あなたの隣に住む
10人の婦人の実話です

帰国した中国残留婦人と若いボランティア達の記録

 「父が語ってくれた昔話」

 「戦争なんてして何になる」

 「活動写真とは違っていた満州」

 「忘れられない牛の涙」

 「わたしは百姓が好きだから」

 「親を捨てるか、子を捨てるかと選択をせまられ」

 「零下30度の寒さに、むしろ一枚で寄り添いました」

 「娘たちが渡った満州」

 「避難所で両親を亡くして」

 「あの出来事があってから心から笑えなくなりました」

目次より

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「道なき帰路」

中国残留婦人聞き取り記録集

[A4版 104ページ]
編集・発行
中国帰国者の会
定価1,300円(郵送料・税込み)
ご注文・お問い合せは
(有)シノワまで
電話 03-5276-3299 FAX 03-5276-3629
E-mail  chinois@netlaputa.ne.jp

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『道なき帰路』の発行に寄せて

『道なき帰路』中国残留婦人聞き取り記録集
―帰国した中国残留婦人と若いボランティア達の記録―

  「中国帰国者の会」 佐藤鉄郎

1,「中国帰国者の会」とは

http://kikokusha.at.infoseek.co.jp/ (紹介ページ)

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2,中国残留婦人のお話を残さなければ

 会の活動の中で、中国残留婦人の問わず語りのお話をうかがう機会が何度かありました。その内容はいずれも私たちの想像を絶する苦痛と苦悩に満ちたものでした。「満州」に渡る以前に聞かされていた話とは全く違った開拓団の現実、1945年8月9日のソ連軍侵攻以来余儀なくされた逃避行の惨状、中国にとどまることになって複雑な気持ちで過ごした日々、帰国をめぐる葛藤など…。いずれも真実ならではの迫力あるお話でした。
 私たちはそうしたお話をうかがうたびに、戦争がもつもう一つの過酷な面を知らされることになりました。そして二度とその悲劇を繰り返さないために、現代を生きている私たちがきちんとその内容を受けとめなければならないとも思いました。しかし、翻ってみるとそうした残留婦人のお話は一般にはほとんど知らされていないことです。お話どころか彼女らの存在自体がそれほど知られていることではありません。それらはみな敗戦とともに彼の地に置き去られてきたことでした。
 ところで、残留婦人が語ってくれるお話についてはもう一つ重要な問題がありました。それは彼女らが高齢化しつつあるということです。すでに70歳代に達し、なかには80歳代の人もいるという状況です。より若い世代である残留孤児の場合、多くはそもそも自分が孤児になった経緯を正確には記憶していませんし、また言葉の問題もあって、中国語を理解できない人たちに詳細な事実や複雑な心境を伝えることは難しいことです。とにかく残留婦人たちに直接語ってもらわないことには、一度置き去られた戦争の一面が浮かび上がることはありません。そしてそのために残された時間は残念ながらそれほど長くはないのです。

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3,若い人たちが聞いてこその価値

 残留婦人のことがあまり知られていないということは、実は私たちの「会」にとって他人ごとではありませんでした。ボランティアとして残留婦人や残留孤児、そして彼らの家族に日本語を教えている若い人たちも、この問題を十分に知っているとはいえない状況があったのです。ただ「日本語を教える経験ができるから」といった動機で「会」に関わっている人が少なくないのです。それ自体むろん悪いことではありません。それも一つの参加の仕方だと思います。しかし、せっかくボランティアとして関わっていながら、目の前にいる人がたどってきた歴史的に貴重な体験を知らないでいることは、双方にとってもったいないことであると思いました。
 一方で残留婦人たちのお話をぜひとも聞かなければならない、それもそれほど時間的余裕がない状況で聞かなければならない。他方で「会」に参加している学生をはじめ若い人たちに広く事実を知ってもらいたい。この両者を有効に結びつけるために、私たちの「会」では若い人たちが中心に、残留婦人にお話を聞く機会を設けることにしました。若い人たちが直接残留婦人のお話をうかがう、そこに二重の意味での成果を期待したのでした。

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4,聞き取り委員会をたちあげました

 2001年に聞き取り委員会を正式に立ち上げました。もっとも、これは「会」としてはじめての立ち上げではありませんでした。1998年にも聞き取りを行う動きがあり、実際に8名の残留婦人に聞き取りを行いました。しかし、それらの試みはいずれも主として聞き取りを行う側の都合によっていったん挫折していました。
 そうした経緯もあって、今回の聞き取り委員会は「一歩後退」を許さない覚悟で臨んだつもりです。中心メンバーとなったのは若い学生たちです。彼らに社会人が加わって、それなりに手厚い布陣が敷かれました。綿密に打ち合わせを繰り返して、聞き取りを引き受けてくれるであろう残留婦人をリストアップしました。そしてその対象の残留婦人宛てのアンケートであらかじめ聞き取りの可否を確認しました。そして聞き取りOKがでた残留婦人について、聞き取りグループを編成しました。聞き取りグループはのべで15グループできました。各グループごとに聞き取り対象となる残留婦人と、いつ・どこで・どれくらい話をうかがうかを打ち合わせをしました。
 お話は残留婦人の自宅や指定の場所で行われました。全てテープに録音させていただき、それを文字に起こし、さらに整理して文章化していきました。1回の聞き取りで不十分だったり不明確だったところは2回、3回と繰り返し行いました。

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5,聞き取りを通じて考えさせられたこと

 聞き取りを経験して考えさせられる問題がいくつかありました。
@どの残留婦人からもお話をうかがえるわけではありません
 開拓団暮らし、逃避行、そこでの惨状、その後の中国での暮らし、いずれも残留婦人にとっては重苦しい経験です。二度と思い出したくない、二度とふれられたくないということもあるでしょう。私たちがいかにその歴史的意義を強調しようとも、全ての残留婦人がすすんで話してくれるというわけではないのです。ひとたび残留婦人たちの心に刻み込まれた傷は一生かかっても癒えることはないのだとも思います。その傷をあえてえぐり出すことを拒否する人がいたとしてもそれを責めることは誰にもできません。複雑な心境を乗り越えて、あえて後世の私たちのために話してくれる残留婦人が一人でもいることの方に感謝しなければならないのだと思います。
 もっとも、話してもよいと言われた残留婦人のなかにも、特に健康上の理由で聞き取りを続けられなくなるという経験も私たちはしました。私たちはそうした事実に直面した時は、「取り組みが遅かった!」と後悔の念でいっぱいになりました。
Aくぐもってしまう話
 いったん話してくれることにした残留婦人たちも、決して何の抵抗もなくスラスラ話ができたというわけではありません。実際に話している時の心境はかなり複雑だったようです。特に、一番自分にとって辛い出来事を話す時には心が揺れ動いていたのではないかと思います。『道なき帰路』に収録されていますからここで取り上げてもかまわないと思いますが、目の前で自分の父が実の子を数人拳銃で撃ち殺した場面に遭遇した残留婦人がいます。追いつめられた父は持っていた銃で家族を殺し、最後は自分も死のうと思ったのでしょう。幸いというか、銃弾がなくなって、父・母そして後に残留婦人となる娘の一人である彼女は助かりました(ついでにいえば、この時亡くなったとばかり思っていた彼女の妹が、実は生き残っていたのでしたが)。この時の話は聞き取るたびに、内容が微妙に違っていました。記録をとる方としては事実をはっきり確認したいという気持ちから何度も質問を繰り返したのですが、そのたびに答は曖昧になり、話題がそれていったりしました。後で冷静に考えてみて、その残留婦人は事実を覚えていないのではなかったことに気づきました。事実は逆で、おそらく鮮明すぎるほどに覚えているのです。あるいは今でもその時のことがはっきりと目に浮かび、そのたびに胸が張り裂ける思いをしてもいるのだと思います。だからこそ話せないのです。その事がわかってから、それ以上聞くことはやめました。おおよそ想像できるところを記述して「これでいいですか?」と聞くと、ただ頷いていまし
た。
 話してくれたことにもその背後には実に複雑な思いが交錯しているのです。『道なき帰路』でそこまでは表現できませんでしたが。
B中国には感謝
 自分の意に反して中国に残留することになった残留婦人たち、当初は中国での生活に戸惑いを感じるのが通例でした。生活慣習はまるで違います。そもそも言葉が通じないわけですからそれも当然です。またすでに日本人と結婚していて、その結婚相手の安否もわからないまま、幼子を抱えて生きていくためにやむをえず中国人と再婚したというような場合には、別の意味で戸惑いがありました。しかも中国では常に特別な目で見られ続けました。文化大革命の時には実際に自分自身または家族が辛い目にも遭っています。しかし、お話をうかがっていると残留婦人からは中国・中国人への批判はあまり聞かれませんでした。むろん中国でできた家族への愛情があるからなのでしょうが、さまざまな複雑な思いを時の流れのなかで溶かしていく中国・中国人の力もそこに作用していたのかなと思いました。そこにはとてもあたたかい何かがあったのだと思います。
C日本を批判する話もあまり聞かれません
 というわけで残留婦人が中国・中国人を批判することはあまりないのですが、日本に対する批判もあまりありませんでした。彼女らを中国の地に送り出し、そして置き去りにしたのは紛れもなく日本軍であり、日本政府でした。にもかかわらず、残留婦人からは国の開拓団政策や、その後「棄民」とさせられたことへの表立った批判は聞かれませんでした。帰国、日本での生活再開についても同様でした。例えば、生活保護受給をめぐってさまざまな嫌な思いをいったん吐露した残留婦人が、その後「その箇所は削ってほしい」と言ってきたこともありました。聞き取る側としては、帰国した後もなおさまざまな問題を抱えている残留婦人に、ぜひ政府に対してもの申してほしいなどと思ったりするのですが、概してそのような話は聞かれませんでした。今さら過去のことで事を荒立てたくないということなのでしょうか、帰国してそれなりの安住の時を迎えられているからなのでしょうか、あるいは自分の発言が現在の家族などに迷惑をおよばせてはいけないという思いからなのでしょうか。いずれにしても私たちにはそれ以上踏み込む権利も理由もありません。

 こうして聞き取りはその記録のみならず、いくつかのことを聞き取る側にも考えさせるものでした。歴史の検証と継承とはこのようなものかもしれません。

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6,とうとう本が完成

 こうしてどうにか聞き取りをし終えたのですが、ここから冊子にまとめるまでも紆余曲折がありました。膨大な量のテープを書き起こすことも大変でしたが、それだけでは「読める」ものにはなりません。それなりに編集して文章化しなければなりません。必要な場合には再度残留婦人に確認のための聞き取りも行わなければなりません。そのような作業をしている間に聞き取りグループのなかに仕事や勉学上の理由からリタイアしていく人も出てきました。
 結局少数の編集委員に最終編集をお願いして、本の形にまとめることにしました。編集委員のなかにたまたま印刷・デザインなどの専門家がいて、その人の力に相当部分依存しながら、何とか最終稿を仕上げることができました。こうしてようやく完成した本、タイトルは編集委員の投票で『道なき帰路』と決まりました。03年5月30日発行、6月7日には『道なき帰路』のお披露目をかねたお茶会を開き、残留婦人の方6名にも参加していただきました。彼女たちはできあがった本をながめつつ、過去のさまざまな場面を語ってくれました。が、同時に口々に体調の悪化を訴えておられ、今更ながらに彼女らの健康の問題が気にもなりました。しっかりとした医療サービスを受け、長生きをして少しでも楽しく人生を過ごしていってほしいと思います。

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7,本を広めていきたいと思います

 『道なき帰路』、この本のなかには貴重な歴史的証言が詰まっています。10人の残留婦人がいわば渾身の力をふりしぼって私たちに語ってくれたことです。私たちはこれを少しでも多くの人たちに読んでいただき、その意義を考えていただきたいと考えています。
 そして、私たちは引き続き聞き取りを続けていくつもりでいます。今回健康上の理由で聞き取りを完結できなかった方もいらっしゃいます。また、まだ私たちの「会」とコンタクトがとれていない残留婦人の方も少なくありません。時間との競争のなかで、可能な限り多くの残留婦人にお話をうかがいたいと思います。
 また、一つの願望として、残留婦人のお話と、それに対する若い世代の人たちの感想を織りまぜた形での本ができたらいいなあといった思いもあります。