【終戦時、満洲日本人人口・犠牲者】
(96・5、中国帰国者問題同友会)
☆ [死亡者] 総数20万名に達すると推定 (厚生省-『続々・引揚と援護の記録』[S38]-P268)
(日ソ戦闘期間中-軍人軍属2万6千名以上、邦人3万名以上。 終戦後-軍人軍属、邦人約14万名)
(国境の戦闘-軍人・軍属約2万5千、邦人約1万。 各地の混乱、疫病、食糧難-軍人軍属・邦人17〜8万)
[行方不明] 3万余名も大部分死亡か (厚生省-『同』-P187〜189)
(「戦闘直前から終戦1、2年後までの期間中に消息を絶った3万余名のいわゆる状況不明者」 の大部分が、今日においては死亡につながる ものと考えざるをえない・・・』
[国際結婚者・孤児=<消息のある者>] 約2.100名(S30・7調)
☆ 終戦前後 死亡者= 24万5千人 (日ソ戦闘間 6万、終戦後 18万5千) (厚生省-『引揚と援護30年』[S52]ーP197)
☆ 在満洲・関東州邦人=155万人 昭20・6以降関東軍召集=15万人 『援護30年』-P89
[註、所謂根こそぎ動員、しかし6月以前から逐次召集されていた]
◇ 在満日本人数=166万人('44・9,含関東州、除軍人・軍属・家族) 145万人('46・5,同)
死亡者数= 17万4022人 (終戦〜'49)、 ['50年以降死亡者、行方不明 約3万] 『満洲国史・上』-P784
◇ 満洲国・関東州人口=1.662.234人 『満蒙終戦史』-P441
満洲国=1.433.324人(除軍人、軍属、家族。含開拓団) ['44・9,満洲国政府調査]
関東州= 228.910人 ['45・6,関東局調査]
開拓団=196.739人-['45・5,満州国国勢調査、]、 満洲国・関東州人口=1.549.700人 ['45・8・9,日ソ開戦時推定]
死亡者=180.694人 ('45〜'49) (長春市-27.669、 奉天市-30.443、 哈爾浜市-15.157、
奉天省-12.353、 旅大地区-16.036 ) 死亡・行方不明=約3万人('50〜)
◇ 終戦時 在満邦人=155万人 [外務省]-『満洲開拓史』-P436
内開拓団=在籍者27万(17%) =内応召者4万七千、実在22万3千(14%)
死亡者= 17万6千人 内開拓団= 8万(45%) =内戦死・自決 1万1520
☆ 引揚開始時 人口('46・5)=136万1千人 (日本人救済総会調査) 『満洲国史・上』-P810
(大連地区-275千、国府地区-808、中共地区-277、<内訳・北満国境-172、老爺嶺以西-36、通化方面-18、本渓湖西側-51>)
<資料>
『引揚と援護』-引揚援護廳、昭25。 『引揚と援護30年の歩み』-厚生省援護局、昭52。 『満蒙終戦史』-満蒙同胞援護会、昭37。
『満洲開拓史』-刊行会、昭和41。 『満洲国史・(上・下)』-満蒙同胞援護会、昭45。 『満ソ殉難記』-満ソ殉難慰霊顕彰会、昭55。
◎ 第二次世界大戦総被害
☆ 第二次世界大戦死亡者(含 日中戦争) (厚生省-『引揚と援護30年』 [昭52]-P31
1) 総計 約 310万人 (内 軍人軍属、準軍属 約 230万、 外地一般邦人 約 30万、 戦災 約 50万)
(内 満洲 245.400、 北朝鮮 34.600 = 軍人軍属、一般邦人)
☆ 太平洋戦争人的被害 『太平洋戦争による我国の被害総合報告書』 (経済安定本部官房企画部調査課ー昭24,4,7)
| 合 計 | 死 亡 | 負 傷・行方不明 |
総被害 | 2.533.025人 | 1.854.793人 | 678.232人 |
銃後人口の被害 | 668.315 | 299.485 | 368.830 |
(昭23,5現在判明数) [註] 空襲被害 99.5%。 都市被害 94% |
軍人軍属の被害 | 1.864.710 | 1.555.308 | 309.402 |
[註] 昭和17〜23末迄の累計、但し負傷行方不明中陸軍関係は昭20,12現在判明数にて調査洩れ相当ある見込み。なお陸軍関係消息不明者約24万、詳細不明計上せず |
◎ 沖縄県被害 (死亡) (沖縄県生活福祉部援護課-昭54) 住民 94.000
軍人軍属 94.136 合計 188.136