終戦前後の満洲における惨劇
(まんしゅう母子地蔵を守る会)
【終戦時満洲における日本人犠牲者】
◎ 満洲国・関東州邦人人口=1.662.234人
満洲国 = 1.433.324(除軍人、軍属、家族。含開拓団) ['44・9,満洲国政府調査]
関東州 = 228.910 ['45・6,関東局調査]
◎ 終戦前後満州 死亡者= 24万5千 (日ソ戦闘間 約 6万、 終戦以後 約 18万5千) (厚生省-『援護50年史』[H9]-P86)
◎ 開拓団= 在籍者27万 (内応召 4万7千、 実在員 22万3千) (満州開拓史[S41]-P436)
死亡= 7万8500 (内戦死,自決 1万1520、 病死 6万6980、 死亡 15人以上 77団)
☆ (参考) 第二次世界大戦死亡者(含 日中戦争) (厚生省-『引揚と援護30年』[S52]-P311)
総計 約 310万人 (内 軍人軍属、準軍属 約 230万、 外地一般邦人 約 30万、 戦災 約 50万)
(内 満洲 245.400、 北朝鮮 34.600 = 軍人軍属、一般邦人)
【個別事件例】
☆ 『東安駅』爆破事件(東安省)
昭20・8・10朝、虎林線東安駅において、日本軍の爆弾、砲弾が爆発、避難列車が被爆、転覆し、一 瞬のうちに多数の死傷者をだす大惨事となった。 (黒咀子開拓団だけでも 死者526名、行方不明236名)
☆ 麻山事件(哈達河開拓団) (東安省鷄寧県、混成)
☆ 佐渡開拓団跡事件 (東安省勃利県←宝清県、長野・茨城)
避難途中犠牲者をだしながらたどりついた7開拓団(3千名)は、20年8月、ソ連軍攻撃、自決5 14、埴科郷開拓団228名、他の6開拓団も1464名の犠牲者を出した。
☆ 小八浪・中川村開拓団(三江省樺川県、埼玉、現荒川村)
昭20・8・13、避難途中ソ連軍、暴民に襲われ、老幼病弱者自決・幼児絞殺・溺殺等生地獄の惨状を呈 した。戦死行方不明300名。約20日後方正に到着後も惨状は続いた。
☆ 小古洞・蓼科開拓団(三江省通河県、長野)
鶴岡炭鉱脱走の労働者等に連日女性が犯され、団長はじめ女性・子供254人が毒薬で自決。
☆ 五家站・来民開拓団 (吉林省扶余県、熊本、唯一の被差別部落移民)
全員青酸カリ自決(275人)。生存者は報告者として脱出した1名のみ。
☆ 大青森郷開拓団 (黒河省遜克県、青森)
8月13日、470人の一行は小興安嶺で、道に迷い、賊に襲われ、山中に老幼傷病者90人を残した。さらに難行を続け、75日目にハルピンにたどり着いた(生存者176人、死者151人、生死不明143人)。
☆ 瑞穂村開拓団 集団自決 (北安省綏稜県、混成)
原住民襲撃、9月17日、 総員1056名中自決495人の殆どが女子、子供。その後も犠牲者、苦難が続き、 21年5月ハルピンで生存が確認されたのは僅か71人(8月引揚時点、118人)。
☆ 亜州白山郷開拓団 (龍江省・富裕県、チチハル郊外、石川ー匪襲) 8月27日 自決365名、生存64名
☆ 哈達湾開拓団 (牡丹江省寧安県、秋田−満軍反乱) 8月19日、自決247名、戦死77名
☆ 鳳凰開拓団(北安省徳都県、岐阜ーソ連軍、土匪) 8月24日、自決216名
☆ 通化事件 (通化省)
'46・2、 中共軍は、旧日本軍人が国府軍と内通して反乱を企てたとして、多くの無関係者まで逮捕 され125名が射殺された。 民間人多数が巻き込まれた惨事として有名。
☆ 敦化(日満パルプ)事件(吉林省)
工場社宅をソ連軍が占拠、連日夫人達が暴行され、ついに30余人が青酸カリ自殺をはかった。 死にきれず助かった人は子供をいれて5名であった。
[興安三事件]
☆ 葛根廟事件
興安総省興安街の住民東部群団と索倫・五叉溝方面からの避難民2千数百名が白城子目指し南下 中、昭和20年8月14日午前11時過ぎ葛根廟近くでソ連軍戦車に蹂躙され、 一方絶望した人達が子供 を殺して、自決をはかり犠牲者千数百名の惨事となった。 辛うじて生き残った人々も飢え、渇きに さいなまれ、原住民に襲撃されて、さらに犠牲者をだしながら荒野を彷徨した。
(なお興安街西部群団1500名は無事南下できた) 《慰霊碑》 五百羅漢寺(東京・目黒)
☆ 東京荏原開拓団 (興安南省・西科前旗)
東京旧荏原区武蔵小山商店街の人達が国策に応えて転業、 昭和18年から19年にかけて千余名が興 安街西北8キロの地点に入植した。 ソ連進攻後、 現地住民に襲撃され、終戦も知らされず、8月16 日白城子に向け逃避行を開始したが、 暴民に襲われ、ソ連機の攻撃を受け、双明子の青麻畑で自決 をはかる者相次ぎ、300余名に及んだ。 脱出組200余名も暴民に銃撃され多くの死者を出しばらば らにされ、帰国できた者はごく僅か。 《慰霊碑》 朗惺寺(東京・小山)
☆ 仁義仏立講開拓団 (興安南省・西科前旗[興安街西方哈拉黒] 東京材木町・乗泉寺信徒)
双明子西方20qソ連軍威圧、土匪来襲、680名中、戦死・自決469、生還20。
《慰霊碑》 乗泉寺(東京・八王子)
【難民収容所例】
[哈爾浜]述べ収容人員20万、死亡5千
[阿城]収容9千、死亡2千、
[長春]最も多い時期収容15万、 死亡3万、
[撫順]収容4万、死亡5千5百、
[奉天]最も多い時期収容10万、死亡5千(乳幼児・老人は半数死亡)。
(越冬開拓団収容 121団 19.318人、 死亡 4.640人)
<例>第9次張文封開拓団(栃木)収容580、死亡125。 第9次馬蓮河久多見(岐阜) 収容180、死亡129。 ある開拓団子供125、死亡124
[方正]収容 8640、 自殺病死 2.360(27%)、ソ連拉致 460(5%)、
脱走 1.200(14%)、現地民妻 2.300(27%)、その他。 《公墓-中国側設置》