べるBタイプ以下の状況は「本人の問題」と判断しがちである。
B. 日本人の友達なし/授業はわからず/がまんする/じっと教室にいる
めったに話さない/通知表はほとんど1で“ところてん”式に卒業していく
外国人生徒が少ない頃はBタイプの生徒が多く見られた。担任はよく「おとなしい子だった」、「声を聞いたことがなかった」、「辛かったでしょうね」と言っている。生徒ががまんしていたために、学校の中で外国人生徒の問題がなかなか表面化せずにきたのではないかと思われる。こうして卒業した生徒たちも、別の場で発言の機会があると、中学校時代がどんなに辛かったかを訴えるようになってきている。
C. 日本人の友達なし/授業はわからず/自分で進路を決定し、中退・就職して
いく
家計が苦しいから、助けたいと彼らは言う。
中退は以前からあった。中学校に中退があるのかと思われるだろうが、外国人児童・生徒の親には、日本の学校に子女を就学させる「義務」はない。したがって中退もできる。同時に、中国の学校には留年も中退もあるので、彼らは学校に行く必要性を感じなくなると「中退」という選択肢を選ぶことがよくある。
彼らはBの状態でがまんしているうちに、あるとき決断したように、中退を申し出てくる。この時点に至ってからでは、「せめて中学くらい卒業していないと日本社会では不利になる」といった説得には、全く応じないことが多かった。学校側も「残念だがしかたない、しっかり働いて家族を助けるように」と送り出す。
D. 日本人の友達なし/授業はわからず/どうしたらいいかわからない
D-1 不登校:学校側は、彼らを促してまで登校させていないことが多かった。不登校のままで16歳になってしまうと、そこで除籍というケースもあった。たて笛、英語、鉄棒、数学など、いろいろな活動がみんなと同じにはできない、友達もいない、だから学校に行きたくないと彼らは言っていた。
D-2 遊びで欠席がち:ゲームセンターに入り浸たり、中退者ばかりで集まって遊ぶ。親は仕事に追われ子どもの実態を知らない、また、知っていても子どもをコントロールできない。このような子どもたちが、在籍したまま学校外で問題を起こすと学校の責任が問われるので、退学に導くという結果になることもある。
D-3 授業に不参加:授業を聞かずに寝ている、中国語の本を読んでいる、友達に中国語で手紙を書いているなど、授業に参加しなくても静かにしてさえいれば、Bタイプと言える。しかし、そうしてこらえていることができずに、「わかんねえよ」と声を上げたり、音を立てて教室を抜け出したりする、あるいは教室にいても授業には参加せず、授業を妨害するという行動に出てくることがある。
Dタイプが登場すると、“やっかいもの”意識が一気に学校全体に高まる。D-1タイプに対しては、「不登校は日本人にもいる。そっちは『義務教育』対象者だが、その子への対応だけで担任にはたいへんな負担になる。外国人の不登校まで世話を焼き切れない」という反応が返ってくる。D-3タイプに対しては、「あの子は何しに学校に来るんだろう、まるで給食のために学校に来ているようなものだ。今日もまた来ているよ」、「近いうちに不登校になるだろう」というような声が聞こえてくる。
学校側は、Dタイプが何人にもなると、入学に際しても最初から“社交辞令”は言わなくなる。「ここは日本の学校です。希望があれば受け入れますが、あなたのために何か特別なことはできません。日本人と同じように過ごしていただきます。これはたいへん困難なことで、多くの外国人生徒が不適応や退学をしています。それを承知しておいてください」と最初に通訳を通して親に確認する。
教員も、Dタイプが何人にもなってくると、本来口にしてはいけないことを、口にせずにはいられなくなっている。職員室では、“また”中国人が来たのか、中国人は“お荷物”だ、来てほしくない、ここは“日本人のための学校”なんだから日本人と同じでいいなら“おいてやる”が、特別なことやってくれと要求するのは“生意気”だ、教育委員会が何にもしないのが悪い、我々はその“つけ”をかぶりたくない、といった発言が大声で交わされるようになってくる。
生徒のこうした状態、教員のこういう発言は、すべてが現場任せでしかるべき対応策がとられないままになっていることの現れであり、すでに対応が不可能になってきていることの証拠である。
教員が個人で対応することの限界
もちろん熱意のある教員もいる。PTAに呼びかけ、生徒の家庭の家財道具をそろえる、給食を夕食に持ち帰らせる、自分で通訳を探し、補助の指導者を連れてくる、大使館に教材をもらいにいき、大学から資料を取り寄せる、日本の生徒も含めて補習を行う等々。これは大変な努力である。でもこの教員は最初の体験だから、ここまで行動を起こすことができたと言えるのではないか。もし、次はブラジル、フィリピン、タイ、韓国と、この教員のクラスに外国人生徒が入学したら、もう同じことはできないに違いない。また、教員個人にこれだけの負担を負わせてはいけないはずである。
特に中学校では、教室で一斉指導をしていると、外国人生徒がその中にいることがわかっていても、対応する方法がない。わからないだろうなあ、この子に悪いなあ、と思いつつ、授業中は存在を“無視”するしかない。
突然自分の学級に外国人生徒を受け入れることになった担任が、何も知らなくても、学級としての取り組みが作れなくても、それを担任の責任にすることはできない。研修の機会も乏しく、たとえ研修があってもそれに出かける余裕もないかもしれない。そもそも日本人にも手のかかる生徒が何人もいて、“超”多忙であることを認めなければならない。
学校で抱え込むことの限界
教員個人はもちろんであるが、学校だけでこうした生徒たちを抱え込むことも不可能である。日本語の取り出し指導の時間以外はどう対応するのか。教室にただ入れておく以外に、特殊学級、保健室、校長室、空き教室等においておく、空き時間の教員が職員室で相手をするなどの対応がとられていると聞く。しかし、これらはすべて“一時預かり”で、計画された体系的な教育ではない。
一刻も早く、担任や外国人生徒を受け入れた学校をサポートする体制を作らなければならない。すでに現場はこれ以上放置してはいけない状態にきている。
【2】制度改革:「理想論」ではなく 具体的な制度改善の提案
−今後の議論のたたき台として−
外国人生徒の状況に完全に合わせた教育を一般の公立学校で行うことは不可能である。しかし、外国人学校を別に設置することもベストとは思えない。これでは外国人生徒を隔離することになってしまう。やはり、日本に来たからには、年齢の近い日本の生徒たちと十分に関わって、育ち合ってほしい。そのためには、日本の学校で外国人生徒を受け入れるということを前提に、制度も意識も手直ししていくことが必要である。外国人生徒は、日本で育つことになったとしても、母国にいたときと同様、自分の存在を尊重され、伸び伸びと成長し、必要な知識・技能が習得できるよう、日本人生徒と同等に学習環境を保障されなければならない。
今のような放置状態はすでに限界である。制度を改革しない限り、悲劇は続く。これは将来の日本社会の損失である。「どうせ行政は動かない」と諦めて今の状態に甘んじることは、すでに現場にとっては耐えられない苦痛になっている。制度としてどうしても改善しなければならない段階にきていることを、関係者全体で確認したい。
(1)「学校教育法」を改正し 外国人児童・生徒の学習権を認める
@「学校教育法」の改正
日本国籍をもたない児童・生徒が日本の公立学校に入学を希望した場合は、その児童・生徒に対して日本政府が責任を持って必要な教育を行わなければならない旨を明記する。これにより「日本人は教育の『義務』があるが、外国人に対しては『義務』がない」という“逃げ”を封じる。
A「日本語科」教員を採用する/日本語指導・適応指導について知識・経験のあ
る教員、希望する教員の意欲と経験を十分活用する
児童・生徒を対象とした日本語指導者を育成し、「日本語科」の教員免許を発行して、教員として正式に採用する。
“薄めた” (外国人児童・生徒の指導という名目で「加配」を受けていても、実質的にはそれ以外の業務も分担されるような) 日本語加配では、実際の対応は十分に行えない。また、知識も経験もない日本語学級担当教員、外部派遣の日本語講師だけでは、責任ある対応はできない。この実態を認め、十分に対応できる体制作りを本気で考えなければならない。
数学の教員が余ったから国語科にする、理科の教員が余ったから今年から音楽科にかわる、ということはありえない。それなのになぜ「本当は数学の免許ですが、今は日本語担当です」ということが行われるのか。「日本語科」教員が採用されれば、日本語指導は余った教員の回し先にはできないはずである。
こうした制度改革を一朝一夕に実現させることは容易ではないかもしれない。また制度としては実現したとしても、外国人児童・生徒の在籍するすべて地区や学校に「日本語科」教員が配属されるわけではないということも考えられる。こうした場合には、いわば次善の策として、日本語指導・適応指導について知識・経験のある教員や、日本語指導・適応指導の意欲がありこれを希望する教員を十分活用することが必要である。
学生時代にボランティアで外国人児童・生徒の支援事業に関わった経験がある教員、青年協力隊や民間で日本語教育の経験のある教員などもいる。しかし、現状では、こうした教員が日本語学級担当を希望してもかなえられるとは限らず、人材が有効に生かされていない。日本語学級は担当者の熱意任せ、個人の力量頼みで、そうした教員が異動になると、ただちに瓦解してしまう。今は外国人子女教育の土台作りに力をいれなければならない段階である。意欲・実績・力量のある教員をきちんと吸い上げて配置してほしい。
(2)外国人児童・生徒の教育責任は 市区町村ではなく都道府県で
@都道府県単位で運営
現在は、外国人児童・生徒への対応施策は市区町村ごとにまちまちである。たまたま住居を定めた地域によって日本語指導が全くなかったり、通訳が来たり、何年間も日本語指導が受けられたり、日本語学級があったり、その格差があまりにも大きい。個別の自治体で対応施策を改善することは本来可能であるはずだが、「制度をよくすると外国人が集まってくるからやらない。できればよそに行ってもらいたい」という本音が聞かれる。しかし市区町村同士で負担を押しつけ合っても、都道府県の問題、日本国内の問題であることにかわりはない。
同時に、外国人の側も、公営住宅に当選した、アパートの家賃値上げ、よりよい仕事が見つかった等の理由で、居住地をよく移動する。現状のような市区町村単位の対応では、以前の居住地ではどんな対応が行われてきたのかほとんどわからない。生徒の日本語学習も継続しにくい。本来日本全国どこに移転しても同じレベルの対応が行われるべきである。
東京都の場合、たとえ学校が東京都の日本語学級設置基準を満たしていて日本語学級の設置を要望しても、市区町村教育委員会が許可を出さなければ設置申請ができない実状がある。外国人児童・生徒の在籍は地域ごとにかたよりがあるので、全国一律が無理でも、少なくとも都道府県を単位とする広域で施策を行う必要があるだろう。
A情報・相談センターを設置する
困ったことがある人がいつでも相談でき情報を得られる場を、都道府県ごとに設置する。そこでは、学校の身近で協力できる機関を紹介できるよう、地域ごとのボランティア団体等も把握する。受け入れ窓口を一本化して、情報提供・相談・人材派遣・通訳派遣・翻訳依頼・教材提供などを受け付ける。
また、全国の指導担当者は似たようなことに悩み、同じような試行錯誤を経て似たりよったりの教材を作っている。そして、そうした教材はせっかく作っても広く知られていない。これほどの情報化時代でありながら、指導者間の交流、指導法等の情報交換と経験の蓄積、教材等の共同開発の場はまだまだ少ない。このことは、日本語科教員がいないこととも深い関わりがある。「今年だけがまんすればいい」という日本語学級担当者では、教材の前進も指導法の研究も望めない。日本語科教員の研修の場と機会を保障するとともに、指導法・教材等共同開発の場を作り、情報センターを通じで共有財産にしていくことが必要である。
(3)受け入れに柔軟な対応を
ある外国人児童・生徒を日本の小中学校でどう受け入れるか、現在は基準がなく、市区町村によって対応がまちまちである。さらにいえば、同じ地域でも担当者によっても違ったりする。「日本で学校教育を受けたいと希望する外国人児童・生徒に対しては、できるだけ実現する」という方向で統一的な基準を設けて、どの地域で申請しても結果が同じになるようにしてほしい。
@入学相談窓口を都道府県に設ける
都道府県の相談窓口に専門家を配置し、そこで面談を行って、必要な情報に基づき判断を行ってから、市区町村教育委員会に回すことにする。
A18歳未満の場合、希望があれば、母国で中学卒業していても中学に受け入れる
18歳未満は成人日本語教育機関で受け入れていない。高校は入学試験がある。母国で高校生であっても、そのまま日本の高校で受け入れることは難しい。日本で高校を受験するにしても、合格するまでは受け入れ機関がない。こうした生徒に対して、本人が希望すれば中学校で受け入れるべきであると考える。「ここは中学だ、高校生が来るところではない」「中学を日本語学校として利用しようとするのは虫がいい」といった発言を聞くが、本人の学びの場を確保することの方を尊重すべきである。
B学区の柔軟な対応
拠点校、センター校、同国人の仲間のいる学校、暖かく受け入れてくれる学校を選べるように。現実には外国人の受け入れに対して、学校の姿勢に違いがありすぎる。最初から“お荷物”扱いする学校に入学することは生徒にとっても不幸である。
C状況に応じた編入学年の決定
母国での在籍学年を優先するか、日本の学齢を優先するか、日本語習得の負担を考慮して学年を下げるか、現在ではこの対応もまちまちである。「学齢でいく」「2年下げる」「親の要望にそう」などのいろいろなパターンが見られる。
どの学年に編入するのが適切かは、すでに日本の学校に編入した生徒たちの受け入れ後の状況の追跡、過年の影響調査が必要である。その結果に基づき、状況に応じた対応をしたい。
一方、日本の厳格な同年齢主義も見直し、年齢の異なるクラスメートがいてもかまわないじゃないか、と日本の生徒たちも認め合えるような教育も必要である。
D留年・飛び級を認める
それでもうまくいかないことがはっきりした場合には、柔軟な対応ができるようにしておくべきである。「書類が複雑である」とか、「前例のないことはしたくない」とかいった手続き業務上の問題ではない。人間の人生を左右する問題であるという意識をもって対応してほしい。
(4)学習言語能力1) 習得を目標とした日本語学習を保障する
日本語指導は1つの独立した専門分野である。特に外国人児童・生徒にとって日本語は、学校教育を受けるための必須手段である。「日常会話」ができても教科の授業は理解できない。したがって、学習言語能力としての日本語力養成を目標とした日本語指導が必要になる。学習言語習得は、学校教育を受けるための前提なのである。
@「学習のために日本語教育が必要なのだ」という意識を徹底する
まずは教員養成の段階で、次に初任者研修で、そして、パンフレットの活用等の方策を通じて、いち早く教員全体の意識改善を促したい。「子どもは放っておいても日本語ができるようになる」、「日本語なんて誰でも教えられる」、「とりあえず話せるから日本語指導はいらない」といった意識を払拭しなければならない。
A学習言語の獲得を視野に入れた長期的な支援計画を作る
入門サバイバル程度で日本語指導を打ち切るのは、何もしない以上に危険かもしれない。外国人児童・生徒本人は、日本語指導を終了したのにまだ授業がわからないのは自分に能力がないから、と思いがちである。教員も、「成績が悪いのは本人の能力が低いから」と言いがちである。
また、日本語がわからない期間、教科の学習ができないために、脳の機能は全面的には使われない状態になる。また、宿題はきちんと仕上げ、困難があっても自分なりに課題をやり遂げる、といった母国にいたときには当然だった学生生活としての習慣も消えがちである。
こうした習慣を断ち切ることなく、日本語が困難なためにわからなかったりできなかったりすることをどう解決していくかという学習ストラテジーの獲得を含めて、教科学習への道筋をつけるところまで支援が必要である。日本語指導計画は、そこまでを見通した計画でなければならない。
B拠点校・センター校を鉄道沿線ごとに設置する
日本語指導には専門的な能力が必要となる。しかもその目標が学習言語能力の習得である場合、個々の児童・生徒の様々な状況に合わせて長期的で体系的な指導を行っていくためには、やはり拠点校・センター校の設置が必要であり、有効である。これは、(2)でも述べたが、都道府県単位の仕事として行うべきである。東京都の場合、区市町村と鉄道は一致しない。同じ電車で、数駅ごとに区が移っていく。生徒が拠点校・センター校に通うにも、指導者が数校の指導を兼任する場合にも、鉄道沿線を基準とする方が合理的である。
C学校派遣講師は日本語指導を専門とする者を
拠点校・センター校をたくさん設置しても通学が困難な場合もあろう。在籍学校の場所にもよるし、小学校低学年では電車通学は難しい、などの事情で、学校に外部から講師を派遣する方法は、まだ継続される必要があるかもしれない。その場合、生徒の母語がわかる通訳、適応指導、日本語指導は、それぞれに別の専門であることを認識してほしい。
未だに、生徒の母語ができる人を探してきて、その人を日本語指導担当者とするといった混乱が各地の教育委員会で行われている。もっとひどい場合には、心あるボランティアにすべてをまとめて託している場合もある。まず、それぞれの仕事を専門とする人を募集し、仕事の責務に見合った報酬を支払って、責任ある対応を行うことである。
(5)カウンセラー・適応指導者・通訳を配置/派遣する
@スクールカウンセラーの活用
スクールカウンセラーや「心の相談員」などの担当者に異文化適応についての研修の機会を設け、外国人児童・生徒の問題にも対応できるようにする。
A通訳派遣態勢を都道府県で整える
広域で対処すれば、言語の種類もそろえられる。通訳担当者を都道府県教育委員会が常時、独自に抱えるのではなく、縦割り行政を打破して、保健所・福祉事務所・外国人登録業務など通訳の必要な部署との連携をとる。また、裁判の通訳などとの協力態勢をとる等人材活用を考える。さらに、それらをまとめて民間業者に委託契約を行うことも可能だろう。
B情報センターで翻訳業務を受け付ける
携帯電話を利用して、外国人児童・生徒との母語による連絡対応に機敏に対処できる方法を考える。また、児童・生徒宅で、日本語では連絡不能な家庭にはFAX機貸し出しを行い、学校のFAX、あるいは情報センター経由でFAXを用いて母語で連絡が取れるようにするなどの対応を考える。
(6)日本語にとどまらず まず必要な学習ができる柔軟性を
外国人児童・生徒には、日本人の場合とはまた別種の困難があり、日本の学校制度ではそもそも対応ができないこともある。これらにも何らかの対応が必要になっている。
@過年編入による学習内容のずれに対応しきれない
母国で8歳で小学校に入学し、九九の学習前に来日、日本で5年に編入された生徒が、中学校に入学してきた。彼は九九を知らないままであった。その状態で中学の数学が理解できるはずはなく、中学卒業後に就職するにしても、これでは社会人として生きていく上で困る。しかし、中学校では九九からの再学習をする機会がない。取り出し指導や拠点校・センター校で必要な教育ができるようにしてほしい。
同じく、小学校低学年で来日、そのときには日本語指導の時間にカタカナを学習しなかった。そのまま中学生になってもカタカナができないままだった。この生徒の場合も、まずカタカナ学習の機会が与えられなければならないだろう。
大人と違って、子どもは自分一人で未習課題に取り組むことはなかなかできない。誰か指導してくれる人がいれば、能力的には当然学習可能である。
ところがこうした指導を依頼すると、「日本人にも九九のできない中学生がいる」、「あの子は学年で最低ではない、もっとできない日本人もいる」という発言がしばしば聞かれる。しかし、一度は自分の言語で授業を受けて学んだことがある日本人生徒、両親も義務教育を修了しており学習塾・家庭教師など学校以外の教育ツールについても情報を得られる立場にある日本人家庭とは、いったん区別しなければならない。上述の外国人生徒たちは、カタカナや九九を一度も教えられたことがないのである。
A今さら学習する必要がない、本人にも学習する意思のない教科
中2に編入し、高校進学を希望しない外国人生徒がいた。母国では英語を学んでいない。もちろん日本史も母国では学習経験がない。中2の教室で英語や社会の授業を受けても前提となる知識が異なり、何も吸収することができない。
こういった生徒の場合も、機械的に日本人と同じ授業を受けることがその生徒にとって有効であるとは考えられない。英語・社会の時間に、別カリキュラムで、日本での就職に関するノウハウ、健康保険、税金、覚醒剤、エイズ、喫煙、栄養、病気、けがの救急手当、生活に密着する法律、自治体の福祉政策等を学習するなど、これから日本で生きていくために知っておかなければならない知識は他にたくさんあると考えられる。本人にとって必要な学習の時間に振り替えられるような対応ができるようになってほしい。
B15歳未満だが、母国でほとんど学校教育に参加していない生徒
最近は、母国においても学校教育にまともに参加してこなかった生徒がやってくる。母語の「国語」能力、数学の学力もとても学年レベルにはなく、毎日登校し、教室で授業を受けるという生活習慣もとっくに失われている。
こうした生徒は日本語の問題ではなく、そもそもどの教科も学習不可能で、本人に参加の意志もない。ただし、15歳未満では中学校しか受け入れ先がない。もちろん仕事にもつけない。だからといって、退学を待つだけで、毎日近所で遊んでいるような生活をすることは本人にとっても地域社会にとってもいいことだとは思われない。こうした生徒のためにも、日本語を学習し、社会参加のために必要な知識を獲得するための学習の場が必要である。
拠点校・センター校等で受け入れ、実技教科のみ母学級で学び、それ以外は特別カリキュラムによる指導を認めるのが最もよい受け入れ方法であると考える。あるいは、学校以外に受け入れの場があれば、そこへの通級を登校に含めて中学卒業を認めるといった、不登校の生徒と同等の対策が行われてもよい。
(7)母語による学習援助
外国人児童・生徒の多くは、母国では普通にその国の言語で教育を受けてきた生徒たちである。日本語の壁のためにその学習活動を中断させてしまうことは、脳の発達のためにも大きなマイナスである。生徒の母語を使えば十分に学習可能なことについては、その援助を行う。
@日本の教科書の外国語訳
今は各地で個別に、善意の“手弁当”で、日本の教科書の外国語訳などの作業が行われている。しかし、これは本来個人の財布で行う仕事ではなく、学習権の保障の必要不可欠な部分である。学年ごと、教科ごと、教科書会社別に、各国語の翻訳が必要であり、それは指導要領が変わればまた取り組まなければならないものである。個人の善意ではとうてい全体をカバーできるものではない。また、この仕事が可能な二カ国語能力を持つ人材も限定される。これは国の仕事として全国規模で取り組むべきである。
また、作られた教材を全国で利用するための情報の一元化も、先述の情報センターの機能の1つである。
A母語による教科指導
これには、日本の教科書を読みこなせる日本語力を持った外国人の指導協力者が必要になる。留学生等による支援が考えられる。これも都道府県単位で行うなら取り組むことが可能になるであろう。拠点校・センター校への派遣、小中学校で指導するための臨時免許の発行などの措置をとって、指導に当たれるようにしてほしい。
B母語保持教育
外国人児童・生徒たちは、日本での生活が長くなれば生活言語2) に関してはおのずと日本語を習得する。同時に、母語の喪失が進行する。家庭内で、母語しか話せない両親と通訳を介さなければ話ができない子どもたちの問題が各地で聞かれる。また、母語の基礎が不十分な段階で来日し、日本語も抽象的な思考ができるレベルまで伸びなかった場合、2つの言語能力がともに不十分になるといった深刻な事態が起きる。来日時の年齢が比較的高く、母語での会話能力は保持できる生徒でも、読み書き能力はどんどん下降していく。
これは外国人児童・生徒が自分をどんな人間であると認識するのかというアイデンティティの形成に関わる問題である。日本人に同化させるのではなく、日本と母国の2つの言語・文化の理解者として、さらに国籍にとらわれない“地球人”として育つためにも、自分の生まれた国の言語を保持していくことは大切である。
現在でもいくつかの自治体やボランティアベースではすでに母語保持教室の取り組みが始まっているが、1つの言語話者が集中して住んでいる地域、母語の指導者が得やすい地域ならともかく、すべての子どもたちに母語保持教育の場を提供していく動きには程遠い。しかし、エスニック・コミュニティーとの提携・協力も含め、外国人児童・生徒を育てるために必要な教育の一環であるとの姿勢で前進させてほしい。
(8)日本人も 外国人も
外国人児童・生徒の問題に関わると、必ず言われるのは「日本人にもできない生徒がいる」という一言である。日本人生徒の学力不振問題は、外国人生徒と原因が異なり、それとして対応が必要である。それぞれ別の問題であるはずだ。それが「日本人優先、外国人後回し」という発想で語られるのは、やはり外国人児童・生徒が、日本政府が責任を持って教育を行う対象としてきちんと位置付けられていないからであろう。
ただし、日本人生徒の人権・学習権をきちんと保障し、日本人生徒にとっても居心地のいい学校を作っていくことは言うまでもなく重要である。日本人抜きに、外国人対象の施策ばかりが優先されるはずもない。現在でも日本人生徒が落ち着いて伸び伸び過ごしている学校では外国人生徒の状況もよく、日本人が荒れているところは外国人も“ほったらかし”なのである。
外国人児童・生徒支援政策の成否は、日本人生徒への配慮がどこまでできるかと歩調を合わせている。
あちこちで見聞きしてきたたくさんの誤解を、思いつく限り挙げてみよう。ほとんどは、善意からの指導であり、研修の機会等がないために、知らずにやってしまっている間違いである。
(1)日本語・母語
・子どもは放っておけば、日本語がうまくなるという誤解
・日常の用足しができれば日本語は問題がなくなったという誤解
・善意だが誤った指導:小学校1年の教科書を意味もわからぬまま何回も視写させる、1年生用のひらがな練習帳を中学生に使わせる
・家庭で日本語を使わないのが、日本語が上達しない原因だという誤解/子どもにとっての母語の役割に気付かない(母語は家庭のコミュニケーション手段である):わざわざ母親を呼び「うちでも日本語を使ってください」と指導したり、「お母さんが日本語を勉強しないのがいけないんですよ」と注意したりする担任もいた)
(2)学校での対応
・「外国人だからといって特別扱いしません。みんなと同じに扱います」という不平等な扱い(結果として同じことができるように必要な指導・援助を行うことが本当の平等ではないのか)
・いずれ帰国するから、楽しく過ごしていれば“お客様”でかまわないという誤解
・生徒の親と言葉が通じないのだから、学校からは連絡を取らないという怠慢
・「余裕があったらやります」という姿勢(必要なことは何らかの制度、誰かの力を借りて「やる」という姿勢)
・担任教師は孤軍奮闘しているが、日本人保護者に対してクラスの実情を説明したり協力を求めたりというようなことをしていない(日本人保護者からは、「先生は外国人の子どもばかり見て、他の子に対する注意がおろそかになっている」というような不満が出てくる)
・生徒が、担任ではなく日本語講師に気持ちを打ち明けることへの不満
・「担任としての責任が果たせませんから、取り出ししないでください」という生徒の“囲い込み”
・「英語が話せる子なら歓迎なんだけどね」というような差別(言語に価値の高低はない。)
(3)学習
・教科ができないのは、もともと能力が低いからだ、あるいはやる気がないからだという誤解
・勉強ができない子は日本人にもいる、外国人だけ指導するのは不公平だとする認識の誤り
(4)アイデンティティ
・「早く日本人になろうね」というような間違った励まし
・学校には秩序が必要なのだから、何でも日本人と同じにしてもらわなくては困るという認識の誤り
・給食で食べ慣れない食品を食べるよう強要する
・「まだ中国語の本を読んでいるの?もう日本語の本が読めるでしょう」というような母語を軽視した発言
・「外国人ばかりで集まる」というような非難(それはいけないことなのか。エンパワメント3) の重要性に対する認識が低い)
現在の制度の運用を工夫することによって、お金をかけずに現状より前進させることは可能な部分がある。ただし、「これならできる小さな工夫」でとどまってはいけない。しかも、本来行政の責任でなすべきことを、仕方なくボランティアや教員が肩代りするのは、教育の前進とは言えないだろう。
(1)学級の中でできること(身近に見てきた担任の先生方の努力の数々)
・クラスの生徒が作業している時間に、ひらがなを指導する…小3
・「配り係」を担当させて、クラスの生徒の名前を覚えさせる…小2
・外国人の子どもが取り組めるテーマを設定したり(作文)、作品制作に取り組ませたりする(図工)…小2
・学活で、外国人生徒を指導者にして、生徒の母語を日本人児童が学ぶ(挨拶、数字等)…小3
・音楽の教材に生徒の国の曲を扱う…小4 (音楽専科教員)
・生徒の国の「絵描き歌」をクラスの子供たちが教わる…小3
・五十音表を作って教室に張り出す…中1*
・名札をつけ、上履きに名を書き、ルビも振る…中1*
・教室の中の備品に日中両国語併記のカードを付ける…中1*
・日本語指導で学習した内容を書いて張り出し、クラスの生徒はその表現を使ってその子に話しかける…中1
(以上*印はクラスの生徒が考え出した取り組み)
・日本語学習と生徒の様子の記録を毎回コピーして関係教員全体に配布する…中1
・給食で食習慣上食べられないものに配慮し、食べられるものについてはクラスの生徒たち全員の合意で優先的におかわりさせる…小3
・「国が違えばいろいろ違って当たり前」という授業をクラスで行う…小3
・毎日「帰りの会」の後で、児童との絵や筆談による5分会話を実践する…小1
・担任が専科教員に依頼し、マット、跳び箱、リコーダーの指導を行う…小3
・家が近所の生徒に夏休みの地区活動参加の付き添い役を頼み、参加させた…小4
・毎日の生徒の変化を克明にノートに記録し続けた担任…小3
・言葉が通じなくても家庭訪問を続けた(生活の安定状況を確認できた)…中1
・クラスのPTAに呼びかけて生活用品を集めた…中1
・遠足のとき外国人生徒のお弁当も作ってきて一緒に食べた…小3
・PTAに頼んで学校中で不用品を集め、ランドセル、体操服等をそろえた…小3
・「○○さんにこういうことを伝えたいがどうしたらわかってもらえるだろうか」とクラスの生徒の知恵を借りる(生徒の方が絵やジェスチャーがうまかったり、「自分がやってみる」と申し出る子もいたりする)…小4
・教室に生徒の母語の辞書を置いて、生徒たちが自由に使う…中1、小3、小4
(都道府県単位で辞書を購入し、必要な学校・日本語担当者に貸し出しをすればいい)
・順番にチューターをする、お世話係りをおく…小3、小4
・学活の時間に通訳を頼み、生徒に母国での様子を話してもらう…中1
・クラスの父母に支援を求め、どんなことができるか保護者会で話し合う…中1
(2)学校外のボランティア団体の活躍への期待
最近は各地でボランティア団体の動きが活発になっている。国際交流協会等を窓口にして、協力してくれる地域の人々を探すことができるようになってきた。そうした動きがなかったころは、以下のすべての問題が学校に持ち込まれていた。
しかし、そろそろ任務分担をはっきりさせる時期である。言語と学習の保障は学校の役割、生活援助と居場所作りは地域の役割と考えることができるだろう。
実際に地域として動きが作り出されているものに次のような事項がある。
@生活相談(親の就職、通院、事故、健康保険、引っ越し、離婚、帰国等についての相談、警察や児童相談所への橋渡し)
A通訳派遣(学校、病院、役所、銀行、買い物、家電修理)
B親、親戚の日本語学習の場
C編入学についての相談と情報提供(学校に行かないでぶらぶらしている少年の発見、学校情報と編入のノウハウを蓄積して、教育委員会に対応)
地域情報をつかんでいると、外国人生徒の誰がどの学校に在籍していて、新しく来日した生徒が誰と一緒なら真面目にやれるか、その逆になるか等の予測もつく。
入学手続き前にボランティア団体と連絡がとれると、編入がうまくいくこともある。例えば、「中学校を卒業した」と一言言ったらもう教育委員会では中学編入を受け入れない。しかし、卒業したという証拠はどこにもない。「卒業してない」と言いさえすれば編入が可能になる。しかし、このような“ワザ”が必要な現状こそ問題である。
D先に定住した先輩外国人たちが、新しく来た同国人の定着を支援(通訳、母語保持教室、子どもの教育相談)
以上は、本来的に地域の支援活動として定着していってほしい事項である。
次に述べるのは、学校が動きを作れないために地域ボランティアに肩代りしてもらっている部分であるとも言える。ただ、学校でなく地域が支援活動をすると、小中学校の境、学区の境を超え、外国から来た子どもたちを地域でまとめて把握することができるという利点がある。
@国際交流協会の活動の拡大(子どものための日本語・学習教室、夏休み集中補習教室)
A受験援助(日本で中学に入れず直接高校を受験する少年・少女のために)
Bボランティア運営の、子どものための日本語・教科補習教室
C母語保持教室
(3)地域のボランティア組織と学校の連携
地域は独自に外国人支援の動きを作りつつある。その動きは活発で、全国的にも大きく広がりつつある。だが、そうした活動に対する学校側の理解は進んでいるとは言えない。今後は、学校側ももっと柔軟に地域と連携をとっていくことが大切であろう。
@国際理解教育の取り組みに国際交流協会の支援を受ける
A学校での外国人生徒の学習援助に、地域でボランティア活動をしている人達に入ってもらう
B学校で使う用具の収集と提供に日頃から地域で取り組んでもらう(ランドセル、絵の具、習字セット、たて笛等)
C学校関係の通訳・翻訳(地域の人が担当してもかまわないプライバシーに触れない内容について)
D外国人児童・生徒のための水泳指導
E遠足のお弁当の作り方指導
水泳・鉄棒・マット・跳び箱・リコーダー等をやったことがない、五線譜を知らない、絵の具の使い方がわからない等々、こういう問題は、どこの学校に入った生徒も同じなので、地域単位でまとめて取り組んだ方が負担が少ない。
Fボランティア補習教室と学校での補習の連携(宿題はどちらに提出してもいい、互いに学習状況をFAX等で知らせ合う)
G生徒の近況を地域を通じて把握してもらう(学校とは退学で縁を切っても、本人は近所に住んでいる。また、学区に線引きはあっても、親戚や同国人のネットワークはもっと外に広がる。“うちの生徒”を超えた把握が必要)
HCCS「世界の子どもと手をつなぐ学生の会」4) 等の学生団体、日本語学科をもつ大学、教会(南米日系人の情報収集センターとして)への協力を依頼する
I地域のボランティアの活動の場として学校施設を開放する(海外の日本人学校補習校のように土曜日に実質的な「補習校」を開くことも可能になるのではないか)
これらの、「今すぐでもできること」は、現段階ではささやかな工夫のレベルで、本質的な問題解決とはみなせない。問題の本質をもう一度「人権」の観点からしっかり問い直し、確認したい。
文部科学省・都道府県は外国人児童・生徒の学習権を保障するため、学校教育としての施策をきちんと実行しなければならない。それに対して地域は、地域のもつ力を発揮する活動の分野で、学校と緊密な連携をはかりながら独自の活動を行うのが本来の役割である。学校の任務の肩代り、経費節約への貢献ではなく、早く本来の役割に立ち戻れることこそが望ましいと考える。
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