私のふるさと

M.M(梁雪江)

 故郷とは何だろう。普段は何気なくこの言葉を使ったりするが、深く考えたことはなかった。とりあえず、辞書を引いてみた。それによれば、故郷とは“生まれ育った土地”である。しかし、第二の故郷という表現も成り立つ。
 人間が生まれてくるのは一回だけしかありえず、なのに、第二というのは変な表現だなぁと感じた。しかし、私自身も長野県下伊那郡平谷村を自分の第二の故郷であると話すことがある。だとすれば、故郷というのはおそらく、何かの固定的なものを指すものではなく、心の中に存在するものあるいは認識されるものなのかも知れない。と、故郷について少し考えてみた。
 いずれにしろ、右の三枚の写真は間違いなく、私が生まれ育った土地―故郷―である。私が13歳まで暮らした中国黒龍江省樺南県閻家鎮徐家村の風景である。

 一枚目、私が生まれた家。私とほぼ同年齢である。築約30年前後。

 二枚目、私が通った小学校。小学校3年生ごろに、この校舎が新築され、
小学校を卒業するまで通った。今は小学3年生までのクラスしかない。

 三枚目、鉄道。生家は村の北に立てられていたが、
その後、村の一番南に引越しした。家の前には道路があって、
その先にはこの鉄道がある。

かつての最寄り駅閻家駅(今はなくなったという)

  

 徐家村、昔は徐という地主がいたことから名づけられたという。1930年代の後半に、日本国埼玉県荒川村から送出された中川開拓団がここに入植していた。1945年、日本の敗戦を機に、開拓団の人たちはここを離れていった。しかし、かつての開拓団が住んでいた家屋はいまだに村の中にある。私がそれに気付いたのは、日本にやってきてからであった。

写真:かつての満洲開拓団の跡

 開拓団民の家。屋根は何度も修理されているが、それ以外は当時のままだという。当時はこの周辺に五つの家しかなかった。中国人の家は離れたところにあった。

 当時の家畜小屋

 駅の見張りのための建物。二階の部分は後に付け加えたものである。

 徐家村は豊かな村ではなければ、何か目立ったものがあるわけでもない。しかし、その長閑な田舎風景はいまだに私にとって魅力的である。これも今、私がそこから離れているから、感じ取れるノスタルジア的な気分でしか過ぎないかもしれない。

 現在、村には百貨店3軒がある。ここは単にものを売るだけではなく、ひとつの社交場として機能している。
 各家では多くの家畜を飼っている。鶏、アヒル、ガチョウ、豚、牛、馬・・・。

 

 ほとんどの家には野菜を栽培するための庭がある。茄子、キュウリ、トウガラシなどの野菜から、果物まで栽培している。
  
 食事時でもなると、家の煙突から煙が立ち上がる。

 

 昔は井戸を使っていましたが、現在は水道ができて、それを使っている。水はそのままでも飲める。

 この故郷についての記憶はさらにたくさんある。……。それは私の今後の人生の中において、さらに想像されていくのに違いない。