Q1: |
どんな人を「樺太(サハリン)残留邦人」というのですか? |
(1)終戦前の樺太(サハリン) |
明治38年(1905年)、日露戦争後のポーツマス条約で北緯50度以南が日本領「樺太」となりました。豊原(現ユジノサハリンスク)に樺太庁が置かれ、豊富な資源の開発を中心に力が注がれ、多くの日本人が入植しました。また、朝鮮半島などからも多くの労働者が送り込まれました。 |
(2)ソ連参戦と避難 |
昭和20年8月9日のソ連参戦で樺太も戦闘状態に入りました。ソ連の攻撃は23日まで続き、軍人軍属2,500人、邦人2,000人が死亡したと言われています。
中国旧満州地域では数百キロにわたる逃避行の過程で数多くの孤児が発生しましたが、樺太では事情が違い孤児が発生するということはありませんでした。 |
(3)残留邦人の発生 |
終戦後、集団引き揚げによりたくさんの人々が本土に引き揚げましたが、戦後の混乱の影響で日本に帰れず、樺太に留まらざるをえない人もいました。これら樺太にとどまった人たちの多くは鉄道員や炭坑・製紙関係者、学校教師とその家族等で、中にはシベリア等へ送られた人もいます。終戦直後には密航というような方法で脱出した人々もいましたが危険を伴うものでした。 戦後も長い間樺太にとどまらざるをえなかった人々の多くは朝鮮半島出身者と結婚した日本婦人でした。日本人であることを隠し、日本語を使うことができないような暮らしを続けてきて現在なお、450人ほどが在住していると推測されます。これらの人々を「樺太残留邦人」と呼んでいます。 |